饗応接待

 果林と別れ、木場とガマ警部は今度こそ執事の部屋に向かった。公子と灰塚から話を聞いてもよかったのだが、先に使用人から話を聞いておきたいと思ったのだ。


「ふう。なんか疲れてきましたね」木場が額を手で拭った。

「ちょっと休憩しませんか? 使用人の人に頼めば、コーヒーくらい入れてもらえるかもしれませんよ」


「まだ聞き込みを開始してから二時間も経っていないだろう。この程度で根を上げてどうするつもりだ?」ガマ警部がじろりと木場を睨んだ。


「うーん、普段は自分ももっと元気なんですけど、今日は妙に疲れてるんですよねぇ。人間の裏側みたいな話ばっかり聞いてたせいかもしれませんけど」


 独占欲が強く、家族を支配していた夫。金目当てで夫と結婚した上、家庭教師と不倫していた妻。母の不倫をネタにした上、父親への嫌悪感を隠そうともしなかった妹。家庭内の人間関係の内実を知れば知るほど気が滅入ってくる。


「一課の刑事なんぞそんな仕事ばかりだ。事件が起こるたび、人間がいかに欲深く醜い生き物かを否が応でも見せつけられる。憧れだけで一課に来た連中は、目の前の事件の凄惨さや、事件の背景にある生々しい愛憎に耐え切れずに辞めていく。お前もそのクチなら、さっさと異動願いを出すことだな」


 ガマ警部が冷たく言った。片手で反対側の肩を揉んでいた木場が慌ててぶんぶんとかぶりを振る。


「嫌ですよ! 自分は一課の刑事になるのが夢だったんですからね! こんなことくらいじゃへこたれませんよ!」


 急に気力を取り戻して叫ぶと、木場は執事の部屋に向かって一直線に走って行った。


 まったく、元気だけはいい奴だ。ガマ警部は額に手を当ててため息をついた。


 


 執事の部屋は、一階西側の突き当りにあった。ちょうど霧香と果林の部屋の真下だ。


 木場が扉をノックすると、落ち着いた男の声で「どうぞお入りください」という返事が聞こえたので、木場は扉を開けて中に入った。


 それは霧香の部屋の半分くらいの面積しかない、小さな部屋だった。部屋の両脇には本棚が並び、本が一部の隙間もなく収まっている。正面には事務机があり、きちんと角を揃えた書類が何枚も重ねられている。


 その机に座り、羽ペンを使って何やら書き物をしている初老の男の姿が目に入った。すでに七十歳を超えているのか、頭部は見事な白髪で、鼻の下には綺麗に切り揃えた髭を生やし、鼻の上に丸眼鏡をちょこんと乗せている。体型は非常に小柄で、椅子から伸びる足は床に届いていない。燕尾服の背中は猫背気味に曲がり、普段から腰の低そうな様子が窺えた。


「あなたが執事の松田さんですか? 自分は警視庁捜査一課の木場と申しますが……」


 木場がそう言った途端、執事がぽろりと羽ペンを取り落とした。慌てて椅子から立ち上がり、腰を屈めながらいそいそと木場の元へやって来る。


「これはこれは、警察の方でしたか。何のおもてなしも差し上げずに大変失礼いたしました。少々お待ちください。今、お茶とお菓子をご用意いたしますので」


 執事はそう言うと、傍らの丸テーブルに置いてあったベルを鳴らした。すぐに扉がノックされ、メイドが顔を覗かせる。


「松田様、いかがなさいました?」


「警察の方がお見えだ。大至急、お茶とお菓子を用意してくれ」


「かしこまりました」


 メイドは恭しく膝を折ると、音も立てずに扉を閉めた。木場は呆気に取られて一連の光景を眺めた。


「あ、あの、すみません。自分達は事件についてのお話を聞きに来ただけで、気を遣っていただかなくてもいいんですよ」


「いいえ、そうは参りません。たとえ警察の方であろうと、この屋敷に一歩足を踏み入れられた方は、私どもの大切なお客様であることに変わりはありませんから」


 松田が強情に言った。そうしている間に再度扉がノックされ、先ほどのメイドがお盆を抱えて戻ってきた。お盆の上には焼きたてらしいクッキーと湯気の立つ紅茶が並び、食欲をそそる香りを漂わせている。木場は自分が昼食を食べていないことを思い出し、途端に腹の虫が鳴りそうになった。


「悪いが、俺達は呑気にお茶を楽しんでいる暇はないんだ」ガマ警部が痺れを切らしたように言った。「俺達は事件の話を聞きたいだけで……」


「ま、まぁいいじゃないですか警部。せっかく用意してもらったんだから頂きましょうよ。食べながらでも話はできますし」


 木場が腹の虫を抑えながら言った。メイドがお盆を丸テーブルの上に置き、芳醇な香りがますます鼻孔を擽る。


 ガマ警部はじろりと木場を見たが、さすがの警部も腹の虫には勝てなかったのか、渋々頷いた。

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