供述 ―雨宮霧香(2)―
「それで……あんたが被害者の傍を離れた時間と、崖に戻ってきた時間は何時だ?」
ガマ警部がやりにくそうに尋ねた。霧香は両手から顔を上げると、目尻に溜まった涙を拭いながら答えた。
「父の傍を離れたのは……崖についてから五分ほど経った後でしたから、九時四十五分頃だったと思います。それから屋敷に戻ってプレゼントを探したんですが、置いた場所を忘れてしまって……。ようやく見つけて屋敷を出た時には十時を回っていました。時計を見ましたから間違いありません」
「屋敷に戻る前に物音は聞かなかったか? 雨宮がいつ転落したのか、という話だが」
「いいえ……何も聞いておりません。ただ、あの晩も風が強く、海は荒れておりましたから、気づかなかっただけかもしれません」
「屋敷を出た後はどうだ?」
「それもありませんでした。その時には風は止んでおり、海も静かでした」
「つまり、あんたが傍を離れた十五分の間に雨宮は死んだということか……。死体を発見したのはあんたか?」
「はい……。私が崖に戻ると父はおらず、車椅子も見当たりませんでした。
私……父に何かあったのかと思って、急いで辺りを探したんですが、どこにもいなくて……。それで恐る恐る崖から海を覗いてみたら……そ、そこに……」
霧香の顔が見る見る青ざめ、恐怖に声を詰まらせた。おそらく死体発見時にも同じような反応をしたのだろう。知らないうちに木場の手に力が入り、ボールペンからインクが滲み出した。
「それで、雨宮の死体を見つけた後であんたはどうしたんだ?」
「……私一人ではどうしようもありませんでしたから、助けを呼ぼうと思って急いで屋敷に戻りました。屋敷に入ったところで松田さんに会いましたので、警察への通報をお願いしました」
「松田? 初めて聞く名前だな。誰のことだ?」
「この屋敷に仕えてくださっている執事の方ですわ。私も小さい頃からお世話になっております」
「執事の松田さんですか。後で話を聞かないといけませんね」木場が手帳に情報を書きつけた。
「ふむ……。だがこれで、死亡推定時刻は随分絞り込めたようだ」ガマ警部が顎を擦りながら言った。
「雨宮が一人でいたのは九時四十五分から十時の間。十五分というのは犯行時刻としては短いが、車椅子の人間を突き落とすだけなら十分だろう」
木場も頷き、手帳にボールペンを走らせた。殺人事件の可能性が高いと聞いたことで、がぜんやる気が漲ってくる。
「あの……すみません」
不意に消え入るような声がした。木場が顔を上げると、霧香が両手を胸の前で重ね、不安げな眼差しで自分達の方を見つめていた。
「霧香さん? どうしました?」
「あ、いえ……。刑事さんは今、誰かが父を突き落としたとおっしゃいましたけれど、父の死は事故じゃありませんの?」
「現場を見ていないから何とも言えん。事故か自殺、あるいは殺人。全ての可能性を想定して聞き込みを進めているところだ」
ガマ警部が答えた。警部が言い終わるか終わらないかのうちに、霧香の顔がみるみる青ざめていく。
「霧香さん? 大丈夫ですか?」木場が心配そうに尋ねた。
「え、ええ……。まさか、事件の可能性があるなんて思いもしませんでしたから……」
霧香は額に手をやると、ふらふらと椅子にへたり込んだ。
木場は不思議そうに霧香を見つめた。突然どうしたのだろう。事件の可能性を示唆されたことがよほどショックだったのだろうか。
「あの……刑事さん、申し訳ないのですが、少し休ませていただいてもいよろしいでしょうか? 何だかひどく疲れてしまったようで……」
霧香がおずおずと言った。実際、霧香はかなりぐったりしていて、顔色も悪そうに見えた。繊細そうな霧香のことだ。慣れない警察の聞き込みで体力を消耗してしまったのだろう。
「そうだな。他にも聞きたいことはあるが、今はこのくらいにしておこう」ガマ警部が頷いた。
「あんたのおかげで有益な情報が得られた。礼を言う」
「いいえ……。私にできるのはこれくらいですから」
霧香が弱々しく笑った。木場はそんな彼女の様子をじっと見つめていたが、やがて何かを決意したように表情を引き締めると、一歩前に出て言った。
「あの……霧香さん。お父さんを亡くされたこと……さぞショックだろうと思います。でも安心してください。もしこれが殺人事件だったとしても、自分が絶対に犯人を捕まえて見せますから!」
霧香はびっくりした顔で木場を見返した。木場は彼女から目を逸らさず、一心にその視線を受け止めた。
霧香はなおも目を瞬かせていたが、やがてふっと表情を緩めた。姿勢を正し、無理をしたような微笑みを浮かべる。
「……ありがとうございます。刑事さんにそう言っていただけると、私も安心できる気がします」
その虚ろな微笑みが火をつけたのか、木場は拳をぐっと握り締めると、霧香に向かって何度も頷いて見せた。
どうやらこの若い刑事は、儚く頼りなげな霧香の姿にすっかり心を奪われてしまったようだ。早くも生じた不安の種に、ガマ警部は大きくため息をついた。
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