潮騒の現場

 それからきっかり三十分後、木場とガマ警部は現場に到着した。フロントガラス越しに現場となった屋敷を確認する。


 それは切り立った岸の上に一軒だけ聳える邸宅で、まるで中世ヨーロッパの屋敷を模したような外観をしていた。左右に広がる壁は黄色い煉瓦造りで、等間隔に小さな窓が設えられ、両端にある塔のような箇所に黒い円錐形の屋根が被せられている。時代と国境を飛び越えたようなその屋敷を、木場は初めての海外旅行を経験した大学生のような顔で見つめた。


「うわぁ……すごいですね、この屋敷。なんかこう、いかにもミステリー小説に出てきそうな曰く付きの場所って感じです」


「……これは小説じゃなくて、現実に起こった事件だがな」


 ガマ警部が釘を刺した。木場が叱られた子どものようにしゅんとする。


「それにしても、こんな危なっかしい場所にわざわざ屋敷を建てるとは……、雨宮はとんだ酔狂な男だったようだな」


 ガマ警部が顔を横に向けて窓の外を見やった。崖から海面までの距離は相当高く、海抜五十メートルはありそうだ。津波が届く高さではないが、崖が崩れれば屋敷ごと海に転落する危険性は十分にある。こんな場所に住居を構える理由はまるで見当たらない。


「雨宮さん、よっぽど海が好きだったんでしょうか? 波の音を聞くと気分が落ち着いたとか」


「さぁな。金持ちの考えることはよくわからん。それよりも早く行くぞ。いつまでも車内で食っちゃべっているわけにはいかん」


 言うが早いが、ガマ警部はパトカーの扉を開けて出て行ってしまった。木場も慌ててシートベルトを外すと、自分も車の外に出た。




 扉を開けた途端に強風が吹きつけ、木場は咄嗟に髪を押さえた。潮の香りが鼻孔をくすぐり、押し寄せる波の音が耳に飛び込んでくる。波は大きくうねりを上げて陸地へと向かい、岸壁に打ちつけられては翻り、飛沫を上げて海へと還っていく。一定の間隔で繰り返される自然のダイナミズムを前に、木場は一瞬、事件の捜査に来ていることを忘れた。


「木場! ぼけっとしてないで早く来い」


 ガマ警部の怒号が飛んだ。木場は我に帰ると、慌ててパトカーを回り込んでガマ警部の隣に立った。すでに先発隊が到着しているようで、無造作に駐車されたパトカーの頭上で、この場に不釣り合いな赤いサイレンが点滅している。


「いやぁ……これが現場かぁ……」木場がしみじみと言った。


「何かこう、緊張感が全然違いますね。つい最近まで反則切符切ってたのが嘘みたいだ」


「おい、呑気なことを言ってる場合じゃないぞ。もしこれが殺人事件だとすれば、この屋敷の中に犯人がいるかもしれん。見学気分でいるのなら今すぐ帰れ」


 ガマ警部が冷たく言い放った。木場は慌てて胸の前で両手を振る。


「す、すみません。何せ自分、初めての捜査でちょっと舞い上がっちゃって。でも大丈夫です。これからはちゃんとガマさ……警部の指示に従って頑張りますから!」


 木場がぴしりと敬礼した。ガマ警部はいかにも信用していなさそうな視線を木場に送った後、ふんと鼻を鳴らして屋敷の方に向き直った。


「でも警部、捜査ってまず何から始めればいいんですか?」


「捜査の基本は聞き込みと現場の調査だ。先発隊からの連絡によれば、今現場は鑑識が調査している。先に家人への聞き込みを済ませるのがいいだろう」


「聞き込みかぁ。一回やってみたかったんですよね! こう、一癖も二癖もある人間をごりごり搾り上げていくわけですよね? みんな腹に一物を抱えていて、自分に都合の悪い事実を隠すんですけど、情報を突合する中で徐々に真相が明らかになっていって……。そのカタルシスはやっぱり最高ですよね! よし、張り切っていきますよ!」


 木場はスーツの袖をたくし上げて腕まくりのような動作をすると、意気揚々と屋敷へと乗り込んで行った。


 ガマ警部は額に手を当ててため息をついた。先が思いやられる――。声に出さずとも、彼の顔にははっきりとそう書いてあった。

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