褪せた玲瓏
兎月 ハル
軋轢
いつの日からか、人の声が苦手になっていた。どうしてなのかは分からない。ただ不規則に放たれる言の葉が、やけに耳にこびりついて仕方なかった。音の大きさは特に関係がなく、単に発言に含まれている感情や意図を汲み取る過程で精神的に辛くなってしまうのだ。必要以上に深読みして勘違いを引き起こしてしまうこともあれば、明後日な行動に出てしまい必要のないトラブルを巻き起こしてしまうこともあった。自分の想いを伝えるよりも、周りの反応に合わせて動くほうが遥かに楽だと、思い知っていた。
「はい、じゃあ今日のホームルームはここまで、気を付けて帰れよ」
ぼうっとしていたら下校のチャイムが鳴り始めていた。担任が教室を出ていくとクラスメイトも一斉に席を立ちだす。一気に響きだす生活音に顔が歪んだ。静寂から一変、喧騒に包まれるこの瞬間はいつまで経っても慣れない。長い長いチャイムが鼓膜を伝って脳みそを震わせてくる。椅子を引く音や話し声も合わさり、不快感が増した。さほど音は大きくないはずだが、どうにもこの空間に長居するのは嫌だった。さっさと帰り支度を済ませて廊下に出る。少し空いている窓から秋の涼しい風が抜けてきて、制服のリボンを揺らした。廊下へ出ると、担任がいつまでも残らないようにと声掛けをしていた。
不意に胸の辺りがもやもやと苦しくなり始める。息が詰まりそうになり、下を向いていないとパニックになりそうだった。四方を囲まれて身動きが取れないような不可解な緊迫感に捕らわれて気持ちが悪い。なんとか息を整えていると、担任がこちらに来るのが見えた。
「下向いてたけど、大丈夫か?」
どうやら見られていたようだ。ここで何か問題を起こしては面倒くさいことになる。急いで平静を保ち笑顔を作った。
「すみません、もう平気です、少し立ち眩みがしただけなので」
「そうか、無理はしないようにな」
担任が去っていくのを確認して、そっと笑顔を崩した。万が一にも体調を崩して両親に連絡がいけば、余計な心配をかけてしまうことになる。それは避けておきたかった。
ただひたすらに歩いて着いた昇降口は、沢山の生徒で溢れ返っていた。靴箱の扉が開いては閉まるのをBGMに聞こえてきたのは、どこかの部活の練習メニュー、これからどこに遊びに行くか、塾に行くのが面倒くさいこと、恋愛話、とりとめのない話が次から次へと脳みその中を引っ掻き回しては過ぎ去っていく。沢山の情報の海に放り込まれたようで、自分の靴箱にいつまで経っても辿り着く気がしなかった。
「わっ」
急に背中に衝撃が走った。振り返ると男子生徒が数名立っていた。
「あ、さーせん」
「いえ…」
彼らが目の前を通り過ぎた瞬間、小さく舌打ちが聞こえてきた。誰がしたのかは分からなかったが、さっきの集団の誰かがしたのは間違いない。呆然と立っていたから通行の妨げになってしまったのだろうか。人通りの多いこの時間帯で不機嫌になっていたのかもしれない。初めから端によって邪魔にならないところに居れば良かったのかもしれない。どちらにしても、もう誰かの邪魔になってしまってはいるのだが、こういうとき、自分の視野の狭さに嫌気がさす。今日何度目かも分からない溜め息が出た。
しばらく待っていると、ようやく人の波が落ち着いてきた。なんとなく動けずに秋風が通り抜ける昇降口を眺めていると、さっきとは違う息のし辛さがあった。踏み出す一歩が、腕や手が、誰かにしがみつかれているように動かしにくい。左肩にかけて持っているスクールバックがさらに重く感じた。
「それでさー、あいつマジで意味わかんなくて嫌いなんだよねー」
「いわゆる優等生ちゃんみたいな?誰にでもいい顔してるらしいじゃん」
「そうそう!」
少し後ろで会話している声が耳に入ってきた。聞き覚えはなかった声だったのでひとまず安心する。すれ違った際にちらりと制服のリボンを確認した。自分の着けている赤のリボンではなく淡い青のリボンだったので一学年下の一年生だと分かった。後期が始まり学校にも慣れてきたのか、四月ごろに校内で見かけられていた緊張している表情はすっかり抜け落ちていた。
「いいな…」
なんとなく口から零れていた。聞こえてしまったのか、ちらりとこちらに視線が来たのを感じた。慌てて視線を逸らすが、彼女たちはとっくに外履きに履き替え始めていた。
「…はぁ」
笑顔で何の隔たりもなく、気も使うこともなく話ができるような環境に自分がいたらと想像してしまう。そうすれば、周囲の様々な音に気を取られることも減って、楽しい学校生活が送れるのではないか。現状一人きりの自分には夢物語な想像をしてしまったと苦笑いが出て、これ以上は考えるのをやめた。
下校の道は途中から海沿いに出る。少しべたつく潮風と海の匂いがそこにはあった。秋になり始めた海岸は夏よりも少し活気がなくなっている。海の家は閉まっていて骨組みだけが取り残されており、はしゃぐ子供やアルコールで陽気になった大人たちはどこにもいない。真夏に比べて大分涼しくはなったものの、今日は晴れ間があってどこか夏の空気が残っているように感じられた。去年は気にも留めていなかったが、今はこの海が好きだ。
押し寄せる波の音に耳を傾ければ、余計なことを考えなくて済む。誰の機嫌も伺わなくていいうえに、この瞬間だけは自分に危害を加える存在はなく、時の流れに身を任せるだけで無心になれる。あくせく気にして動かなくていい。ただそれだけで、この世の全てから許されたような、落ち着いた気持ちにしてくれる。搔き乱されなくて済むことに酷く安心する。干渉されないことをここまで求めるようになるなんて自分でも驚いているが、これ以上の癒しはないように思えた。
ただし、そんな幸福な時間は長くは続かない。むしろあっという間に過ぎ去ってしまう。
どこからか海鳥の鳴き声が聞こえてきた。のんびり歩きすぎたのか、家に着くのに普段よりも時間がかかってしまいそうだった。就寝時間までにやるべきことは山ほどある。誰かに強制されたわけではないし、指示されたわけでもない。気が付いたら自分でそのレールを敷いていて、勝手に走っていたんだ。分かることは、それ以外の生き方をしたことがないということだけだ。別に、特にそれに対して変化を求めているわけではなく、どうにかしようとも反抗しようとも思っていない。ただ静かに、平穏に、穏やかに生きていければ、他のことはどうでも良かった。
「早く帰らないと」
遅れを取り戻そうと早歩きで帰路を進む。心なしか胸が少し苦しかった。いつもこうだ。一人で沢山のことを考えて、心配して落ち込んで反省して、目の前がいつまで経っても曇っていて快晴なんてまるで見えない。空気がまずい。澱んでいてすっきりすることなく、ただ煮凝りのようなくすんだ気体を取り込んでいるようで痛い。家に着くころには空も灰色で塗りつぶされていて、冷たい空気が頬を叩いた。鞄から家の鍵を探し、一呼吸おいてから玄関の扉を開ける。なんとなく、自分が別人になっていくように思えて、この時間は好きではなかった。
「ただいま」
一声かけると、リビングの扉が開いてエプロン姿の母が現れた。ほんのりいい匂いが漂ってきている。
「おかえりなさい、玲、今日は学校どうだった?」
笑顔で話しかけてくる母のことは嫌いではないけれども、いちいち何かしら聞いてくることに関しては少し面倒に思うことが多い。放っておいて欲しいと思うのは贅沢なんだろうか。
「いつも通り、かな…あ、今日もお弁当美味しかったよ、ありがとう」
空のお弁当箱が入った袋を差し出す。満足げに受け取り安心したような顔をすると、母は決まってこう言ってくる。
「良かった、他に入れて欲しいおかずとか、リクエストはある?」
そんなのあるわけない。ここ最近味なんてしないんだからと正直に言えたら楽だが、悲しまれることは分かっていた。それは面倒くさいので、いつも決まってこう返す。
「全部美味しいから迷うな、でも、唐揚げは入ってたら嬉しいかも」
「本当に玲は唐揚げ好きね、分かったわ、次も入れておくわね」
「うん、ありがと」
返答は必ず笑顔で返す。そうしている方が何かと上手くいくからだ。相手に不快感を与えることもなく、喧嘩になることもない。平穏に生きるには必要な処世術なのだ。疲れていて上手く笑えているか心配にはなったが、特に疑って聞いてくることもないので大丈夫だろう。そのまま自室に荷物を置きに廊下へ出る。空気が冷たい。リビングの扉を閉めてから母に聞こえないように小さく溜め息を吐いた。相手が親であっても、ここ最近会話をするのに神経を使うようになっている気がする。本当に上手に笑えていただろうか。引き留めるような様子ではなかったから恐らく大丈夫だろう。
「しんどいな…」
独りになると、考えていたことを延々と反芻してしまう癖がある。幾つものパターンが浮かんでは消えていき、机上の空論に時間と労力を割いて終わる。こんなことをしていても答えは出ないと分かってはいるけれど、思考を停止することが難しい。埒が明かないと首を横に振って考えを無理やり外に追いやった。これ以上は何も生まない。そんなことは分かり切っている。自覚しているはずなのに追いやったはずの思考が頭の片隅で蠢いていた。自室に入り荷物の整理を始める。プリントには定期試験の日程表が記載されていた。そろそろ試験勉強をしなければならない。きっと勉強に集中していれば余計なことを考えずに済むだろう。さっそく教科書とノートを取り出して復習に取り組むことにした。
「そろそろご飯よー」
母の呼ぶ声ではっとし、机の上の時計を見る。帰宅から一時間以上経過していて、もうすぐ六時になろうというところだった。日もとっくに落ちていて外は真っ暗だ。
「はーい」
返事をして二階から降りる途中、父の声が聞こえてきた。途端に気分が重くなる。父は何かと理論で話をするので、話が上手くいかないことがある。最近は面倒なので合わせるようにしているが、心労が絶えないことは避けられないでいた。リビングへの扉を開けると、夕食の準備がほとんど終わっていた。
「ご飯よそっちゃってね」
「うん」
棚から自分のお茶碗を取り出してご飯を盛っていく。父はすでに座っていて、無言で新聞を読んでいた。席について食事を始めた途端、父が急に口を開いた。
「そういえば玲はそろそろ受験だな、調子はどうだ?」
時間の流れが止まった。目も合わせず聞いてくる父は黙々と食事を進めている。普段のことは何も聞いてこないくせに、こういう事だけ聞いてくるのが嫌だった。自分の体裁があるからか、近所の評判が気になるのか、はたまた他に理由があるのかどうか知る由もないが、娘の成績しか眼中にないことに苛立ちを覚えた。加えて、普通は目を見て話すものだと思うのだが、今話したところでどうせ時間の無駄で終わる。余計な諍いを起こすくらいなら黙っていた方がましだと、気持ちを奥に仕舞った。
「えっと…」
かといってどういう返答をすればいいのか分からない。現状特に問題はないのだが、伝わるように話すにはどう言ったらいいのだろう。余計なことを言わないようにしたいが、言葉が見つからない。
「どうしたの?何かまずいことでもあるの?」
母が追い打ちをかけてくる。本人にその気がないことは分かっているが、何かを話そうとしているときに追加で話しかけられると混乱してしまう。
「なんだ?言えないような状態なのか」
大きな溜め息を吐かれてしまい肩が震える。そんなことない。こうして詰められると、一気に頭が真っ白になる。成績はちゃんと保持できているし、補修にもなっていないし、問題も起こしていない。ああ、違う。学校での素行じゃなくて成績のことを聞かれているんだった。受験がどうとか言ってたから、今後のことも、進路も、だから、えっと…
「どうなんだ、玲」
呼吸が止まった。今まで高速で巡っていた思考が父の一声で制止される。息が詰まる。恐怖で動きづらいが、これ以上この状態に身を置いておくのは耐えられない。左手に持ったお茶碗が滑り落ちないように力を入れた。笑顔を作って言葉を返す。
「成績は大丈夫だよ、特に呼び出されたりとかもないし」
「全く、何も後ろめたいことがないなら初めからそう言いなさい」
「…はい、ごめんなさい」
「まぁまぁ、玲はしっかりしてるから、きっと大丈夫よ」
その後の食事は、よく覚えていない。早く時間が過ぎて欲しい。それだけを願っていたように思う。入浴中も明日の支度をしている間も、もっと上手く話ができたのではないか、どうして言葉が出てこないのかと、脳内で一人反省会を繰り広げた。
やっとのことで夜が来た。やるべきことを全て終えてベッドに寝転ぶ。自室の真っ白な天井がやけに遠かった。真っ直ぐに手を伸ばしてみる。足りない何かが掴めそうで手を握る。目の前で広げた掌の中には何もなく、ただただ透明な時間が過ぎ去っていくだけだった。身体は疲れているはずなのに、決まって真夜中になっても眠れないことが増えた。いくら寝返りを打っても羊を数えても、温かい飲み物を飲んでも効果はない。次第に睡眠時間が短くなり、突然一日だけぐっすり眠れる日が来る。遅れを取り戻すように身体が睡眠を求める。一生このまま過ごすことになるのだろうか。忍び寄る恐怖に耐えながら少しずつ明るくなってくる空を窓越しに睨みつけた。
「もう朝か」
睡眠不足の身体を何とか起こし、カーテンを開ける。差し込んだ光に目が眩みそうになった。回らない頭で外を眺めていると、遠くで何かが羽ばたいていた。恐らく鳩だろうか。自由に飛んでいて、あっという間にいなくなってしまった。
「はぁーあ」
もう一度ベッドに寝転ぶ。音を立てて少し埃が舞った。人間はどうやっても一人では飛べない。あんなに自由にのびのびとは飛べない。地面に貼り付けられて、決まりで縛られて、多くの人間に囲まれて雁字搦めにされる。どうしたって独りにはなれない。
「…くだらな」
これ以上は無駄に思えてきて、諦めてベッドから這い出た。身支度を済ませてリビングに降りるとラップにかけられた朝食がダイニングに置かれていた。これがいつも通りの光景。父と母は早朝から仕事で居ないことが多い。静かな空間に朝の情報番組の音だけが響き、ニュースを聞き流しながら目玉焼きを口に運ぶ。
「先日、長野県の山奥で女性の遺体が発見されました、一部が白骨化しており死亡から時間が経過していることが捜査関係者からの取材で明らかになっています、警察は他の事件との関連性も視野に入れつつ殺人事件として捜査しています…」
リモコンの電源ボタンを強く押した。心の中に大きな渦が生まれたような感覚になった。こういうネガティブなニュースを聞いてしまうと、どうしても気分が落ち込む。ひどいときは一日中引きずる。極端に考えれば自分には関係のない話なのに、どうしてここまで引きずるのか自分でも分からなかった。家を出る時間になり、玄関の扉を開ける。飛び込んできた日差しが瞳に刺さった。痺れるような温かくも鈍い痛み。眼球がぐるぐると回されるような感覚から逃げようと瞼を閉じる。胸を押さえて深呼吸をしてみる。ゆっくりと瞼を開けば、飲み込まれそうなほどに青い空があった。大きくて、今にも押し潰されそうだった。登校中の頭の中は沢山の自分が走り回る。ああでもない、こうでもないと大騒ぎして、少しも休ませてくれない。突然、頭の中に居る私の一人が言った。最近、分からないが増え、自分の現在地を見失ったような感覚に陥ってしまう、と。確かに、意見や感想を求められても困ることが多い。そのことに酷く疲れていた。
ちりんちりん。ちりんちりん。
弾かれたように振り返ると、音の正体は歩道の隣にある自転車専用レーンで鳴らされたベルだった。肩に力が入り、周囲の目が気になった。私とは関係ないはずなのに、どうしても気になってしまう。こんな何気ないことに一々反応しているからか、学校に着く頃にはものすごく疲弊するようになった。
今日みたいに疲れがひどい日の昼休みは決まって図書室に行く。教室からある程度離れているため、話し声や人の視線を気にする必要がほぼない。何より、この時間帯は放課後に比べて人が少ないから気楽に行くことができる。
カラカラと戸を引けば、図書室独特の匂いが押し寄せてきた。様々な本が所狭しと、壁に配置されている本棚に配架されている。沢山の世界が幾つも取り揃えられていて、学校の中で唯一好きな空間だった。昼休みにまでここに来る人はよほどの本好きなことが多いし、とやかく言われることもなくて安心する。
「こんにちは」
小さく司書の人から挨拶される。カウンターの中で作業しているのか、近くに本がたくさん入ったカートが置かれていた。
「こんにちは」
挨拶を返す。何気なくしていることでも、図書館だと少し緊張してしまう。静かにするべきである空間に身を置いているからか分からないが、特別な空気が流れているように感じていた。いつもそのまま本を読むなり探すなり、自分の行動に戻る。
今日は何を読もうかと本棚を物色する。文学、歴史、図鑑、ファンタジーなど、想像するだけでワクワクしてくるものばかりだ。しかし、気が付いた時には教室に戻る時間になっていた。この瞬間は寂しさを感じてしまって好きではない。振り切るように深呼吸をして図書室を出た。
その後の授業もこなし、なんとか今日も一日を乗り切ることができた。誰かに話しかけられる前に早く帰りたい。脇目もふらず逃げるように昇降口を出て、海岸へ出る道まで来たところで気が付いた。珈琲の匂いが鼻孔をくすぐり、柔らかい女性の声が降ってきた。
「ありがとうございました~」
どうやら、ウッドハウスの中に喫茶店があるようで、外観から落ち着いた雰囲気が滲み出ていた。入ってみたくなってしまい視線を向けてみると、店員さんと目が合った。にっこりと微笑まれた私はなんだが恥ずかしくなってしまい、一礼してその場を後にした。
帰宅後はいつもの習慣で、必ずその日に合った授業の見直しはしている。いつ抜き打ちでテストが来てもいいように絶対に欠かさない。予習復習以外にやることと言えば読書くらいしかないので、特に退屈してはいない。平穏に生きていくには、早いうちからしっかり学んでおかなければいけない。なりたいものもしたいことも特に見つからないけれど、今をきっちりしておけば問題ないだろう。少しの取りこぼしもなくきちんとやっておかなければいけない。そのはずなのに、今日はしばらく経っても、あの喫茶店のことが忘れられないでいた。お店のメニューはどんなものがあるのか、微笑んでくれた店員さんはどんな人なのか、店内はどんな雰囲気なのか。行ってみたいけど、どうしても勇気が持てず横目で店前を見るだけの日々が続いた。そんなある日、テストの結果が返ってきた。九割方点数は取れていたので安心した。
一日で間違えたところの復習が終わりそうな量だったので明日はゆっくりできるなと思い、何か読書でもしようかと読む本を考える。その幸せな時間を遮る形で、隣の机から声が聞こえてきた。
「篠崎はいいよな…普通に授業受けてるだけでも点数取れて、地頭いいから必死に勉強しなくていいんだろうな」
そう言ってきた男子生徒は椅子を後ろ足二本でゆらゆら傾けながらこちらを見ていた。
「もう、そんなこと言ったら失礼だよ、でもいつも学年十位以内にはいるからすごいよね」
後ろの席の女子生徒も話題に入ってくる。周囲のクラスメイトも気になり始めたのか、少し耳を傾けられているのが分かった。
この学校は市内でも学力が高くテストの度に結果の順位が張り出されるため、やけに競争意識が強い。先生たちからしたら生徒の意欲を上げられていいのかもしれないが、私にとっては煩わしく忌々しい掲示だった。
「確かにな、普段どんな勉強してるんだ?」
「…えっと、まぁ、予習復習、とか?」
なんとか答えると周りの顔が少し曇って、苦笑いが増える。
「いやいや、それくらいはみんなしてるし」
「やっぱり、篠崎さんは頭がいいから特別なこと何にもしてないんじゃない?」
「天才ってやつか、羨ましい」
「そんなことないよ、はは…」
ああ、結局こうなるのか。勝手に群れて勝手に去っていく。自分に有益な情報がないと分かるとすぐに離れていく。所詮、その程度なんだ。私がどう行動したって、頑張って話してみたって、表面だけを見て言いたいことを吐いて帰っていく。言われた側のことなんてまるで考えていない。だから嫌なんだ。こんな思いをするくらいなら笑いたくない。笑いたくない筈なのに、笑い続けてしまう。嫌でも張り付く笑顔が私に枷をかけている。疲れているはずなのに、上手く力が抜けない。どうしたらいいか分からない。放課後を告げるチャイムが鳴った。一日の終りを示す音に安心を覚えつつ教室を出る。早く胸いっぱいに空気を吸って無心になりたい。歩いても歩いても、やけに昇降口までが遠かった。冷たい靴箱に手をかけて外履きを取り出す。内履きをしまって扉を閉めて一息吐く。スクールバックを持ち直すと足早に駆け抜けて、いつもの海岸を目指した。冬に差し掛かろうとしている海岸は刺すような風が吹き始めていて、でもそれが逆に心地よかった。
コンクリートの塀に両腕を乗せてもたれかかる。遠くの水平線を眺めながら大きく深呼吸をした。深く深く、肺に空気が入ってくるのを感じながら、胸に溜まっているものを空気と共に吐き出す。内側の黒いもやもやした何かが徐々に出ていく。こびりついていた不安とも恐怖とも言い難い正体不明の何かが遠ざかっていった。
「…っ!あ、なんだ」
不意に鳴り響いた音は携帯からだった。確認すると母親からメッセージが一件、おつかいを頼まれていた。どうやら私の通学路に新しくできた喫茶店にスイーツを取りに行って欲しいようだ。料金はすでに支払っていて、名前と電話番号の下四桁を伝えればいいらしい。了解の旨を返信し、送られた地図を頼りに店を探してみる。その店は案外近くにあり、すぐに見つけることができた。入り口に取り付けられている木製のウィンドチャイムがカラコロと子気味いい音を奏でているウッドハウスだった。あの日見た、ずっと入ってみたかった喫茶店だった。店内にはお客さんが二、三人いるだけで物静かな雰囲気であることが伺える。ゆっくり入り口の扉を開けると、カウンターで何やら作業していた女性がこちらへと振り向いた。
「いらっしゃいませ、店内をご利用ですか?」
ワイシャツにエプロン、スラックスとフォーマルな服装をした店員さんがカウンターから出ながら聞いてきた。ロングヘアーを一つに結んでいて、毛先が左右に揺れた。
「いえ、予約していた篠崎です」
「篠崎様ですね、こちらにおかけになって用紙にご記入をお願いします」
差し出された用紙には名前と下四桁を書く欄があった。渡されたペンで必要事項を記入して店員さんに手渡す。
「ありがとうございます…はい、確認できました、ご用意しますので少々お待ちください」
カウンター席に腰掛けたまま、品物が用意されるまで店内を少し観察してみることにした。外装同様、内装も主に木材が目立つ作りになっていて不思議な安心感がある。テーブル席もあるこじんまりした店内には小説を読んでいる年配の男性が一人、勉強中らしい大学生くらいの女性が一人、雑誌を読んでいる母と同じ年齢くらいの女性が一人と、それぞれ思い思いの品物を飲食しながら楽しんでいた。溶け込むように流れているジャズは空間を壊すことなく土台となって支えていて、耳心地が良い。椅子に座り直し、ふと上を見てみると天井に棚が設置されていて沢山の珈琲豆の袋が並べられているのが見えた。端っこには小さいクマのぬいぐるみが座っていて何かを持っている。どうやらミニチュアのハンドベルを持っているようで可愛らしかった。
「あのクマちゃん、気になりますか?」
驚いて前に向き直ると、準備を終えたらしい店員さんが紙袋を持って微笑んでいた。どうやら待たせてしまっていたようだ。
「すみません、じろじろ見てしまって」
「とんでもないです、実は店内の小物は全て私物でして、いろいろと飾っているんです」
「そうなんですね、凄く素敵です」
自分でも驚くくらいにするっと言葉が出た。好きなものを沢山詰め込んだおもちゃ箱みたいで、余計な雑音が無く良いと思った。
「本当ですか?ありがとうございます」
微笑む店員さんも、本当に素敵だった。
「こちら、ご注文の品です、柔らかいものも入っていますのでお気を付けくださいね」
「はい、ありがとうございます」
椅子から降りて自分の荷物を持つ。カウンターに置かれた紙袋に手をかけたところで、妙に後ろ髪を引かれる思いがした。早く帰ってやるべきことをしなければならないというのに、なんだか帰りたくない。どうしてかは分からないが、名残惜しさが心に住み着いてしまっていた。それでも無理やり両足を動かして出口まで進む。
「ありがとうございました、またのご来店お待ちしております」
店員さんの声に会釈をして店を出る外。に出るとさっきよりも一層強い風が吹いていて、慌てて紙袋を両手で水平に保つ。相変わらず刺すように吹く冷たい風からは入店前に感じた居心地の良さは消え失せ、身も心も冷やしていくようで意地悪だった。
「おかえりなさい、おつかいありがとうね」
「うん」
紙袋を出迎えてくれた母親に手渡す。いつも通りリビングの方から夕飯のいい匂いが漂ってきていた。
「じゃあ、荷物置いてくるね」
二階の自室に行く階段を上っていると、やけにきしんでいるように感じた。ぎし、ぎし、ぎし。同時に自分の中の何かが、ゆっくりと圧力をかけて曲げられていき、悲鳴を上げそうになっているような気がして奥歯を強く噛んだ。
手洗いうがいや着替えを済ませてリビングに戻ると、母がやけに落ち込んでいるように見えた。手に握られた携帯を見つめて溜め息を吐いている。
「お母さん、何かあったの?」
「うーん、ちょっとね」
不思議に思いながらキッチンへ行くと、普段より豪華な料理が準備されていた。
「そういえば、今日って」
冬に差し掛かるこの時期は両親の結婚記念日があることを思いだした。毎年母親が手の込んだ料理を作り、それを家族三人みんなで食卓を囲んで食べていた。
「お父さん、仕事のトラブル対応があって帰ってくるのが遅くなるみたい」
「…そっか」
予約していたスイーツもお祝いするためのものだったのだろう。ちらりと母の横顔を見ると彼女の悲しみが流れ込んできた。本当は全員でご飯を食べたかったこと、結婚記念日を一緒にお祝いしたかったこと、心から寂しいと思っていることが読み取れて気持ちが重くなる。
「お母さん、私に何か手伝えることある?」
「え?」
「途中からになるけど一緒に作ってもいいかな、もしかしたらそのうちにお父さんが帰ってくるかもしれないし」
にこっと微笑んでみる。これは店員さんの真似だ。どうしても母に元気になって欲しかった。仕事だからしょうがないと分かっているからこそ、文句も言わずに堪えている母親の姿を見て何かしたくなってしまった。
「ありがとうね、それじゃお願いしようかな」
久しぶりに母と立ったキッチンは昔よりなんだか狭く感じられて、懐かしい気持ちになった。
ウッドハウスから見える海は、どこか荒れていた。波が大きく寄せては返していて、白い泡も沢山できている。普段の澄み渡った表情は消え失せ、まるで何かを訴えているようだった。そのせいなのか、土曜日だというのに店内には人が少なかった。
「お待たせいたしました、ダージリンです」
笑顔の店員さんが注文した紅茶を運んできてくれた。琥珀色の液体がキラキラと輝き、仄かに甘い香りが心を落ち着かせてくれる。ソーサーにはティースプーンと角砂糖が二つ添えられていて、小さなミルクピッチャーとポットも置かれた。
「ありがとうございます」
「いえ、ごゆっくりどうぞ」
テーブルに一通り並べ終えると、店員さんはトレーを持ってカウンター裏に戻って行った。そっと手に取ったカップは温かく、飲んだ瞬間にじんわりとした感覚が身体に広がった。しかし、やっぱり味をはっきり感じ取ることが出来ない。諦めてカップをテーブルの上に戻し、再び海を窓越しに観察する。かすかに聞こえる波の音は誰かの叫びの様に聞こえ、波が余計に荒々しくなっているように感じた。家に帰れるのか不安になり、これからの天気を携帯で確認する。どうやら今がピークらしい。幸い警報も出ておらずこれから次第に晴れてくるようなので、安心して喫茶店に居ることにした。
この場所は息が詰まることがない。本当に心から休まることができる。午前中に昨日返却されたテストの見直しは済ませてきたので、今から夕方まではのんびり休日を満喫することができる。親の目も、先生の目も、生徒の目もない。店員さんの微笑みと適度な距離感に感謝しつつ、これから入り浸りそうになるなと考えた。ポットから新しいダージリンを注いでミルクを混ぜる。紅茶を飲みながら、店内に流れるジャズに耳を傾けた。
しばらくして本を持ってきていたことを思いだした。この空間での読書はすごく贅沢なものに思えてきて胸が躍った。持ってきたのはファンタジー小説だ。剣と魔法で怪物を倒す内容で、特に回復役職のキャラクターが好きで何度も読み返している。旅の途中で傷ついた仲間を癒す影ながらも重要な立場。私もこんな風に誰かの癒しになれたらいいなと思ったことが何度もある。毎日をきちんと生活するので精一杯なのに、これ以上自分に何ができるのかと自己嫌悪することが多いのに、自分以外の誰かを救うなんてできるのだろうか。
小説を楽しんでいたはずなのに、いつの間にか自分自身のことを考えてしまっていた。
それも暗い方向に思考を巡らせてはせっかくの小説も楽しめない。諦めて本を閉じると、飲みかけの紅茶が残っていたことに気が付いた。手を伸ばしカップに触れる。すっかり冷めてしまっているようで、茶器の冷たさが皮膚に伝わった。幸い残りはカップにあるだけなのでさっと飲み干す。冷え切った紅茶が身体に入ってくる。優しくも鋭さを持ったそれは、やっぱりはっきりせずに、どこか素っ気なかった。
ここ最近、拍車をかけて食事が楽しくなくなっていた。味がしないのが当たり前となり、ついには咀嚼も面倒に思い始めてしまっている。非常にまずい状態であることは理解しているが、今のところはどうにかしようと行動に移すことはしないでいた。どうにか食べるということはできているし、現状気にしなくてもいいかと判断した。生きていくための最低限の食事ができればそれでよかった。喫茶店の紅茶が味わいにくいのは、少し残念に思うことではあるけれど、そこに割けるだけの気力は残されていなかった。
褪せた玲瓏 兎月 ハル @UzUkiharu_
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