第25話 はじまりの日・藍莉と虎一郎

 携帯電話の画面は雨粒に打たれて、読み取りにくい。

 それでもいつも通りだから分かる。着信履歴は、親の名前一色。


 携帯の電源を切って、藍莉あいりは空をながめた。

 鉛色の雲。雨。

 それらを背負って堂々たるたたずまいの、大学病院の建物。


「勉強。検査。勉強。検査。勉強勉強勉強、検査検査検査……」


 つぶやきながら、傘もささないまま、藍莉は空をながめ続けた。

 雨粒が藍莉の栗色の髪を、着ているブレザーを、濡らしていく。

 ひと目見ればそれと分かる、有名な高校の制服。

 お嬢様学校として有名な。


「わたしって、なんで生まれてきちゃったんだろうなぁ」


 つぶやきは、雨音に溶けて消える。


 水滴がくりくりとした目に入り、藍莉は目を閉じた。

 こぼれ落ちたのが雨なのか、それとも涙なのか、藍莉には区別がつかなかった。


 藍莉は目をこすって、振り返って、病院に背を向けた。

 中庭。目の前には、池。


 たいした深さはない。入ったところで、どうなるものでもない。

 それでも気はまぎれるだろうか。

 試してみてもいいかもしれない。うまくいかなくても、さして支障はない。

 あるいは力を抜いて、ゆだねていれば、もしかしたら。


「ハロー、ハロー。今日はあいにくの天気ですね」


 急にかかった男性の声に、藍莉ははっと振り向いた。

 傘。藍莉の目線より低い。

 その下に、車椅子。


「けれど雨もたまにはいいものだなって、僕は思うよ。

 雨に濡れたあなたの姿は、とてもきれいだと思った」


 傘が傾いて、その下の人物が顔を見せた。

 黒髪の、さわやかな印象の男性。藍莉と同い年くらいの。


 男性は、にこりと笑って言った。


「だから晴れた太陽の下で見るあなたは、もっときれいなんだろうなって想像することができたから」


 藍莉はじっと、男性の顔を見た。

 そしてぽつりと、つぶやいた。


「小児病棟で……」


 男性はにこりと笑いかけた。


「覚えていてくれてありがとう。入院中の子供たちと一緒に、工作をしたりしたよね。

 みんな喜んでたよ。あなたの作ってくれたおもちゃで、今も遊んでる」


 藍莉はふっと、さみしそうに笑って、顔をそむけた。


「わたしはただ、ボランティア活動をしただけだから。

 優秀な人間はそういうことをするものだって、そう強制されて……」


 傘が、藍莉の上にかかげられた。

 パタパタと雨が傘を叩く音が、包み込むように響いた。


 藍莉は傘の根元に、目を向けた。

 男性が車椅子の上で、めいっぱい体を伸ばして、藍莉を傘の中に入れていた。


「強制されてやったことだとしても」


 男性の、力強いのに優しい目が、藍莉を見ていた。


「あのとき楽しそうな顔をしたのは、僕の見間違いじゃないはずだよ」


 雨音。沈黙。

 ちっぽけに切り取られた、傘の下の空間の中で。

 二人はしばらく、見つめ合った。


「っ、とと」


 無理やり伸ばしていた男性の体が、バランスを崩した。

 藍莉はとっさに受け止めようとして、失敗して、二人一緒に倒れ込んで、ざぶんと池に落っこちた。


 池の中で、藍莉はぱちくりと目をしばたたかせた。

 横を見ると、男性も藍莉とほとんど同じような表情をしていた。

 二人そうして、見つめ合った。


 ややあって、男性はあははと笑い出した。

 笑って、笑い声が藍莉へと響いた。

 藍莉は男性を見つめて、笑い声を聞いて、やがて自分も、笑った。


 ひとしきり笑ってから、男性は目を細めた。


「もし、叶うのなら。これは僕の願いで、そしてあなたへの祈りになったら、うれしいと思うのだけれど。

 僕の名前は綯宮なえみや虎一郎こいちろう。よければ僕と、友達になりませんか」


 男性は手を差し出した。

 その差し出された手を、藍莉は見つめて、しばらくじっと見つめて、それからゆるゆると、握り返した。


 雨と池の水の中、二人はこの日、手をつないで。

 それからいくらかの時間が積み重なり、二人は――アイリとコイチローは、恋人となった。


――――――


・ラブバカ豆知識


この時点で二人は十七歳、本編開始の三年前。

MII3(マジで隕石落ちて異世界転生する三年前)。

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