5.代筆屋さん
ほんとうのところ代筆屋は、けっして代筆屋などではなかったのです。代筆屋が手紙にできるのは依頼主本人の本当の気持ちだけ。依頼主から溢れてくる言葉以外の言葉が雫となってインク壺に滴り落ち、それを吸わせた羽ペンから出る文字こそが手紙となるのでした。青年の言葉からは淡い紅色のインクが、貴族の娘の言葉からは濃い群青に細かく煌めく金粉の入ったインクが、それぞれインク壺に満ちました。代筆屋は、そのインクを使って羽ペンの赴くままに、筆を動かしただけだったのです。
代筆屋はなぜ自分が代筆屋をしているのか、よくわからないところがありました。わかるのは、洞穴が自分の体にしっくりくる事や、ガタつく椅子にすんなり腰掛けられる事、それから、羽ペンが自分の手にしっくりと馴染んでいる事くらいです。
一度だけ、自分のための手紙を書いたことがあります。数少ない意識の中から思うことを、思いつくまま口に出してみました。ほとんど数滴のインクしか現れず、書いた文字はほんの数文字で、おまけに書いた代筆屋本人には何が書かれているのかわからなかったのです。諦めて封をすると、それは二度と開くことが出来なくなりました。
ただ、インクの色が森を煮詰めたような深い緑色をしていたことだけを、ぼんやりと覚えているのです。
しんしんと月の輝くころ、代筆屋は洞穴から顔を覗かせます。依頼主が置いて行った豆を手にすると、洞穴の隅にある小さな戸棚から、古びたミルを取り出しました。
カリコリカリコリ。
ちいさなちいさな音が、しんと静まり返った森の中に響きます。沢まで出てポットに水を汲み、古めかしい電熱器で湯を沸かします。
やがて芳しい香りが洞穴から漂うと、ほうほう、と梟が鳴きました。りりり、りり、と虫の音が追いかけます。代筆屋はひびの入ったカップから飲み物をすすり、湯気の中に溜息を溶け込ませました。
代筆屋さん 野村絽麻子 @an_and_coffee
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