4.ほんとうのところ

 青年は、街に戻る道すがら、郵便配達夫に手紙を託しました。それから思い切って部屋の荷物をまとめると、ひと思いに両親と兄の待つ家へと帰郷しました。すべては手紙に託してある。大丈夫、きっと届く。

 実家に戻り、両親から思いのほか歓待を受け、兄から頭を下げられると、青年の中に巣食っていた憂鬱や煩わしさといった気持ちが軽くなるのを感じました。自分は期待されている。それに応える時がきたのだ。実際のところ、奉公へやらされた時には疎外感を覚えていたのですが、どうにかこうにか目を逸らしながらやり過ごしていたのです。花売りの娘は、そんな青年にとっての希望であり、逃避先でもありました。

 あぁ、今ごろ花売りの娘はどうしているだろうか。自分の元へ来る準備を整えているのではないか。いや、そんな事はないだろう。花売り娘とて住み慣れた地を離れてまで自分について来る程の情熱を持ち合わせてはいるまい。

 不思議と募る焦燥にも似た感情に動かされるように、青年は両親の薦めた相手との結婚を決めました。



***



 貴族家の娘は、屋敷へ戻ると着ていた服を洗濯婦に預け、ゆっくりと湯舟に浸かりました。春先の森とは言え夕暮れ近くまで歩いていたことで、身体が芯まで冷えきってしまったのです。

 手紙は馭者に託しました。馭者は信頼のおける者ですが、念には念を入れて幾ばくかの小銭を渡してありました。きっとあの方は迎えに来てくださる。娘は、愛しい男が月のない夕闇に紛れて部屋の窓を叩くところを想像し、窓から顔を出した娘の姿に安堵して溜息を漏らすところ、それから、優しく微笑む男と手に手を取って夜半の街を駆け抜けるところを想像しました。なんて素敵だろう。きっとあの方もそれを望んでくれる。ふくふくと肌触りの良い薔薇の香りの泡に顔をうずめながら、温かな湯の中でうっとりと目を閉じました。

 それからしばらくの間、娘はことが多くなりました。娘の両親は、元より夢見がちな娘のことを特に心配せず見守り、縁談は滞りなく準備が行われていきます。娘は夜になると月を見上げました。新月までを指折り数えて過ごし、晩になると枕元に華奢な靴を置いて眠りました。

 待ち望んだ新月の夜、娘の部屋の窓を叩く者は現れませんでした。翌朝は泣き腫らした顔で過ごしていた娘も、月日が経つにつれてそのような顔を見せなくなりました。娘のために誂えた花嫁衣装や装飾品、特別な日の宴のメニュー、新しく移り住む邸宅の庭木、贅を尽くした家具や調度品などを選ぶことに時間を割かれていたのです。

 それでも次の新月の晩には夜空を見上げておりましたが、更に次の新月がやってくる数日前に、娘はとうとうカーテンを閉じました。縁談の相手が思いのほか素敵だったこともありますが、もう引き返せない所まで来たのだと気が付いたからです。



***



 こじんまりと整えられた狭い部屋は、老婆が生前に編んでいた美しいレースがそこかしこにありました。窓からの光を弾いて輝く繊細なレース編みは、まるで、老婆がこれまでに積み重ねてきた優しい言葉の輪郭で編み上げたもののようでした。

 老婆の部屋はきっちりと片付いており、数日分の衣類と、数枚のタオルと、最低限の食器とわずかな食料があるばかりで、どうやら不要なものは処分されたあとのようでした。自らがこの世を去るタイミングを見計らったかのようで、周りの者たちは口々に老婆との別れを惜しみながらも、老婆のささやかな気遣いを賞賛しました。

 美しいレース編みは、縁のある者たちがそれぞれ持ち帰り、思い思いに飾りました。ある者は玄関棚の花瓶敷きとして、またある者は小柄な額に入れてリビングの壁に。そうしていると、皆に愛された優しい老婆が微笑んでいるようで、どこか暖かな気持ちになるのでした。

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