3.とある老婆

 ある晩のこと。山道を老婆が歩いていました。杖を手にしてはいますが、その目はめしいているためか、何度も転びながら山道を歩いてきたようです。疲れ果てた老婆の耳が水の滴る音を捉えた時、老婆は立ち止まりました。きっとここに違いない。そう思うと「ねぇ」と口を開きます。その声は掠れていましたので、梟の鳴き声に少しだけ似ていました。


「見ての通り、私は目が見えないんだ。どうか答えてほしい。ここは、代筆屋の居る場所なのかい?」


 洞穴の中で本を読んでいた代筆屋は驚きましたが、事情を察すると、ゆっくりと本を伏せて、洞穴の入口まで足を運びます。老婆はその気配を読み取ったのか、ほんの少しだけ口元を緩めました。


「そうかい。ここで合ってるってことでいいんだね。それじゃあ、どうか私の話を聞いて、手紙を書いちゃくれないか」


 老婆は街で聞いた通りに、その場で静かに語り始めました。


「私の目が見えなくなったのは、ちょうど成人を迎えたころだった。驚いたし、嘆いた。両親も兄妹も、貧しいながらもそれなりに手を尽くして、私の目をもう一度見えるようにしようと駆けずり回ってくれた。指折りの名医の元や、高名な学者にも会わせてくれたものさ。その結果はご覧の通り、この年になるまで回復もせず、くたびれ果てた両親は早くに亡くなり、兄妹も年齢よりだいぶ年老いて見えるのだと聞く。

 私は、私の目を奪った何かを憎んでいる。私の両親と兄妹の時間を、見えたはずの景色を奪った何かを、許すことができない。光の溢れる世界を見ている者が羨ましい。妬ましい。なぜ私だけが光を奪われなくてはいけないのか。なぜ、私が。

 私はもう、嫉妬と欲に雁字搦めになったんだ。光がなくとも感じられたはずの、風も、温度も湿度も、何もかもが煩わしい。こんな世界を愛することができない。だから決めたんだよ、もうこの世を去ろうって。何もかも終わりにしたいんだ。

 今まで世話になった。さよなら。終わりだ、終わり」


 ひとしきり語った老婆はその場にぺたりと座り込んで動かなくなりました。代筆屋は少しだけ慌てましたが、どうやら老婆は座り込んだだけのようです。

 代筆屋は、残してあった飲み物と、以前に貴族の娘が置いていった菓子を出してきました。飲み物はすっかり冷め切っていましたし、菓子は湿気っていましたが、老婆の手元に置くとそれなりのものに見えました。老婆は恐る恐る手探りで菓子と飲み物を手繰り寄せると、少しずつ口に含みました。ゆっくりと咀嚼して、つかえないように飲み込んで、甘い香りのする息をつきました。


「本当にこんな世界、滅びてしまえばいい」


 呟きが足されると、洞穴のインク壺から、ぴちょん、と音がしました。見れば、インクがなみなみと注がれています。

 老婆の言葉は透明なインクになりました。代筆屋は洞穴に戻り、ガタついた椅子に腰掛けると、テーブルに便箋を広げて羽ペンを持ちました。それから、文字を記す微かな音だけが、静かな森に満ちていきました。

 東の空がほの白く光り始めたころ、代筆屋は老婆の手元に一通の封書を置きました。老婆はうとうとと眠っておりましたが、すぐに目を覚ますと、代筆屋が居るであろう方向に顔を向けて「世話になったね」と言いました。服のポケットから豆の入った袋を取り出すと、それを代筆屋へ渡しました。老婆は杖をつきながらも確かな足取りで帰路につきました。

 袋は美しく編まれた華奢なレースで作られており、代筆屋の手の中で、控えめな朝の光を浴びてきらきらと輝くようでした。


 それから程なくして老婆がこの世を去ったあと、老婆の部屋の大切なものを保管しておく引き出しから、その封書が見つかりました。老婆は盲目でしたから封書など残せるはずはありませんでしたが、誰かが「そういえば森の代筆屋のことを聞かれた覚えがある」と言い出したため、老婆にゆかりのある者たちが皆で開封することにしたのです。

 封を開くと、不思議なことが起こりました。広げられた便箋は白紙でしたが、皆の頭の中に、生前の老婆の声で、言葉があふれてきたのです。



***


“親愛なる皆様


 どうか、もう私のことを気にかけるのはやめてください。

 盲いた私のために差し伸べてくれた手のぬくもりを、かけてくれた言葉の温かさを、私は忘れません。

 たとえこの目に映すことが出来なくても、世界は美しく、喜びにあふれていました。視力を失ったのがあなたではなく、私でよかった。みじめな思いをしたのが、私で良かった。

 本当に感謝しています。


 ありがとう、そして、さようなら。“

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