2.貴族の娘

 晴れて温かな陽射しが降り注ぐある朝のことでした。森の入り口に一台の馬車が停まりました。その馬車は豪奢な装飾を贅沢にあしらったもので、馬車を引く馬たちの立て髪は絹のように滑らかになびき、蹄の音も小気味良く、いずれも気立ての良さそうな穏やかな表情をしていました。

 蔓薔薇と小鳥の意匠が施された美しい扉が開いて、姿を現した女性もまた、華奢なレースと今にも馨しい芳香が漂いそうな花々の飾りで覆われて、おおよそ暗い森には似つかわしくない姿をしておりました。しかし、桃色に染まった頬と浅瀬の海の色をした瞳には、揺るぎのない決心が見てとれたのです。

 娘は、鬱蒼と積み重なる森を見上げました。覚悟を決めたようにひとつ頷くと、森の小道へと足を踏み入れます。普段、邸宅の庭で歌声を聴かせてくれる小鳥の声も、甘く優しく頬をなでる風も、ここでは見当たりません。あっという間にエナメルのつま先は土に染まり、呼吸は乱れ、黄金色の髪が汗で額に貼り付きますが、足を止める気配はありません。

 山道をのぼり、くだり、何度か転びそうになりながらまたのぼり、服に付いた汚れを振り払ったその目線の先に、ちいさな沢が見えました。聞いていた通りだわ。娘は誰にともなく呟くと、その向かいに口を開けている洞穴を覗き込みました。


「ごめんください」


 応える者はありません。ですが、洞穴の中でランプの焔が揺らめいているのが見えました。


「代筆屋さんに、お願いがあって参りました」


 誰も聞いていなければそれまで。とにかく此処へ辿り着いたのだからと、娘は街で聞いた通りに、胸の内を吐露し始めました。


「さるお方にお手紙を書いて欲しいのです。その方はとても心の優しい方ですが、その、お家が、あまり余裕のない暮らしぶりをなさっているため、残念ながら字を読むことができません。ですが、代筆屋さんのお書きになるお手紙は、文字の読めない者でも感じとる事ができると聞きました。

 わたくしは、とある貴族家の娘です。遠縁の者との縁談が纏まりつつあるのですが、わたくしには心に決めた相手がいます。そうです、先ほど申し上げた、お手紙の送り先のお方です。

 彼ほど心根の美しい方を知りません。自らも決して裕福ではありませんが、常に他の者を気にかけ、困っている者には迷わず手を差し伸べるのです。あの方と共にある時こそがわたくしの心の平穏であり、あの方のまなざしの中にいる時こそが真実のわたくしなのです。

 次の新月の晩にわたくしの部屋の窓を叩くよう、あの方に伝えてほしいのです。そうしたら、わたくしは全てを捨てて、あの方と共に、どこか遠い地で暮らす決心を致しましょう」


 娘が語り終えると、きっぱりとした語尾が辺りに漂うようでした。それを掻き消すかのように風が吹いて周りの木々を揺らし、更には娘の髪をかき回します。じっとりとした空気が滴るように、沢の水源とは違う何かが、ポタリ、と音を立てました。音は洞穴の中から聞こえたようです。続いて何かを広げる音が、追いかけるように羽ペンを走らせる音が響き始めました。

 ほっとした娘はどこかに腰掛けようと辺りを見渡しましたが、服を汚さずに座れそうな処は見当たりません。仕方なく、立ったままで過ごすことにします。つま先を見ると、山道で付いた泥が乾きかけているのが見えました。ポケットから柔らかな布を取り出して、慈しむように拭きました。



 娘の髪の色にも似た黄金色の陽が傾き始めるころ、洞穴の入り口に一枚の封書が舞いました。代筆屋の手から離れた手紙です。

 娘はゆっくり歩み寄ると、屈んで拾い上げました。感触を確かめるように封筒の裏表を眺め、それから、満足した表情で小柄な鞄から布に包んだ焦茶色の豆を出します。布ごと洞穴の入り口に置いてから、ちょっと考えて、他の包みも置きました。中には小麦と卵で作られた甘味が少しばかり入っています。

 ふわりと柔らかく微笑んで、娘は元来た道を戻り始めました。あとには梟の鳴き声だけが、空白を埋めるように広がりました。



***



“愛しいあなたへ


 あなたを愛していたのは本当のことです。けれど、わたくしの命は領土内の民のもの。領主の娘としてのわたくしは、いついかなる時にでも、民のことを考えていなければならないのです。わかるでしょう?

 あなたの前に立つ時、わたくしの心は満たされていました。あなたには感謝しかありません。あなたが幸せに包まれるよう、祈っています。


 わたくしには民への責任があります。

 わたくしには父や母への恩があります。

 わたくしには未来があります。

 そのどれもが、欠けてはいけないものです。

 すべては初めから決まっているのです。


 暖かな羽布団に包まれて、軽やかな衣類を身に纏い、華やかなパーティーで夜風を浴び、カフェとショコラで気を鎮める。そんな夜をいくつも過ごし、子を産み育て、羽毛のような愛で包み込む。それのどこが可笑しいのでしょうか。

 わたくしの暮らしは民への愛に他なりません。花が咲くように、花が散るように、そのように過ごしてきたのです。


 どうか、あなたが愛に包まれてこれからを過ごしていかれますよう、祈ります。“


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