10 Dr.エリカは終着点を見失う






 舌が痛いかと、スズは尋ねた。

 唐突な、脈絡みゃくらくを欠いたスズの質問にエリカ・ブラックウェルは困惑した。


「……えぇ、少し前からね。熱いものに触れるとピリピリ痛むの」

「食事以外では痛まない?」

「いえ……何もしていなくても、チクチクするわ」

「触りはしないので、舌を見せてもらっても良いか?」


 スズの言葉にますます困惑しながら、エリカはそれに応じた。

 男性たちに見えないようエリカを誘導すると、スズはエリカの舌を数秒観察し「ありがとう」と言った。


「手足のしびれ、の不快感、貧血ひんけつなどの症状は?」


 新たな質問の内容は、更に脈絡のないものばかりだ。


「……手足は少し痺れて感覚が鈍いの。

 胃痛は数年前からあって、食欲低下ぎみよ。

 貧血の症状はあるけど……今は鉄剤てつざいが効かないので、貧血ではないようね」

「飲酒、喫煙、食事の偏りは?」

「飲酒はたしなむ程度よ。喫煙もしない。食事のバランスは普通だと思うわ」


 答えながらエリカは、首を傾げる。

 舌の痛み、手足の痺れ、胃の不快感、貧血。

 全く関わりのなさそうなこれらの症状が、全て繋がるとでも言うのだろうか。


「ま、まさかDr.エリカも何かの病気なのか……!?」

「アーサー、落ち着いて。もう歳だもの、どんな病気があってもおかしくないわ」


 狼狽うろたえるアーサーをなだめながら、エリカも心中は穏やかではなかった。


「Dr.エリカは貧血だろう。しかし、ただの貧血ではない。

 正確に診断するには血液を検査する必要があるが、まずは疑いのある病気について説明しよう」


 スズは事も無げに言うと、薄い紙を拡げペンを走らせながら説明を始めた。


「貧血というのは、さきほど観察してもらった赤血球せっけっきゅうに異常がある場合に症状が起こる。

 最も多いのは、鉄欠乏性てつけつぼうせい貧血。鉄分が不足すると赤血球が十分に働けず、酸素不足になる。この場合は、鉄剤の服用が有効だ」


 スズは『貧血』と書き大きな円を描くと、その中に『鉄欠乏性貧血』と書き記した。


「貧血は、他にも様々な種類がある。

 Dr.エリカはそのうちのひとつ、巨赤芽球性きょせきがきゅうせい貧血の疑いがある」


 さらに円の中に、『巨赤芽球性貧血』と書き加える。

 スズ以外の全員にとって、全く耳馴染みのない病名だった。


「血球ははじめ、骨髄こつずいという骨の中の髄腔ずいくうで作られる。

 成長し血球となるわけだが、その成長過程で必要な栄養素が足りなくなると、異常に大きな赤血球―――巨赤芽球きょせきがきゅうが作られてしまう」

「骨の中で、血液ができるのか……!?」

「それについては後で説明しよう」


 シャルルが驚いた様子で問うたが、スズは一旦その疑問を横に流した。


「Dr.エリカには、巨赤芽球性貧血の特徴的な症状である Hunterハンター舌炎ぜつえんがみられる。

 舌苔ぜったいという舌に生えている毛のようなものが萎縮いしゅくし、舌がツルツルになってしまうことだ。


 Dr.エリカはお茶を飲むたびに口腔内に痛みに耐えている様子だったので、確認させてもらった」


 確かにエリカは、いつも舌がピリピリと痛む感覚があった。熱いものを飲む時など、特に刺激されて痛かった。

 ……が、まさかたったそれだけのことでスズは異変に気付いたというのか。


「さらには、手足のしびれと胃炎。血液検査をしなければ確定診断はできないが、ほぼ間違いなく巨赤芽球性貧血だろう」

「ち、治療法はあるのか……!?」


 アーサーが口を挟むと、スズは唇を尖らせながら答える。


「貧血自体は、足りない栄養素を補えばいい。どの栄養素が足りないかは、血液検査でわかる。

 問題は、なぜその栄養素が足りなくなったかだ」


 スズは腕を組み、ひとつ息を吐いた。


「今は鉄剤が効かないと言ったが、初めの頃は効いていたのか?」

「えぇ、初めはよく効いていたわ」

「恐らくDr.エリカは、慢性胃炎により鉄欠乏性てつけつぼうせい貧血と巨赤芽球性きょせきがきゅうせい貧血を併発してしまったんだろうな。

 慢性胃炎の原因は様々だが、貧血を引き起こすほど胃粘膜いねんまくの萎縮が進んでいるのであれば、早めに治療を行った方がいい」


 もはや誰も、スズの話についていけなかった。

 それでもアーサーは必死に食らいつき、なんとか理解しようと質問を続ける。


「待て、待て!

 胃の痛みと貧血に、なんの関係があるんだ!? 全く別の組織系だと認識していたが……」

「検査もせずに色々と言いたくはないが……」


 そう前置きし、スズはすっと息を吸った。


「Dr.エリカの場合、一連の症状の起点は胃炎だろう。胃炎の原因は様々だが……初めは鉄剤が効いていたことを考えると、ヘリコバクターピロリという細菌に感染し胃炎となった可能性が高い。ピロリ菌感染と鉄欠乏に関連があることは近年のメタ解析で明らかだが、明確な原因はわかっていない。ピロリ菌感染が長引くと胃粘膜を萎縮させてしまい、胃粘膜から生成される内因子ないいんしが少なくなる。内因子はビタミンB12の吸収に欠かせないため、Dr.エリカはビタミンB12を摂取しても身体に吸収されにくくなっていると予測される。ビタミンB12は赤血球のDNA合成に欠かせない成分であり……」


 色々言いたくないと言いながら、スズは長々と説明を始めた。


 エリカは、ピロリ菌に感染し胃炎を起こした可能性があること、ビタミンB12が吸収できなくなり赤血球がうまく育っていないため貧血となっている可能性があることだけは理解した。


「とにかく、昔は鑑別の難しい病気だった。

 長きに渡り原因や治療方法が見つからなかったために、悪性あくせい貧血とも呼ばれている」

「そんなに、悪い状態なのか……!?」


 アーサーの言葉に、スズはかぶりを振りながら答える。


「すまん、そういう意味合いではない。本当にエリカが悪性貧血なら、貧血自体は治療できる。

 どちらにしても、貧血と胃炎の原因については一度ちゃんと調べた方が良い」


 その言葉を聞いて、エリカとアーサーはほっと胸をなでおろした。


「わかってくれたか?

 ほとんどの病気には原因があり、検査方法があり、多くの場合は治療方法があるんだ。


 だから、じいさんの治療を認めてくれ」


 スズの知識量に圧倒され、もはや誰もがこの話の終着点を忘れかけていた。


 しかし、スズだけは見失っていなかった。

 「治療を認めろ」と、スズはここへそういう話をしに来たのだった。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る