前と後

snowdrop

前と後

「連れて行こうかな」

「行かないわよ」

 互いの息が白む寒夜。

 競い合って反り立つビルの華やかなイルミネーションも、夜闇に包まれて寂しい色をみせている。車道を走る車も少ない。嘘を飾り立てるショーウィンドウにシャッターが閉まり、街は眠りにつこうとしていた。

「次の角を曲がろうか」

「行かないって」

 街灯だけがたよりの駅前を彼と二人、手をつないで歩く。ロングのウールコートより、彼の手は温かい。凍ったような風が、お酒で火照った頬に張り付き、酔いを冷まそうとしてくる。体のふらつきと心の揺れから、足元がおぼつかない。重力を感じなくなっていく。倒れてしまわないようにと言い聞かせればするほど、握る手を意識した。

 角が近づく度に「曲がるよ」と耳元でささやかれては、胸の鼓動が跳ね上がる。ダメだって、とつぶやいては彼に付き従って通りを歩く。

 幾度目かに、「曲がるぞ」と耳の奥に言葉を投げ込まれ、握る手を強く引っ張られる。

「だ、だめーっ」

 声を漏らしながらも角を曲がっていた。

 駅前から十分ほど歩いた場所にあるビジネスホテルにたどり着く。ホテル名に当てられたライト以外、明るさはない。自動ドアを二つ通ってフロアに入ると、ほのかに明るい照明に緊張が緩む。

 全体的に黒で統一されたフロアは広く、置かれているソファーに座っている人はいない。カフェが併設されているが、シャッターが下ろされていた。

「日帰りもあるよ」

「ビジネスホテルなのに?」

 思わず彼の手を強く握った。

 いいんだ、と独り言のようにつぶやいた彼。わたしの意を組んだのか、受付カウンターに備え付けられている自動ホテルチェック機の前に立ち、なれた手つきでタッチパネルモニターに触れながらチェックインを済ませていく。

 アメニティーを選べるよと教えられ、棚に近寄る。ボディタオルやシャワーキャップ、綿棒に基礎化粧品、数種類の入浴剤も用意されていた。季節柄、桜の入浴剤を手にする。

「よく利用するの?」

「たまに出張でね」

 枕も七種類から選べるというので、ふわふわに柔らかいものを彼に取ってもらう。ぎゅっと抱きしめると笑みがこぼれる。気に入ったみたいだねとささやく彼に手を引かれて、エレベーターへ向かった。

 窓もない、黒い壁と天井に覆われた狭い中に入る。彼が階のボタンを押すと、静かに動きだす。指を絡めてつながれたのに気付いてうつむく。床のタイルまで黒かった。

 九階に止まり、扉が開く。

 廊下の天井や壁も、黒かった。



 ※ ※ ※

 


 自動ドアを通って出ると、外の空気はひんやりと冷たかった。

 朝日を浴びるビルたちは、ボクはここにいるよと自己主張しはじめている。ショーウィンドウのシャッターも上がり、自信ときらびやかさを装いはじめていた。

 駅前通りやスクランブル交差点には、足早に行き交う人の流れができている。日の光の下、スーツやコートに身を包み、襟を正して歩く姿は勇ましい。

 対して自分はどうだろう。

 薄化粧で隠しとおせているだろうか。

 鼻歌交じりに腰を擦りながら、熱を失った指先を鼻へともっていく。触れた温もりも匂いも、彼のものは残っていない。火照りや疼きも、いまは遠い。思い出そうとしても一夜の夢後のように、なにがあったのかさえぼんやりしていく。

 でも、わたしの体には昨夜の熱が残っている。

 先に帰った彼はいまごろ、会社だろうか。何を考えているのかな。

 視線を落とせば、ぎこちない歩きをしている自分に気付く。

 立ち止まり、手ぐしで髪を上げて息を吐く。

 ――わたしも急ごう。

 顔を上げて胸を張り、行き交う人の流れに紛れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

前と後 snowdrop @kasumin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ