その世界を捨てた日

CHOPI

その世界を捨てた日

 窓の外、見える景色はただのビル群なのに、それでも季節の移ろいを感じられるのは不思議だな、とやけに他人事のように感じていた。その日はなんとなく空気が薄桃色に染まっていて、もうすっかり春なのだと思った。混じる優しい薄紫のニュアンスを含んだ水色が溶け込んでいて、見上げなくともすっきり晴れ渡っている空が連想できた。


「いいのかい?」

 後ろから声をかけられた。

「何が?」

 その声に平然と返す。すると声の主は少し声のトーンを下げてこう言った。

「どんなに後悔しても、ここにはもう、二度と戻れないんだぞ」

 後悔、か。自分は、後悔するんだろうか。全てを捨てて新しい土地に単身ひとり乗り込むことを。親を置いていくことを。妹を置いていくことを。親戚、親友、先輩、後輩……そういった周りの人間を置いて、誰も自分のことを知らない世界へと行く事を。後悔する日は、来るんだろうか。


 考えたところでわからなかった。かすかに感じる胸のこの痛みが、『寂しい』という感情がもとで痛んでいることは明白だけれど、それが後悔に繋がるのかはわからなかった。ただ、現状に依存しているから、それを脱却しようとしているから感じる『寂しい』なのか、本当に心から“やっぱりやめておけばよかった”と感じてしまうことに繋がる『寂しい』なのか。自分には全く見当がつかなかった。


「二度と戻れない、のは、やっぱり寂しいのかな」

 そう声にしてみると、後ろの声は言った。

「さあな」

 だよな、と思う。だってそいつの場合ははなから“個”だったから。誰に繋がるともない“個”の存在だったそいつにわかるはずもない。

「でも」

 そいつの声が続いた。

「もし、お前とこれから先、何かが起きて離れなきゃいけなくなった時、オレは初めてそれを考え、感じることになるんだろうな」

 ……あぁ。そうか。そいつには自分が、初めてのそういう存在なのか。そこまで考えたら、なんかもう、これからは自分も、後先を考えるのは止めようと思った。だってその時点で、どこへ行こうとまっさらな状態になれるわけじゃないんだ。自分にはそいつがいる。そいつには自分がいる。ほら。絶対に離れないやつが自分にはひとり、いるんだから。


「……大丈夫。後悔はしない」

 自分で決めたことだ。今の世界を捨てて、新しい世界に自分は行く。

「そうか。なら、行くか」

「……あぁ」

 そう言って、そいつは翼を広げた。どこまでも大きく広がる真っ白なその翼は、あぁ、まるで天使のようで。……ま、本物は見たこと無いけど。

 自分もまだ慣れない感覚ながらも、教えられた通り力を込める。ぶわり、大きく羽が広がる感覚。

「……何度見てもきれいだな」

 そいつが感嘆の声をあげる。自分の視界には入っていないけど、そいつが言うには自分の翼は深紅に染まっているらしい。


「さぁ」

「あぁ」

 そうして2人、窓から飛び出す。空高く目指していたけれど、飛んでいるのか落ちているのかよくわからなくなる。だけど不安は無かった。前を行く真っ白な大きな翼が、今の自分の全てだから。



 そうして自分は全てを捨てた。代わりに得たのは、そいつという世界だった。

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