第四話 十六夜と読書
四
――私は本と生きてきた。これからもそれは変わらない。
小泉皐月は自身の腹をゆっくりと撫でた。たまに中の子がこちらに反応するように蹴り返してくる。それが愛おしくて堪らなかった。
しかしそれを共有するパートナーはいない。
皐月は誰が何と言おうと、授かった命を育てると心に決めていた。昔から我の強い性格だった。自分で決めたことは曲げたくないし、誰にも曲げさせない。小説家になると決めたことも、特に親から反対されたが、貫いた。
午後から出版社で今度発売になる新作の会議があった。それは妊娠が分かる前に執筆し、書き上げたものだ。同時にサイン会も行おうと考えていたが、身重の体では負荷がかかるとして、諸々の決定が持ち越されていたのだった。
よっ、と力を込めて立ち上がる。予定日はあと一か月半ほど先だが、十分生活が億劫になるような体形に変わってきた。
皐月はタクシーの到着を待って部屋を出た。
*
「それでは、サイン会の開催はこの五つの会場でいいですね?」
担当編集者の小酒井が最終確認を取った。
「ええ。もう少し回りたいけど、体調が優れなかったら色々迷惑をかけてしまうし」
いいのよ、と皐月は自分に言い聞かせるようにする。
しかし一方の小酒井はもの言いたげに再び顔を上げた。
「ですが先生、よろしいのですか? 折角の上下巻発売イベントです。先生の体調も第一ですが、長年に渡って構築したこの作品を、私としてはもう少し華々しく世に出したいです……」
小酒井は言葉に詰まる。彼女は皐月がデビューした当時から付き合いのある編集者だった。担当となったのは五年ほど前。同性ということもあり、仕事だけでなくプライベートなことも気軽に話せる仲であった。
「妊娠が分かる間に発表してしまったからいけなかったね。かろうじて予定日の一か月後だったけれど」
「……先生、提案があります」
少しして小酒井は声を上げた。
「先生の地元はどうですか?」
「私の地元? S市だけど……公表もしてないし、行くには時間がかかるよ」
皐月は驚いて目を見開いた。
「ですがS市でのサイン会は初ですし、きっと現地のファンも喜びます」
小酒井は熱を持って喋った。
「でも……」
「出版社側には私が話を通してみます。会場のリサーチも私がします」
小酒井の目はいつになく強い光を放っていた。この仕事が大好きで、わき目も降らずに働く彼女がよく浮かべる表情だった。
「……わかったよ。S市でのサイン会も追加しよう」
皐月は小酒井の熱意に折れた。
その夜、就寝のため重い身体を横たえた時、携帯が振動した。
開くと母親からのメールが届いていた。小説家になると言い、実家を出て行ったきり会っていない母親である。父親とはそれ以来完全に連絡を遮断していたが、母親から近頃連絡が来るようになっていた。
妊娠のことはまだ言っていなかった。言おうか迷って、気が付けば何か月もの時間が過ぎていた。
『体調は大丈夫?』
妊娠を知らないにしては的を射た内容だった。
皐月は少し考えて文字盤を打つ。
『大丈夫。元気でやってます。お母さんも体気を付けて』
そして送信した。
一週間に一回連絡が来るか来ないかの頻度である。このくらいの会話で十分なのだ。
また言えなかった……皐月はそう思って目を閉じた。
*
それから三週間後。
皐月は家の書斎で倒れた。
貧血だった。
何とか落ち着いて意識を保ち、自分で救急車を要請した。さらに小酒井にも連絡を入れた。身近で信頼できるのは彼女しかいなかった。
到着した救急車に乗せられ、皐月は産婦人科に搬送された。
予定日まで残すところ一週間だったが、医師の診断により、帝王切開での出産を勧められた。胎児への栄養供給が減少しているという。
「普通分娩も不可能ではないですが、陣痛を待つ間に栄養の供給がさらに滞ると思われます。その時はもしものことがあるかもしれません」
皐月はベッドの上で、虚空に目をやった。横では小酒井が心配そうな表情で椅子に座っている。
自分が子供のころ、母親に聞いたことがあった。
『お母さんは私を生んだ時痛かった?』
『痛かった。けど、皐月に会えた時は嬉しくてそんな痛みは無くなっちゃったんだよ』
今でも微笑んだ母の顔が忘れられない
「わかりました。帝王切開で、お願いします」
皐月は言った。
「よろしいですか? それでしたらできるだけ早めに手術を行いたいと思っています。このまま入院していただいても構いませんか?」
皐月は頷いた。
その後の処理は小酒井が進めてくれた。さらに入院中に要りようの物を家まで取りに行ってくれた。
「先生、戻りました」
夜八時、小酒井が荷物を持って戻ってきた。
「帝王切開なんて……産後に痛みが酷いといいます。先生、大丈夫ですか」
小酒井は依然として心細げな表情を浮かべている。
「私のことはいいんだよ。この子が助かれば、この子に会えれば、なんだって」
そう言って腹の上に手を置く。中から微かな動きを感じる。何回感じても不思議な感覚だった。
「小酒井、今日は突然ごめんね。仕事もあるだろうに」
すると小酒井は首を振った。
「良いんです……私は先生の担当である以前に、友人ですから」
*
翌日の午後。皐月の手術が始まった。
二時間ほどで終わるから大丈夫と言っても、小酒井は待合室で待つと言って聞かなかった。
次に目が覚めた時、我が子と対面できると思うと不思議な感覚であった。
そしてその時間はすぐにやってきた。
「――小泉さん、聞こえますか」
ぼんやりとする中で声に反応して目を開けると。担当医がそこにいた。脇では小酒井がハンカチを手に立っていた。
「赤ちゃんは……?」
かすれた声で聴くと、担当医は笑顔を浮かべた。
「安心してください、健康に生まれましたよ。今は眠っています」
自分の横たわる傍に、小さな新生児用のベッドが置かれていた。
その中には、清潔な布にくるまれ目を閉じる小さな赤ん坊がいた。
「……ゆい――」
皐月の顔を静かに涙が伝う。それは自分でも気が付かないほどだった。
*
一か月後。
皐月は出身地であるS市にいた。新刊発売記念のサイン会はこの地を皮切りに行われるのだ。
「安心してください先生、結衣ちゃんは私が責任もって見てますから!」
ねー、と小酒井は皐月の腕の中にいる結衣に笑顔を投げかける。すると結衣もそれに手を伸ばして反応した。
「小泉さん、準備お願いします」
控え室に、書店の店員が顔を出した。
「じゃあ任せたよ。機嫌良いみたいだし」
皐月は結衣を小酒井の腕の中へと渡した。
出産から一か月経って、体調は大分元に戻りつつあった。しかし万全と言うわけでもない。たまに貧血のせいかふらつくし、もともと体力があったわけでもない。今まで気力で万事を乗り越えてきただけに過ぎないのだ。それでも持ち前のそれで、数週間で術後の痛みをリハビリによって乗り越えた。
今日が産後初の仕事でもあった。そのことは公表していない。できるだけ普通を装ってサイン会をこなそうと気合を入れた。
限定三百冊。通常のサイン会よりは多いとされる冊数だが、皐月は毎回この数にこだわった。自分がこなすことのでき、様々な人間と触れ合い記憶できる上限の数だからだ。さらにこの場を、作品を手に取ってくれる読者への感謝を示すことのできる、最大の機会と捉えていた。
三百冊の中で、実に様々な人物がやってきた。母親に連れられてやって来た幼い男の子、初めて自分のお小遣いでこの本を買ったという小学生の女の子、デビュー作から贔屓にしているという初老の女性、そして気になる女性がいると言って二冊分のサインを頼んだ青年、彼は何回か足を運んでくれているファンでもあった――皐月にとってサイン会は、次の作品につながる観察の場であった。
「最後の方です」
横に控えている世話役の書店員が知らせる。
二時間ほど経った。結衣は何をしているだろうか、皐月はそのことが気になっていた。
「……皐月?」
誘導されて入ってきた人物を見て、皐月の動きが止まる。
「――お母、さん……」
驚愕のあまりそれ以上言葉が出なかった。
「突然来てごめんね。でもSでサイン会をするっていうから、お母さん会いたくて……元気?」
母は変わらないようだったが、最後に見た時より格段に年波が襲っていた。そして皐月自身もすでに母となっていた。
「……お母さん、この書店の一階にあるカフェで待っててもらってもいい? 話したいことがあるから」
少し考えてそう言うと、母は頷いて本を手にブースを出て行った。
控え室に戻った皐月は小酒井に事情を話した。
すると顛末を知る小酒井はうっすらと目を潤ませて何度も頷く。
「行ってきてください。私、待ってますから。結衣ちゃんのこと知らせてあげてください」
小酒井に涙ながらに見送られ、結衣を抱いた皐月は指定したカフェへ足を向けた。
店の入り口で一瞬足が止まった。が、沸き上がった大小の気持ちを抑え母を探す。腕から結衣の暖かい体温が伝わってきていた。
そして、入口に背を向けて席に座る母を見つけた。
「お母さん」
その声に母は振り向き、一瞬の後にその手を口元へやった。
「結衣っていうの」
声の出ない母の腕に結衣を抱かせる。
「何も言わなくてごめん。ずっと知らせたかったんだけど、言い出せなくて」
向かいに座った皐月は思いの丈を話す。
「相手の人はいなくて、それで反対されるかもって思ってた。今まで、ずっと心配させるようなことばっかりしてきて、ごめんなさい。私も母親になってだんだん意識が変わってきた。お母さんって、すごいね。人並だけど、私はお母さんみたいな母親になりたいと思った」
母は結衣をあやしている。
「皐月」
ふと顔を上げた母の目は充血していた。
「たった一人で、よく頑張ったね。お母さんこそ、力になってあげられなくてごめん。皐月の娘、私の初孫……こんなに嬉しいことはないよ……ありがとう」
またしても皐月の頬を静かに涙が伝ったが、それは母も同様だった。
終幕
それから十年後のS市、市民会館。
「先生、S市での講演は初めてですね」
担当編集の小酒井が皐月のメイクを直しながら言う。
「講演の依頼が来始めたのがここ三年の話だし、なるべく遠方は断ってたからね。今回は結衣も大きくなったし、そろそろ受け始めても良いかなと思って」
しかしもう一つ事情があった。この十年で数年間、小酒井が皐月の担当編集から外れていたのだ。再び担当となったのが三年前、そのころの小酒井の営業が功を奏し講演会という新しい仕事につながったのだった。
「そういえば結衣は?」
「確か、近くのカフェに飲み物買いに行くって言って、おばあ様と出ていきましたよ」
皐月は自分の母を講演会に呼んでいた。結衣の世話を頼むだけでなく、自分の講演も聞いてほしいと思ったのだ。
「お母さんがいるなら安心」
「そうですね。年の割にしっかりしてますけど、たまに危なっかしいところもありますし」
とそこへ慌ただしく扉が開いた。
「お母さん! 講演会の前に差し入れだよ! これ飲んで頑張ってね!」
結衣は息を荒くして買ってきたらしいドリンクを差し出した。
「ありがとう、結衣。おばあちゃんは?」
それに口をつけて、皐月は聞く。
「お話に間に合わないかもしれないから私だけ走りなさいって。探しに行った方がいいかな?」
「あらあら……ううん、ここで小酒井と待ってて大丈夫だよ」
すると係員が皐月を呼びに部屋に訪れた。
「じゃあ結衣、行ってくるね。飲み物ありがとう、お母さん頑張れる」
結衣は笑顔を浮かべて母を送り出した。
*
小泉十六夜による講演会は『自分の生き方と子供――人生のあり方について』と銘打ち、会場は満員となっていた。
「お姉ちゃん、よくチケット取れたね。先生の講演って倍率すごいって聞くけど」
会場最前列を陣取っている愛美は大学二年生となっていた。瑠歌と同じ大学の文学部に籍を置いている。
「まぁ、正直言うと出版社のコネだよ。これ以上は企業秘密だけど」
瑠歌は笑顔で人差し指を立てそう言う。瑠歌は大学を卒業したあと、大手出版社の地方支店に勤めていた。
「今度お礼言っとかないとな。佐竹さんは早めの出産祝いって言ってくれたけど」
瑠歌の横に座る春也は彼女のお腹にポンと手を置いた。春也の勤務先は、部署は違えど瑠歌と同じ出版社である。
さらに瑠歌の苗字は三年前に小野寺から深川へと変わっていた。そして現在妊娠が発覚し出産、育児休暇を取っている。
「私も二人と同じ会社は入ろうかなー、色々融通利きそう」
愛美は冗談交じりで笑って言う。
「良いじゃん。校閲の仕事とか楽しいよ」
「いや、校閲はやめといたほうがいい。目と頭が痛くなる」
瑠歌の提案に春也は渋い表情を浮かべた。
「それは春也君だからでしょ。愛美ちゃんならできるよ」
「春也さんのお仕事って、雑誌とかの企画だっけ?」
愛美が問いかける。
「主にね。雑誌の他にも作家さんのこういった講演会だったり、イベントの企画をしたりもするよ」
「へぇー、楽しそう。私やっぱりその会社入るね。お姉ちゃんの後輩として」
三人はそれに笑う。
そしてブザーが鳴り、会場は暗転した。
ステージに現れた小泉十六夜は温かい拍手で迎えられた。
私が読書を好きな理由 烏乃 @karasuno-k
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