第三話 春也と読書

         三



風が冷たくなってきた。そろそろこの特等席も限界かもしれない。

春也は本から顔を上げた。

大学構内にある東屋は風通しもよく、夏になれば日陰にもなり快適この上ない場所だった。しかし今の季節は葉が散り始める頃だ。日も傾いてくると読書に集中できなくなってくる。

春也は本を閉じ、東屋を出た。

最近は就職活動や卒業論文に追われて、中々安らいだ時間が取れない。不意にできる空き時間を使ってしか、このお気に入りの場所に来ることができていなかった。

今日の場合は、午後に予定されていた卒業論文の講義が教授不在のため休講になったのだ。就職の面接練習でもしようかと考えたが、天気が良かった。途中の本もあることだし、と外へ出たのだった。

「あ、ハル! ちょうどよかった!」

校内へ戻ろうと歩いているとき、後ろから声がかかった。友人の圭だった。

「今日の夜、暇か?」

春也は圭の顔をじっと見た。圭は目が大きくぱっちりしている。それだけで女子受けがよかった。

「今日は空いてるけど、なんでまた?」

すると一瞬、圭の目に力が入った。

「よっしゃ助かった! 実は合コン行く予定だった友達が抜けちゃって、人探してたんだよ」

「また合コンか。お前も飽きないな」

一部の人間に遊び人と呼ばれていることを春也は圭に言わなかった。

「で、参加してくれるよな?」

「あー……まぁいいよ。俺も今日は息抜きする日って決めてたから」

圭は半ばすがるような目を向けていた。春也の面倒臭いという表情は無視された。

「ホントに助かる! じゃあ六時に駅前のイタリアンレストランな!」

じゃ、と圭は走っていった。

彼の顔を見て近寄った女は、彼の性格を知ってすぐに離れていく。圭は大学四年生、春也と同じ文学部で高校から知り合いだった。春也は七年間、圭を見てきたが、春也の感情が彼に伝わることは一度もなかった。

軽くため息をつき、当初の目的地へ向かった。

大学図書館。

高校の図書室とは比べ物にならない蔵書と、知識がふんだんに詰まった空間が春也は好きだった。雨で東屋の居心地が悪いときや調べものをする際は必ずここにいた。

窓際の端の席が春也の定位置だ。机も仕切られておらず、開放的に使える反面、横には壁があるのでなんとなく落ち着くという理由だった。

そして先程の本を開く。

『光の森と闇の海』は、春也が贔屓にしている作家、小泉十六夜の最新刊だ。前編と後編で成り立つこの小説は、二週連続で刊行される仕様となっていた。『光の森と闇の海』はその前編である。明後日には後編が発売する。それまでに読み切るのが目標だ。

小泉十六夜はファンタジーが主なフィールドだが、それを地盤にした様々なストーリー展開も見逃せない。今回の作品も、ファンタジーな世界観ながら、登場人物の圧倒されるような人間味が溢れる小泉らしい作品だと自己評価していた。

春也はやはり圭に誘われて、何度か合コンに顔を出したことがあった。しかし圭が集めるのは元気でキラキラした今時の女子が多かった。

春也はこれまで彼女がいたこともあったが、圭のように交際相手が欲しいと切実に思ったことはなかった。今もそうなのだが、縁があれば程度にしか考えていない。しかし、読書の趣味が一緒で本を愛していることが条件としてあった。


           *


六時前になり、春也は駅前のイタリアンレストランの店前にいた。集合と言った本人はまだ来ていなかった。普段通りのことだ。

少し待つと、女子と他の男子を連れて圭がやって来た。

いつものように仕切っている圭に付いて店内に入る。案内されたのは一番奥の部屋だった。八人がけの席らしく、すでに女子二人が座っていた。一人はメイクをバッチリと決めて気合いが入った様子。もう一人は壁際に座り、少し固い表情で春也達を眺めていた。

人数合わせかな、と春也はその女性に同情した。

そして春也はその女性の前の席に座ることになった。圭がそれを割り振ったのだが、自分を中心に脈ありの女性を並べる傾向があるので、そういうことなのだろうと春也は思った。

「自己紹介でもしますか!」

圭は気分が良さそうに声を上げた。確かに、春也の目から見て彼好みの女性が集まっていた。

女子が自己紹介する度、圭は盛り上げるような拍手をした。それにつられて、周りの男子も高揚してきたようだった。

そして最後の女子。春也の前に座る彼女の番になった。

「小野寺瑠歌です。趣味は読書です」

それだけ言うとすぐに座った。他の女子より格段に情報量が少ない。圭も面食らったようで、盛り上げきれず曖昧に拍手をした。

しかし春也は逆だった。一仕事終えたという表情の小野寺瑠歌のことが気になった。


           *


「小泉さんの新刊、読みましたか?」

 席に戻った二人は、どちらからともなくその話題を引き出す。

「もちろん! 実はつい先ほど読み終えたんです。あの量で前編だけとは驚きますよね」

「本当ですよね。同じページ数くらいで後編も出るんでしょうかね」

 瑠歌は先刻とは打って変わって笑顔でいた。

「私、主人公の感情が痛いほどわかって……すごく泣けました」

「主人公もそうですけど、登場人物それぞれに際立つ性格を与えられるなんて、小泉先生くらいにしかできないと思います。しかもそれを小説でやってのけるなんて……」

 春也の熱い語りに、瑠歌も首肯する。

「はい、本当に。漫画をまるごと文字に起こしているようですよね。それでいて面白さを褪せさせないなんて……一種の職人だと思います」

 瑠歌の例えに、春也は軽く噴き出した。

「職人と言う言葉、小泉先生にぴったりですね。そうだ、今度先生のサイン会があるの知ってますか?」

「もちろんです。でも、重要な企業説明会がちょうどかぶっていて、諦めていたんです」

 その瑠歌の様子全てから、落胆という気持ちが伝わってきた。

「それなら、俺が小野寺さんの分までいただいてきますよ!」

 春也はその様子を見て、勢いで口走る。

「え、本当ですか?」

 ばっと顔を上げて、瑠歌は穴が開くほど春也の顔を見つめた。

「任せてください。俺、その日は午後からの用事だし、最初から行く予定だったんで!」

「あの、本当にありがとうございます……失礼ながら、お名前教えていただいてもよろしいですか?」

 最後、瑠歌は恥ずかしそうに、か細い声で言った。

「先程の自己紹介、聞き逃してしまって……」

「そうだったんですか、気にしないでください。深川春也です。あの、連絡先、聞いてもいいですか?」

春也が携帯を出すと、じゃあと言って瑠歌もそれに倣った。


         *


 後編『地の善と天の悪』が発売される日、春也はサイン会が開催される書店の開店二時間前に並んでいた。

すでに人が集まりつつある。小泉十六夜は人気作家である。地方でのサイン会が初開催ということもあって、開店と同時、またはそれ以前に整理券が無くなる。

 今朝早く、春也の携帯には「今日のサイン会、お願いします」と瑠歌からメッセージが入っていた。春也は「終わったらお渡しします。楽しみにしていてください」と返しておいた。春也に午後の予定があるため、本を渡せる時間の都合が十二時前後の少ない時間しかなかった。

 何度かやり取りを交わして、春也は瑠歌に対して好印象を持っていた。引っ込み思案ではあるが、自分をしっかりと持っていて、優しく気遣いもできるようだと春也は気が付いた。しかも本の趣味も合う。たまに心臓がざわざわと騒ぐときもあった。

 二時間後。

 春也は無事に整理券をゲットし、新刊二冊を手にブースへと並んだ。予想通り、春也と同じように店先に並んでいた人がぞろぞろと列を作り始めた。

一人の持ち時間は一分弱。流れは速い。

 ついにスタッフが春也に手でどうぞと促した。

 春也は開催の多い首都圏まで足を運んでまで何度か参加しているが、毎回この瞬間は緊張した。

「さ、お名前は?」

 テーブル越しに椅子に座る女性は、小柄で眼鏡の奥から優しい表情をのぞかせる。本を渡す手が若干震えた。

「季節の春に、なりと読む也で、春也です」

「春、也さん……っと」

 ありがとうね、と小泉十六夜は本を差し出す。

「あれ、そういえば、前のサイン会にも来てくれたS市の春也君?」

 本を返す時、十六夜は思い出したように言った。

「は、はい、そうです。よく覚えていらっしゃいましたね。嬉しいです」

「仕事柄、物覚えはいい方で。私もS市で開催できて嬉しいよ。実はここだけの話、Sは私の出身地なんだよ」

「そうなんですか! 知りませんでした」

 突然の情報に春也は面食らった。十六夜は微笑むような表情を向けている。

「あ、すみません、もう一つあるのですが」

 スタッフに誘導される前に、春也は急いで言った。

「ほぉ、いいよ。お名前は?」

 嫌な顔もせず、十六夜は本を受け取った。

「瑠璃色の瑠に、歌うで、瑠歌とお願いします」

 綺麗な名前だねぇ、と言いつつさらさら書いてゆく。

「はい、瑠歌さんへっと。野暮な質問だけど、彼女さん?」

 本を渡すと同時にそう聞かれ、春也は再び面食らった。

「ああ、ごめんね。私、そういうの気になるタチでさ」

 そうは言うものの、十六夜の目は興味深そうに春也を見つめている。

「今はまだ、知り合いです。でも、いずれは……」

 春也はそれだけ言った。

「へぇ……頑張るんだよ、春也君」

 にやりとして、十六夜は小さく親指を立てた。

 ありがとうございますと頭を下げ、スタッフに促されて春也はその場を去った。

 そして昼過ぎ。

リクルートスーツに身を包んだ瑠歌が待ち合わせの場所にやってきた。いつもより格段に地味さが際立っていた。

「はい、ご希望のものです」

 春也は少しおどけて言ってみた。

「ありがとうございます。お手数じゃなかったですか?」

 彼女にも柔らかい表情が広がった。

「気にしないでください。むしろ、先生と話す時間が増えて嬉しかったので」

 まぁ、と瑠歌は予想外の反応に驚いて笑う。

「お時間大丈夫ですか? お礼にお茶でもいかがです?」

「全然大丈夫です。ちょうど俺もお茶に誘おうかなと思っていたところなんで。面白い話もあるし」

 話がまとまり、二人は近くの珈琲店に入る。

 話しているうち、瑠歌には笑顔が増えてきた。当初の印象とは雲泥の差だった。地味なリクルートスーツでも瑠歌には笑顔が似合っていた。

 そして春也は気が付いた。彼女を本気で好いたことを。

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