第10話

 『ムーラン・グロッタ』の夜。高いテーブルの上に、空のグラスが並び、客たちが思い思いに酒を呑んで楽しい時間を過ごしている。

 静かなトーンでたわいのない話をしていたヘクセンが「しっ」と口元に人差し指を立て、鋭い視線を背後に向けた。どうしましたか、と私の声も掠れる。


「たぶんこれから面白いことが起こるぞ。後ろの男女に注意してみて」

「はい」


 背後のテーブルに腰かけていた男女は恋人同士のようだ。笑いが絶える様子はない。しかし、男の方が真顔になる。椅子を降り、その場で膝をついた。紺のジャケットから出した小箱からダイヤモンドの輝きが放たれる。

 男性は「僕と結婚してくれる?」と言い、女性は驚いたものの、感激したように二度、三度と頷いた。店内から湧き上がる拍手。私も釣られて手を叩いた。


「どうしてわかったんですか?」


 手品のタネを知りたがる子どものような気持ちでヘクセンに訊ねれば、たいしたことじゃない、と前置きしてから、「人を見るのが癖なんだ。彼は笑顔のようでいて、緊張している様子で、しきりにジャケットのふくらみを気にしていた。目の前の恋人とも順調そうにみえたし、プロポーズでもしそうな気がしたんだ」と答える。

 細かいことかもしれないが、実際に当ててしまえるのだからすごい。


「ほかにもわかることはあったりするんですか?」

「もちろん。君の秘密のこともね。目は雄弁に物を語るから」


 鞄から頭をひょっこり出していたテディベアが「マリーのこと?」と言いつつ出てこようとした。なんと無防備な。綿の詰まった頭を押さえる。

 彼は私とマリーの攻防を微笑ましく見守っているようで気まずい。ただその時に、漠然と違和感を持った。私を見るヘクセンの目。黒い瞳に私が映っているだろうに、そこからにじみ出る感情がない。それはさきほど、プロポーズした男性のした眼差しとは熱量が違うように思えた。

 この人は何を考えているのだろうという疑問が小さな棘のように心に刺さっていつまでも抜けないでいる。

 だからこうも思った。彼は好意を態度で示そうとしているけれど、その実、私に恋をしていないのかもしれない、と。




 表向きは平和な日々だった。有給休暇を終え、仕事に復帰する。空き巣が入ったことは職場にも知られており、口々に労われた。当の空き巣はまだ捕まっていない。盗まれたものもないため、警察もそこまで熱心に捜査している様子もない。

 一方で世間は選挙の終盤戦だ。選挙動画が携帯端末メルクリウスの動画サイトを席捲し、演説番組が放送され、拡散された。閲覧数に比例して、さまざまな人々がコメントを書き込み、自由に議論を戦わせている。

 私は単なる興味でマクレガン氏の演説を閲覧したものの、思いのほか引き込まれてしまい、最後まで見てしまうことがあった。普段は軟派な印象なのに、演説での彼はまるで遠くの知らない人間のように映るのだから不思議なものだ。

 さて、マクレガン氏の対抗馬として出てきたブラックロペス・ゴッドフリート氏は演説動画を出しておらず、もっぱら街頭での演説や選挙チラシで地道に活動しているらしい。一時期は熱狂的な信者もついているようだが、今は下火になっている。

 それは彼のカリスマ性を支えていた神秘性が薄れたことも関係あるのかもしれない。

 つい先日のことだ。とある週刊誌がゴッドフリート氏の記事を出した。『ゴッドフリート氏の過去はエリート軍人で、精神疾患と飲酒を理由に懲戒処分にされていた』という趣旨の記事だ。

 見た目には顔面が髭で覆われているゴッドフリート氏だが、週刊誌に掲載された写真の彼はいかにも清潔感あふれる知的な青年である。現在の彼と面立ちも通じており、本人であることが明らかだった。

 私をオフィスに呼び出した上司はこの記事を示しながら、「うん。これでもう大丈夫だろう。よかったね」と言った。


「あの、説明してください」

「……それは必要かなあ」

「必要ですよ!」


 そんな問答を経た後、上司は「君に預けた小型メモリのことだよ」と言った。


「あれですか」


 私はテディベアを持って戻った。上司は渋い顔をしながら、ワンピースのポケットに手を突っ込む。マリーもただのテディベアのふりをして我慢している。

 上司は小型メモリを指でいじりながら、


「これには機密情報が入っていたんだよ。もっと具体的に言えば、我が国の軍隊の中にある、諜報機関に属していた人物たちのリストだ」


 とんでもないことを言い出した。

 なんという危なっかしいものを預けてくれたのか。


「改名前のブラックロペス・ゴッドフリート氏の情報もここにある。どういうことかわかるかい?」

「彼が軍関係の、それも諜報員スパイだということですか」

「そう。やっぱり、昔から軍隊というものは国政にも力を及ぼそうとしてきたからね。時に与えられた権力を望まない方向に使おうとする」


 彼は軍の強硬派が、選挙を機に国民を二分化して争いを生じさせようとしていたと語った。


「ゴッドフリート氏の手法は、国民に潜在的に存在する暴力的な思考を喚起させようとするものだ。我々が世間に揉まれる中で得てきた常識や道徳観念を捨てさせ、感情的な理由だけで他人を淘汰させようと仕向けている。厄介なところは、多くの人が心のどこかで本当に思っていることだよね。ゴッドフリート氏の言葉は不満を持っている人に対してその思いを解放しても構わないと促している。魅力的な誘惑だよ」

「そんなことをしなければならない理由がありません」

「今が平和だからじゃないからかな。軍に費やす予算は年々削られていることは君も知っているだろう? 彼らは自らの存在意義を証明しようとして、自作自演を試みようとしたんだよ。ゴッドフリート氏というカリスマ的指導者を誕生させることによって」

「無茶苦茶ではありませんか」

「でも、ありえない話でもない」


 我々には理解しがたい思考だがね、と上司は付け加え、コーヒーカップを傾けた。


「小型メモリが狙われたのは、彼が軍籍にいて、諜報活動に従事していたという証拠でもあるからだ。ただし、それはもしもの時のスペアだけれどね。オリジナルは今、スクープを出した週刊誌の会社の秘密金庫の中にでも仕舞われているだろう」

諜報員スパイの死は、自らそれと知られてしまうことですから、私がもう狙われる必要もないわけですね」

「正解」


 上司はにこりと笑う。


「ちなみにこれは本当に君への試験も兼ねている。君は機密情報を漏洩せず、無事に守り切った。ようこそ、国立国民議会図書館ポンパドーラへ」


 差し出された手を、お世辞代わりに握り返す。私が何かを成し遂げたという自覚はなかったけれど。


「一つ教えていただきたいことがあります」

「何かな」

「『チューベローズ』をご存知でしょうか?」

「僕は会ったことがないなあ」


 上司はのんびりと答えた。


「ただ、リストに名前はあるよ。どうやらハニートラップが得意な諜報員スパイらしいね」


 心臓が、不穏さを敏感に感じ取って激しく鼓動する。

 もし仮に、と前置きしてから彼はこう言う。


「君の近くにそれらしき人物がいたとしても、それはそこまで不思議なことじゃない。君は、自分が若くして国立国民議会図書館ポンパドーラの職員になれた理由をわかっているよね?」

「それは……」

「自分では言いにくいか。これでも僕は感心したことがあるんだよ。君が入館する前に作り上げた、子供向け図書館教育プログラムの出来に。君は古い書物にも精通していながら、高いプログラミング技術も有していた。全国プログラミング大会のプログラム部門で一位になった優秀なプログラマーでもあった。今はおくびにも出さないけれどね。しかし本人の意向を置いておいても、軍にとって引き入れたい人材だということだろう」


 くらり、と眩暈がした。



 下院選挙の結果が出た。青の国家民主党が赤の労働党に議席数で勝り、政権が交代、大統領も変わることになった。地元の選挙区では、大方の予想通り、マクレガン氏は地区の首位当選を果たし、二期目の議員生活を確保した。ゴッドフリート氏は票が伸び悩み、落選。彼の落選はさして大きなニュースにもならなかった。

 職場近くで設営されていた選挙スタンドが次々と解体されていくのを眺め、このお祭り騒ぎが終わることにほっとする。

 当選した議員は明日には議会に集まり、まもなく新しい議会が始まる。結果、国立国民議会図書館ポンパドーラへの調査依頼も増え、私の知る日常に戻っていくのだろう。

 その日、私は用事があって、はやめに国立国民議会図書館ポンパドーラの門を後にした。

 路面電車トラムに乗ろうと停留所へ歩きかけた時、腕の辺りを叩かれた。

 そこには背広姿の紳士が立っている。「渡し忘れたものがあったから」と言って、苺柄の包み紙にくるまれたキャンディーを掌に載せてくる。


しよう。あなたはすぐに待ち人に会えることだろう」


 その意味を問う前に、どこか見覚えのある紳士は颯爽と歩き去っていく。その際に、胸元で金色の十字架が揺れている。今の彼に髭がなかったが……。ぶるりと悪寒が走る。

 包み紙をほどいてみると、市販のストロベリーキャンディが入っていた。食べようという気も起きない。

 その男は、若いころのゴッドフリート氏にとてもよく似ていた。

 まもなく、向かい側からある人が現われた。彼が『待ち人』だったのか。


「……チューベローズ」


 ふらふらと歩いてきたその男は、にこりと柔和に笑う。私の知る彼とは入っている魂そのものが別のものに入れ替わって見えた。表情も、目つきも、纏う空気感そのものが違っている。

 彼の唇にはピンク色のリップがつやつやと塗ってある。


「あら。ばれていた?」


 今の彼はとても女性的……いや、中性的だった。歩き姿、首を傾ける仕草、声の張り方。すべてが柔らかみを帯びている。自然なようであり、高度な演技をしているようでもある。彼の素がわからない。


「もう私に用はないと思っていました」

「そんなことはないよ。あなたに会いたくなった。これは本当。でもどこからその名を聞いたのかは気になる。大方、あの上司が言ったのかな。『チューベローズ』という名前も使えなくなってしまうわね」

「あなたを何と呼べばいいですか?」

「なんでも。ヘクセン・クォーツでもチューベローズでも。どちらの名前でも返事をするわ。わたしの名前ではないけれどね」

「はじめからそのつもりで私に近づいてきたんですか。あの、繊維街から」

「運命の出逢いだと思った?」

「……いいえ」


 否定する声が固くなる。


「そうだね。あなたはいつも慎重だった。どうにもあなたの好みの男にはなれなかったみたい。あなたはああいうのが好きだと思ったんだけれどな」

「けれど、私には見破れませんでした。諜報員スパイが身近に潜んでいるなんて、普通に生きていたらありえません」


 見合いの席で彼に会った後、送ってもらう際に彼の職場に連絡したが、それも彼の携帯端末メルクリウスを借りてかけたものだ。いちいち番号を確認していなかった。それ以降、私は彼を微塵も疑わなかった。ふつう、警察官ならシフト勤務しているのに、彼はいつだって午後七時に『ムーラン・グロッタ』にいた。あまりにも大きい嘘に思考が及ばなかったのだ。


「ふふっ。それはどうかしら。あなたは自分が普通の人だと思っているの? 他には滅多にいない特別な人なのに」


 視線が斜め下に動く。鞄から頭の上半分だけ見せていたテディベアへ行く。彼はマリーが言葉を話すことを知っているのだ。


「空き巣が入ったのも、あなたが……」

「関わっていないと言えばウソになるわね。わたしが仲間に指示したの。相手がなかなか心を許さないからって」

「小型メモリの隠し場所に、心当たりはなかったようには思えません。マリーのワンピースについたポケットには気づいていたはず」

 

 彼は手の甲を口元に当てて笑った。


「ふふふ。いいの。あれは失敗しても問題ないものだったから」

「……え?」

 

 不審に思っていると男はいっそう笑みを深める。


「わたし、全然国家に対する忠誠心はないの。誰がわたしの能力を買ってくれるか。それだけ。知ってる? 諜報員スパイが一番輝く時は平和な時。戦争はスマートじゃないから嫌い。この仕事が好きなのよ。たくさんの人間の仮面を付け替えて、器用に世間を渡っていく。誰にも縛られないわ」


 彼はとても楽しそうだ。ヘクセン・クォーツだった時よりも。


「その話し方も、仮面ですか?」

「どうだと思う?」


 わかりません、と正直に首を振る。彼は秘密を打ち明けるように人差し指を唇に当て、首をかしげてみせる。


「君もこっちの世界へ来たらわかるよ。来る?」


 彼が最後の誘惑を仕掛けて来た。正直、ほんの少しぐらついているけれど……。


「そんな器用なことはできそうにありません」

「そうか。今、満たされているんだね」


 はい、と言いながら、身を絞られるような寂しさも感じていた。このやりとりが終わったらこの人はいなくなる。チューベローズ。『危険な誘惑』という花言葉を持つ花の名で呼ばれている彼は、すぐに次の「誘惑」へ向かうだろう。


「ある本で読んだことがあります。人間が相手に好意を持った時、話していると瞳孔が開くんだそうです。だから相手の目は大きく見え、一層魅力的に見えます。だから『瞳に吸い込まれそうな』という表現があるのだと思います。あなたはそうは見えませんでした。ずっと、変わらない目をしていましたよ」


 彼の反応は朗らかに「ならもう用はないね」と告げて、私とすれ違うように歩き出した。

 さようならの言葉もないが、これが本来の距離感なのかもしれなかった。私だけが彼の後ろ姿を名残惜しく見つめている。

 その時、幻を見た。ドレス姿の金髪の女性が、彼と腕を組んでいる。彼を見上げたその横顔が、不思議と鮮明に見えた。

 人生の幸福を得た女性アン。

 稲妻のように脳の回線がスパークし、反射のように首から下げていたペンダントをむしり取っていた。

 ああ、そうか。本当ははじめから繋がっていたのかもしれない。それこそが『運命』だったとしたら、受け入れられる。


「チューベローズ!」

「おっと」


 叫ぶのと同時にペンダントを投げる。振り返った男は目を見張りながらとっさに右手でキャッチした。


「それはあなたのものだったみたい。あげる!」

「はっ……? え……?」


 立ち止まった男はペンダントを掲げた。その傍らには女性が優しい顔で寄り添り、夕陽に照らされて鈍く輝く金色を見上げている。

 やがて男はペンダントを包み込むように握る。こう言った。


。リディ・フロベール!」


 ペンダントを握った手を大きく上げて、彼らは去った。

 ふと足元にはカラスがいて、グワア、と満足そうに啼いたが、目をこすったらいなくなっていた。

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図書館員リディ・フロベールと大鴉の塔 川上桃園 @Issiki

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