マイソシア・クロニクル『封心炎儀』

第一章『旅人の日常』1

　　今より昔、とても昔の大昔。

　　天と地の生まれていない、まだ全てが一つだった時代。

　　分厚い灰色の雲を割り、光と闇と共に現れたのは、

　　全知全能を司る『神』でした────

　晴れ渡る青い空。

　色とりどりの花々、根強く萌える若葉の絨毯。

　朝露に濡れた広大な草原に涼風が吹いて、緑一面を大きな波が何度も横切る。小動物が顔を出し、姿を隠し、思い思いに駆け巡り、じゃれ合う姿を見ることができる穏やかな風景。

　そんな景色の中心、小高い地の頂上に一人の少年が立っていた。

「……………………」

　線の細い痩せた顔に、目の端の下がった優しげな表情。広大な青空を遠く眺める瞳は黒曜石のように濡れ、雑に整えられた髪がそよ風になびく。中肉中背を紅葉色のローブとくたびれたブーツといった旅人然とした軽装で身を包み、膨らんだ麻の袋を肩にかけ、腰に下げたポーチからはカチャカチャと硝子の触れ合う音が鳴った。

　年の頃は十代後半か二十代前半か、それより若いということはないだろう。

「今日はどこに行こうかなぁ」

　少年は独り呟く。ヒュウと小さく風が切る。

　これといって、少年の周囲に誰かが居るというわけではなかった。ただただ少年の背を風が押し、跳ね回る小動物が数匹遠くにいるばかり。

「今日はゆっくりのんびりするのも良いなぁ。清々しくて、気持ち良い風が吹いてるし。もう暫く日が暮れるまでいるのも悪くないけれど」

　背の低い草むらからひょこりと小動物が顔を出した。しかしすぐにどこかへと顔を向け走り出してしまう。

「うーん、今小さな動物が顔を出したところを散歩をしてみるのはどう？　草むらの陰に隠れた、何か新しい発見がありそうな予感がするんだよね」

　そう言いながら少年は麻の袋を担ぎ直し、その場所へと向かって歩き出す。

　その時、草花を散らす一陣の風が少年の横を吹き抜けた。

「気持ち良い風かどうかは私が決めることです」

　足を止めた少年の前で草花が渦を巻き、球を形作って一瞬だけ煌く。

　すると、どこからともなく小柄な少女が現れた。

　小柄と言ってもその全高は少年の頭ほど。薄く金色に発色する錦糸を風になびかせ、白色を基調にした飾り気のない衣服に身を包み、背中から伸びた半透明の四枚の羽がパタパタと振動する。

　白磁の肌に大きな瞳を湛えた顔はまるで人形のようで愛らしく、碧眼の双眸で少年のことを見つめている。

「今日は少し湿度が高いですね。アルマにとってはちょうど良い、気持ちの良い風かもしれませんが、私としてはもう少し湿度が下がってくれると羽がよく動きます」

　首に下げた曇り水晶のネックレスを手に取って眺め、自信ありげに掲げて見せる。

　それに少年・アルマは苦笑いを浮かべると、麻の袋を草原の上に下ろし、

「イーシャは細かいなぁ。それで出てきてくれなかったのか」

「それで出てこなかったということはありませんが、細かいのは仕方のないことです。むしろそういうことが分からなければ、〈風〉を司る精霊としての名が廃るというものですから」

　風を司る精霊を自称する小人・イーシャは腰に手を当て小さな胸を張り、誇らしげに笑みを浮かべた。

　精霊。

　時に激しい雷雨の中で飛び回り、時に猛烈な山火事の中で小躍りし、時に地震の前触れとして人々の前に現れる。ふとした瞬間に現れては消える、神出鬼没の存在。精霊は『相』と呼ばれる空気中に満ちた不可視のエネルギーが形を成した生命体とされ、一種類の相が一ヵ所に集中し、濃密になることで精霊は誕生すると言われている。

　特に人語を解し、人間と交流を行う精霊は──特別な力をもつ。

「それもそうか、暴風の精霊さん」

「それもそうですよ——って私は暴風じゃないですって！　そんな暴れ馬みたいなものより、そよ風みたいな淑やかで落ち着いた雰囲気が私にあると思いません？　ほら、いい感じに風が吹いて髪が靡く様子とか」

　フワリとイーシャは腕を振り、吹いた風を正面から受け止める。しかし少し勢いを強くしすぎたのか、バサバサと金色の髪は暴れてしまい、とても靡くといった様子ではない。その本人はいたって涼しげな顔をしているが。

　それにアルマは苦笑いを呈すと、空を見上げつつ言う。

「さて、今日は本当にどこにも行かなくて良い？　まだ日は高いし、ちょっと遠くまで行っても大丈夫だけど」

　それは大丈夫です、とイーシャは言うと、ふわりと浮かび、何食わぬ表情のままアルマの頭上に腰を下ろした。

「ここからちょっと遠くといっても、日が落ちるまでにルクアスの森から出ることはないでしょう。強いて言うなら、西方の山々の麓にあるというディグバンカー鉱山ですね。なんでもあそこは地獄の底へと繋がっているとかいないとかって話ですよ」

　興味があるから連れていけと言わんばかりに、アルマの頭を叩くイーシャ。

　それにアルマは少し間を置いて、顔をしかめて言った。

「ええっと、イーシャ？　片道だけで何十日とかかるけど」

「ふふふ。ゲヘナ地域は色んな宝石の原石も産出するみたいなんです。燃えるような色合いの蛋白石（オパール）が取って、装飾品にすればアルマもお洒落の仲間入りです。たまには麻袋の代わりにツルハシでも担いで一山当てに行きましょうよ」

「……一山当てなくても、今のところは間に合ってるから」

「私、ふっかふかのベッドが欲しいです。巷で噂の低反発のバネが入っているとかいう」

「聞いちゃいない……そんなに欲しいものだったら、それの組成を調べてき」

「あっ、アルマ。ほらほら白兎（キキ）です、とても可愛らしいですよ！　おやおや、何やら慌てた様子で近付いてきますね、どうしたんでしょう？」

「…………聞いちゃいないね？」

　呆れたようにアルマは額を押さえて、それを見てイーシャは堪えるようにして笑った。彼らの眼下でちょこんと座り込む白兎（キキ）は、不思議そうに首を傾いでいた。

「とりあえずお話を聞きましょう。白兎（キキ）さん白兎（キキ）さん、いったいどうしたのですか？」

　背中の羽を動かし、アルマの頭から飛び降りる風の精霊。キュッキュッと鳴く白兎の前まで来て頭を小さな手で撫でると、周囲の草むらからガサガサッと音を立てていくつもの長い耳が飛び出した。そのどれもが目の前の白兎のものよりも一回り大きい。

「え、あわわっ」

　白兎（キキ）が急に駆け出し始めた。驚いたイーシャは草むらへと落下する。

　心配そうな声を上げる大兎に囲まれて、さっきの小兎は小さく鳴き声を上げる。そして大小揃い揃って鳴き声を上げると、草むらの奥へと去って行ってしまった。

「さようなら～。ふーむ、どうやら迷子だったみたいですね」

「そうじゃないかと思ってた。これだけ草が茂っていれば、子どもの白兎（キキ）なら森に迷い込むようなものだし。

　それで、白兎（キキ）は何を言ってたの？」

　イーシャの隣に座り込みながらアルマは言う。

「嫌な予感がするから早く帰った方が良いとのことです。風もじっとりとしてきましたし」

「雨が降るかもしれない？」

「はい、その可能性はありますね」

「こんなに晴れてるのになぁ」

　アルマは頭上を仰いだ。少し遠くに雲が見えるも青空が広がり、見ているだけ心が軽くなって暖かな日差しに眠気を誘われる。

「先ほども言いましたが、湿度が少し高いのは確かですよ。山岳地方ほどではないとは思いますが、突然天気が急変するなんてことは多々あることですから」

「じゃあ、イーシャの言うことを信じて帰ろうかね。降るとしたらいつごろ？」

「日が落ちる前ぐらいですかね…………なんですその顔。信じてませんね！」

　立ち上がり、伸びをして息を漏らすアルマの顔を見上げてイーシャは声を上げる。

「信じてる信じてる」

　おどけた様にアルマは肩をすくめて。

「本当ですか？」

「さぁ？　さてさて行こうか」

　口を尖らせるイーシャを拾い上げ、頭の上に乗せたアルマは歩き出した。