序章『英雄の凱旋』

 冷たい雨の降る日のこと。

 遙か天上を覆い尽くす、幾重にも重なる黒い雲。降り注ぐ凍てついた雨は、触れれば身を切るような痛みを生じさせる。滝のように降る雨に止む様子はなく、今もなお勢いを増し、後に史上に残る大豪雨を記録する。


 ──ぽちゃん。


 雨音に混じり広がる波紋。赤茶けた泥にまみれた道に一つの陰が浮かび上がった。

 右へ、左へ。それが揺れる度、泥水を弾く微かな音が雨音に飲まれて消えていく。

「………………………………」

 黒髪の少年だ。

 年齢は十代半ばほどか。あどけなさの残る柔らかな容貌で、線の細い印象の身体にはローブのような旅装束を纏う。ただ、腰に吊られた長剣だけが静かに揺れていた。

 少年の顔に生気はない。

 雨よけの類の一つもなく、降り注ぐ雨に濡れ細った髪からは水が滴り落ち、半ば伏せられた瞼の下には光のない双眸が沈む。

 一歩、また一歩と少年は足を踏み出す。まるで何かに取りつかれたかのように足取りは不確かで不安定。辛うじて泥土を掴むも、水溜りを弾き、より一層ブーツの重みは増していく。


 少年は、ただ一つの場所を目指していた。

 少年の日常を詰め込んだ、当たり前を過ごしてきた場所。ただそこに、あのときに戻りたいという思いだけが、足を踏み出させる唯一の理由。


 徐々に重くなる足を、僅かに上げることですら身体に激痛が走る。

 だが、もう少し、先に行ければ──朧気な意識の中で直感した矢先、少年の身体が大きく前のめりに倒れてしまう。

 拳大ほどの石を踏みつけていた。盛大に泥水を跳ね上げる。ローブに赤茶けた染みが広がり、纏わり付いて身体から熱を奪っていく。

「………………………………っ」

 少年の口から微かな吐息が漏れる。

 それは躓いた痛みによるものか、全身を苛む寒さによるものか。

 薄れゆく意識のまま這い進もうと腕を伸ばすも、膂力はすでになく。

 凍てついた雨に身を打たれたまま、少年の動きは止まり──


「手を貸そうか?」


 雨に紛れて、小さな声。

 ちゃぷ、と水の弾ける音が少年の耳に届く。辛うじて顔を上げる。

 青白く輝く、不思議な何かが少年の視界の橋に揺れた。

「必要なら、手を取れ」

 少年の眼前に差し出された小さな手。

 その腕を辿るようにして見えたのは少女の姿だ。小柄な身体に鋭利な鎧を纏い、放射状に広がるロングスカートはまるで極光のように七色に輝く。腰まで届く束ねられた長髪を揺らし、橙褐色の双眸が少年の顔を覗き込み、夕闇に開いた黒の瞳孔が細く長くすぼめられていた。

「…………………………ぁ……っ……」

 声にならない、掠れた息だけを少年は漏らす。

 寒さに震えた唇は言葉を紡ぐことができず、差し出された手だけでも取ろうと眼の前にいる誰かに手を伸ばそうとして。

 しかし、重くなった右腕は僅かに動くだけで持ち上がるには至らない。

 腕が地面を押す感覚すらなくなりかけていた。身体に触れる泥の感触、全身に纏わりついた凍てついた雨水。今まさに自分の命が尽きかけているという実感も、どこか他事のように感じている。

 誰とも分からない手を取ることが出来なければ、ここで無残にも天命が尽きるのか。それでは自分が生き残った意味は——と、力の入らない拳にありったけの力を込めて拳を握るが。

 まったく身体の持ち上がる様子はなく、砂の欠片ほど灯った強い意志を貫徹する力が少年には残っていなかった。

「我が知りたいのはただ一つ」

 そんな少年の様子にはめもくれず。

「終焉の理から還った紅蓮の魂よ。世界の深奥とも言えるあの場所で何を見た?」

 手を引き、胸に当て、お辞儀をした。

 少女の言葉に、少年は何も言わない。何も言うことができない。

 ただ震える身体を必死に持ち上げ、視線を少女に向けるのがやっと。

「……む、少々無粋だったな」

 少女は咳払いし、スカートの端をつまんで再び礼をする。

「我が名はレオ。そう、レオと呼んでくれればいい。ただまぁ、決して覚える必要はない。次に目を覚ました時、お前はきっと覚えていないだろうから」

 八重歯を覗かせ少女は微笑みを浮かべる。

「ああ、ああ。どうでも良いのだこんなことは。我が聞きたいから聞く。それにお前が答える。拒否権はない。なんとも簡潔だな」

 そう言って、少女はその華奢な腕をもって少年の襟首を掴み上げた。泥水を辺りに散らしながら、どこにそんな力があるのか、少年の身体は一息に持ち上げられた。ねじりあげられた衣服で首が絞まり、朦朧とした意識が更に遠のく。

「なんとも暗い瞳だ。善を以て悪を討ち、光を求めて闇を得た。希望の光は儚く潰え、絶望の闇がお前の心を黒く、黒く塗り潰している。

 ……何も話す気力さえ湧かないか。そうだろうな、"自分が得た全ては誰にも誇れるものではない"と思っているのだろう? 世界にも、国にも、民にも────たった三人の親友にさえ」

 少女は声高らかに言った。少年の身の上を、まるで知っているかのように。

「……——っさい」

「うん? 何か言ったか?」

 少年は震える唇を動かして、少女に何か伝えようとした。腹に力を込め、動け動けと叱咤する。

「……お前にっ…………何っ……が!」

 月明りに照らされ、少年と少女の間に一筋の銀閃が走る。

「はははっ、ようやく目の色が変わったな」

 ——シュィンッ————

 剣を引き抜く音すら置き去って、少女の喉から真っ赤な雫が滴り落ちる。

「ああ……痛い痛い。薄皮一枚切るところを、バッサリと切ってしまったようだな? 人の域を外れた技巧も、剣も身体もこうなってしまっては意味がない」

 少女の首を振り抜いた剣は損傷が激しく、目に見える箇所だけでも十数か所も刃こぼれしている。刀身には幾筋もひびが入り、今も形を保っているのが不思議なくらい。

 それは少年の身体も同様であった。ローブに刻まれた無数の裂傷の隙間から下着や肌を晒し、その周りは赤黒く変色しているのが伺える。

 ──それでもなお剣を振るった少年は、何を支えにしたのだろうか。

 振り抜かれた剣は少女の空いた手で受け止められていた。その手のひらからも血が滴り、泥水に赤く溶けていく。

 少女は声高らかに、言葉を紡ぐ。

「世界を蝕む黒龍を墜とした、人類史上、天上級の快挙を成し遂げた紅の英雄。

 遺骸や遺物までもが神聖視され、幾世の世代へと継がれる伝説に名を刻むことになるだろう────この場所で、果てなければ!」

 少女は刀身を握る手に力を込める。

 ひどく刃こぼれ、ひび割れが入ってなお折れない剣が、少女の手の中であっけなく砕け散った。

「これが、お前の心に闇を射止める黒鋼の楔だ」

 少年は目を見開いた。砕けた幾つもの破片が波紋を生み、折れた刀身は泥土に受け止められ、重みのなくなった柄が少年の手からすり抜ける。

「思い出の剣だったろうが壊れるべくして壊れたのだから仕方なかろう。剣が砕けたのは、お前が幻日を捨て現実へと戻ってきた証拠だ。

 さぁ、楔は抜き取られた。お前の現在と過去を繋いだ縁は断ち切られた。ここから、お前の心は何色になる——っと」

 少女の口上の途中、少年は糸が切れたように膝を折った。

 前のめりに倒れる少年の身体を華奢な腕で受け止めると、片膝をついて左腕で支えるようにし、少年を静かに横たわらせる。

 ゆっくりと寝息を立てる少年の顔に凍てつく雨が降り注ぐ。少女が陰になって遮って覗くと、その表情は依然として厳しくはあったがどこかやわらげで。

「世界から除け者扱いにされていた人間。それが突然に期待を背負った時の重圧はいったいどれほどのものなのだろうな」

 ぽつりと少女は呟く。

「全く、想像がつきやしないな」

 降り注ぐ凍てついた雨。

 心をも凍らせる黒雲の下で。

「今は、ゆっくりと休むと良い……」

 少女は優しく微笑んだ。」

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