10 前夜

 もちろん、その後も彼女の姿の確認をぼくはし続ける。ぼくが居ようが居まいが彼女は確固としてこの世界に存在し続けるのだが、ぼくはそれを一々確認しないわけにはいかないのだ。

 いた! 見つけた!

 彼女だ、彼女だ、彼女だ!

 いつもの時間帯にぼくは彼女を確認する。

 いた! 見つけた!

 彼女だ、彼女だ、彼女だ!

 いつもの曜日にぼくは彼女を確認する。

 いた! 見つけた!

 彼女だ、彼女だ、彼女だ!

 いつもの時間帯のいつもの曜日にぼくは彼女を確認する。彼女のことを確認する。

 その後、彼女はボクシングジムに通うようになる。その後、彼女は空手道場に通うようになる。その後、彼女は合気道教室に通うようになる。その後、彼女は少林寺拳法道場に通うようになる。その後、彼女は骨法道場に通うようになる。その後、彼女はその他の種々の格闘技道場に通うようになる。その後、彼女は、柔道、カポエイラ、カラリパヤット、クラッシュ、クラヴ・マガ、サンボ、テコンドー、ブラジリアン柔術、ムエタイ、レスリングなどの教室や道場に通うことになる。

 でも、まだ彼女には決心がつかない。だから、まだ彼女の顔には後天性の痣がある。

 ぼくの想像の世界の中で彼女の彼氏が彼女を殴っている。彼女の現実の世界の中で彼女の彼氏が彼女を殴っている。彼女の姿が見えないといっては、彼女の彼氏が彼女を殴っている。日常のほとんどの時間、彼女の彼氏が彼女を殴っている。夢の中でふいに意識を取り戻したとき、彼女の彼氏が彼女を殴っている。涙を流しながら、彼女の彼氏が彼女を殴っている。もう止めてくれと叫びながら、彼女の彼氏が彼女を殴っている。キミが悪いんだ、キミが悪いんだ、キミが悪いんだ、と大声で叫びながら、彼女の彼氏が彼女を殴っている。キミのことを愛しているんだ、と叫びながら、彼女の彼氏が彼女を殴っている。利き腕の右手の拳に計り知れない痛みを感じながら、彼女の彼氏が彼女を殴っている。右手の拳に滲んだ彼女の鮮やかな血の色を眺めながら、彼女の彼氏が彼女を殴っている。右手の拳に滲んだ自分の薄汚れた血の色を眺めながら、彼女の彼氏が彼女を殴っている。いつも、いつも、いつも、彼女の彼氏が彼女を殴っている

 でも、まだ彼女には決心がつかない。だから、まだ彼女の顔には後天性の痣がある。

 彼氏は彼女を殴る、殴る、殴る!

 彼女は殴られたときに悲鳴を上げない。彼女は殴られたときに言葉で言い返さない。彼女は殴られたときにただ黙ってそれに耐える。彼女の殴られる部屋は鉄骨モルタル仕様のアパートの二階にあって、その部屋は角部屋で耳をぴったりとくっつけられる壁はなくて、耳をぴったりとくっつけられるのはその部屋のドアだけで、ぼくはそのドアにひっそりと耳を押し付けて音を聞くのだけれど、ぼくの耳には彼女の泣き言は聞こえず、ぼくの耳には彼女の嘆きの声は聞こえず、ぼくの耳には彼女の言い返す声は聞こえず、ぼくの耳には彼女の彼氏が彼女を殴る音だけが聞こえている。

 でも、まだ彼女には決心がつかない。だから、まだ彼女の顔には後天性の痣がある。

 けれども、やがてそれが変わる日がやって来る。彼女が反撃する日がやってくる。彼女が反撃する日がある日突然にやってくる。そういうものだ。

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