9 それから

 結局、それから彼女はお風呂を沸かして、それが沸く数十分の間、ぼくたちは彼女の部屋にあったDVDをぼんやりと観る。それはブッカー賞を獲った日系英国人作家の小説を映画化したもので、一英国人執事の視点から描かれた善意の戦争犯罪人貴族の生涯のようだ。

「退屈」

 ううん。イギリスのお金持ちは本当にお金持ちだね。

「アンチハリウッドの監督作品だけど、それが良くわかるわよね」

 キミの趣味。それとも彼氏の。

「彼氏は彼氏だけど、ずっと前の彼氏だわ。もう顔さえ忘れた」

 そんなに恋多き女には見えないけどね。

「もちろん、そんなに恋多き女ではないわよ。でも一遍行きずりの人と寝てみたら、そんな行為の仕方もあるのかって気づいたんだよね。もちろん、それができたのは一番最初にそのときの彼と経験できたからなんだけどさ。男も女も、童貞も処女も、年齢が上がるほど、耳年間になるほど、余計な経験が増えるほど、越えるハードルは高くなるんじゃないかな」

 そして何かと理由をつけて上から目線で語りたがる。

「それはわからないけど、わたしの場合は、まあこの顔でしょ。ナンパのプロさんたちだったら、もちろん見た目の良し悪しで女の子を判断しないから気にしないんだけど、そういう人たちではなくて、わたしのことに真剣に興味を持った男の子たちには結構勇気がいるみたいよ」

 たとえば、どんな。

「そうね、これまでのいくつかの経験をまとめると、男の人が声をかけてきて、わたしがOKして、それで数回付き合ってみて、その後で、わたしが、自分が思っていたような女ではないとその男の人にわかったときに、別れ話を切り出し難いみたいね」

 痣のせいで。

「そうはっきり指摘した人はいないけれど、まあ、そうかな。自分がわたしと別れるのは決してわたしの痣のせいではないけれど、でも世間の目から見れば、ああ、やっぱり、と判断されるようで怖いみたいね。バカみたいだけど」

 確かにバカみたいだけどさ。でも、そんなことを言ったら、キミだって取る気になれば取れるその痣を自分の顔に残して免罪符にしてるわけじゃないの、違う。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その辺りの心理って自分でも良くわからないのよ」

 でも、わかりたい。それともそうではない。

「その結論はいまのところ保留ね。ただ今の彼氏がわたしのこれから行おうとしている行動によって、わたしに別れ話を切り出したとしたら、そのときには答えが出せるといいわと思っているわ」

 じゃあ、そのときのために乾杯しようか。

「先にお風呂入ってからね。あなたも入る」

 そんなに広いの。

「まさか」

 正体がバレるといやだから止めとく。

「うふふ。怖いんだ」

 いや、そうじゃないけど。

「まあ、いいわ。でも、寝る前には入ってよ」

 了解です。

 そして彼女はお風呂に入るために脱衣をはじめ、ぼくはそれをじっと見つめる。ぼくの未来であるところの彼女の腹筋はしっかりと割れていて、ぼくは惚れ惚れとそれを見つめる。

「じゃあ、また後で」

 数十分後、彼女はピンク色のバスローブを羽織ってぼくの前に姿を現し、目でぼくに続けて風呂に入れと促している。

「あなたはわたしと背の高さとか大きさが大して違わないから着替えは大丈夫よ」

 そういって髪を梳かしはじめたところで携帯が鳴る。時計を見ると午後十時半をまわっている。彼女が手でさっさと風呂に入れと指図する。それでぼくは彼女のアパートの彼女のお風呂に浸かりに行く。全裸になった自分の身体を見て、ふとまだまだだと思っている。

「ああ、うん。今日は自分のアパートにいるのよ。たまには帰らないと虫が涌いちゃうからね」

 電話の主は彼女の彼氏だ。彼女の旦那ではなく、彼女の事実婚の夫ではなく、彼女の彼氏だ。彼女のDVの彼氏だ。

「えっ、なに。はい、わかりました。もう一泊することになったって。ええ、わたしの方は別に構わないけど。ああ、はいはい。愛しているわよ。バカねえ。何を心配しているのよ。それよりそっちの方こそ、大学病院の看護婦さんとか、病理学教室の若い院生の娘さんに鼻の下を伸ばしてるんじゃないでしょうね」

 彼女のボディーソープをたっぷり使って、彼女と同じ匂いになって風呂から上がると、彼女はまだ彼氏と携帯電話で話している。気配を感じて、ぼくの方を振り返ると口調を変える。

「ああ、じゃあ、そろそろ切るから。お風呂を出てすぐに電話がかかってきて、それからずっと話してたから、少し寒くなってきたのよ。はいはい、わかりました。愛しているわよ。じゃあね、さよなら」

 彼女が無言で携帯を近くにあった机の上に置く。

「ふう」

 溜息を吐く。

 彼氏のことを愛しているんだね。

「さあ、それはどうかな」

 でも、少なくとも大切には思っている。

「肉体的にはイエスかな。彼とは相性がいいのよ。それにきっと上手いと思う。舌だけでいかされたこともあるもの」

 ふうん。

「だから、それはそれで惜しいんだけれど、でも付き合い続けるには骨が折れるわ」

 確かにいずれDVがエスカレートすればね。

「うふふ。でも、確かに冗談じゃないわよね。彼が体育会系の人だったらと思うと気が遠くなるわ」

 でも彼氏は自分で気づいてはいないんでしょう。自分の行為の源流を。

「さあ、それはどうかな」

 自傷傾向はあるの。

「わたし――つまり自分以外の誰か――に暴力を振るうようになってから、確かに自傷癖は収まったのかもしれないわね。最初は何故かって思ったんだけど、付き合いはじめは手首を何故だか隠していて、はじめてリストカットの跡を見たのは、最初に彼に殴られた夜のことだったわ」

 色々面倒なんだね。

「それは、人間だから仕方がないんじゃないの」

 でも好き好んで面倒を背負うことはないよ。

「そういえば大学の頃、好き好んで面倒を背負おうとする人がいたわね。いまで言うところの非モテの男の子で、それまでの彼の人生の狭い経験で培われた執着に徹底的に拘ろうとしていたわ」

 ふうん。

「でも、はたら見たら、可哀想だけれども、執着している女の子が自分のことを友だち以上に思わないことが耐えられなかっただけにしか見えなかったわ。だから自分自身でわかっているのにそれを認めることができなくて、その状況はそれでいいのだって、ありとあらゆる詭弁で自分や状況を正当化して自分を慰めていただけとしか」

 哀れだね。

「でも直接その状況に関係がないわたしが彼を哀れんだら、彼には逃げ道がなくなってしまう。だから、あのときは調子を合わせて、周りの人たちみんなと彼を弄んでいたんだけど。今でも彼はたぶん変わってないと思うわね。この先、幸せな人生を送ることを願うばかりよ」

 でもそれは彼の人生であってキミの人生じゃない。

「まあ、それはそうなんだけどね。人生色々ってわけよ」

 それから彼女とぼくは彼女のベッドの彼女の布団に包まれて互いに背中を合わせて眠りにつく。彼女はぼくの性愛対象ではない。ぼくは彼女の性愛対象ではない。彼女は彼女の性愛対象ではない。ぼくはぼくの性愛対象ではない。そういうことだ。けれども彼女はぼくの/ぼくは彼女のライナスの毛布ではあるらしく、彼女は過去と、ぼくは未来と背反に向かい合って安堵する。その先の未来のことなどクソ喰らえだ。

 やがて翌日となって、ぼくはいつのまにか彼女と別れて自分の部屋の中にいる自分に気づかされる。でもそのときのその覚醒はぼくの見た夢であって、もう一回気がつくとぼくは彼女のベッドの中にいる。そのとき、ぼくの背中は彼女の背中とくっついてはいなくて、ぼくの両手は形の良い彼女の胸の二つの塊を軽く覆って安堵する。ぼくは彼女のやや骨ばった艶やかな背中に頬を擦りつけて安堵する。ぼくは彼女の心臓のトクトクと鳴る鼓動に自分の心臓の鼓動を合わせて安堵する。そしてそのとき、ぼくは決めている。来るべきときに彼女がもしも最初の一歩を踏み出せなかったら、そのときはぼくがそれを手助けしようと。来るべきときに彼女がちゃんと最初の一歩を踏み出せたとしたら、そのときはぼくが必ずその証人になろうと。あらゆる行為に対して、それら行為の証人は必ずしも必要ではないかもしれないが、しかしあらゆる行為に対して、それら行為の証人は必ずしも必要ではないかもしれないことはないかもしれないからだ。

 そしてぼくは目覚め、そしてぼくは目覚める。そして彼女は目覚め、そして彼女は目覚める。そして彼女は目覚め、そしてぼくは目覚める。そしてぼくは目覚め、そして彼女は目覚める。

 昨日は金曜日だったから、普通の世の中ならば今日は土曜日だ。

「そういえば、いつだったか世界中から月曜日が消えてしまう話を読んだことがあるわ」

 月曜日が。

「そう。だから日曜日の次の日は月曜日ではなくて火曜日で、一週間は六日になる」

 でも、そんなの意味ないじゃん。ただの呼び換えだよ。

「だけど月曜日って言う概念自体がほとんどの人たちの頭から消えてしまったんで、そう思う人たちはあまりいないのよ」

 ふん。で、さらにいえば、そう思う少数の人たちがまったくいなければ、そのお話自体が成立しない。

「結局はそういうこと。旧い喩えだけど、山の中で木が倒れても誰もその音を聞く人がいなかったら音はしたのか、って」

 音はしただろうね。常識的に考えれば。問題なのは音の有無ではなくて行為の種類による観察者の有無だと思うよ。森の中で木が倒れようが倒れまいがほとんどの生物や人間には関係ない。木に意識があれば、倒れたその木自身には倒れたことは関係あるし、またその木に寄生または共生している生物たちにも倒れたことは関係するけど、せいぜいその程度の関係性でしょ。でも秋葉原の歩行者天国に車で突っ込んだ犯人は、誰も見ていない山の中で人を刺し殺した殺人犯とは違って、その行為を大勢の人たちに見てもらいたかったんだと思うよ。

「わたしの彼もわたしを殴るっていう自分の行為を不特定多数の人たちに見て貰いたいのかしらね」

 だって、それがキミじゃない? その行為の象徴がまさにキミ。

「ああ。でも、わたし……っていうより、わたしの顔ね。わたしの顔の痣。それが彼の存在証明。そんな精神性はわたしには複雑過ぎるわ」

 例えばリストカットする人たちは、クスリや深酒でもしなければ普通は自殺しないよ。そんなことをしたらリストカットする理由がなくなってしまうからね。まあ、人には存在する人の数だけそれぞれ違った事情があるから、キミの彼氏の場合にそれが成立するとはいえないかもしれないけどね。

「ねえ、外を散歩しない。快晴みたいだし……」

 いいけど、最後は駅まで行ってぼくは帰るよ。

「ええ、わかったわ」

 そう言って彼女は着替えをはじめる。ぼくはぼくで自分の着替えをはじめる。数分後にその両方が終わって、彼女とぼくは連れ立って彼女のアパートの玄関を出て、エレベーターを待って、エレベーターに乗って、エレベーターで降りて、エレベーターから出て、彼女の旧いマンション風アパートのエントランスに到達する。彼女とぼくは手を繋いでエントランスを抜けて目の前の児童公園に目を向けると、ひとりの老人が年季の入った自転車の荷台に載せたビニール袋にせっせと潰したアルミ缶を詰め込んでいる。その横を擦り抜けてブランコのところまで歩いて行くとそれに乗る。足で勢いをつけて子供のように漕いでみる。

「ねえ、自分に自信が持てないのは自分のせい」

 普通はそうだと思うよ。直接自分が知ってる他人のせいや、関係性は不明だけど世間一般のせいだというふうに思い込むことは可能だろうけど、でも自分の心の支配者は結局自分でしかないわけだから、最終的に自分に関するすべての責任は自分で引き受けるしかないんだよ。

「あるいは死んでしまうとか」

 あるいは何処までも人のせいにするとか

「あるいは無視するとか」

 あるいは狂ってしまうとか

「あるいは殴られ続けるとか」

 あるいはついに彼に逆襲するとかね。

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