8 アパート
約一時間半前に降車したO線のK駅から各駅停車に乗って同じO線のS駅まで行くと電車を急行に乗り換え、終点のJ駅まで行って電車を降りる。通勤ラッシュから程好くずれているので思ったよりも閑散としているホームを抜けて改札を通ってJR線に乗り換えてエスカレーターに移動してホームに昇る。こちらの方は結構混雑している。すると程なく電車が到着してドアが開いて降客が降りて他の乗客と一緒に彼女とぼくが外回り電車に乗る。
この道順って、キミの彼氏の家と同じじゃないの。
「うん。降りるの同じ駅だもの」
ああ、そうなんだ。で、今日彼氏は。
「出張よ。浜松の医大に出向いているわ。あの人、会社では結構有能みたいらしいのよね。ちょっと変わり者だとは思われているようだけど」
ふうん。
二駅電車に揺られてT駅で降りる。大勢の降客たちと一緒に彼女とぼくが電車を降りる。ホームを歩いて階段を昇って改札を抜けて駅構外に出ると、駅前のバスターミナルを横切って彼女がその先の雑居ビルに向かう。
「もちろんここにアパートがあるわけじゃないわ。食事をするのよ」
大勢の学生で溢れかえったエレベーターに乗って彼女とぼくは雑居ビルの上階に昇る。昇ってエレベーターのドアが開いてぼくたち全員がエレベーターから吐き出されて、それから居酒屋に入ってアルバイトの店員に案内されて席につく。空いていたのでカウンター席にしてもらう。
キミの手料理が食べたかったな。
「わたしひとりだったら、そうしてチャチャッと済ませたと思うけんだけどね」
ひとりじゃないから。
「さあ、それはどうかな」
彼女がぼくを見つめて、それから店員に料理を注文する。
「運動して、汗かいて、その後に、ご飯を食べて、お酒を飲んで、せっせと運動した分を元に戻して、なんかバカみたいね」
でも彼女の筋肉は確実に彼女の身体の中で割合を増していて、彼女の大願成就の日を心待ちにしている。
「でも、わたしにそれができるかな、とも思うんだ」
でもやらないと、結局キミは良くて今のままか、悪ければ昔に戻るよ。
「うーん。それはわかってはいるのよね。少なくとも頭では。でも」
そういうことなら身近からはじめてみたら。彼氏の他に憎い人はいないの。
「全生涯でだったら何人もいるけど、だいたい今どこに住んでいるかわからないわよ」
ということは、友だちではないんだ。
「本当の意味で、わたしには友だちなんていなかったような気がするわね。知り合いは大勢いたけれど。子供の頃にわたしを苛めた何人かのはっきりと顔を憶えている人たちに対する恨みの気持ちは十数年経った今でも、わたしの中でまだ消えていないけれど、今さらそれを持ち出すのもなんだかなぁって気がしないわけでもないし。それにどういったらいいのかなぁ、あまりその過去のことを持ち出すと、今では乗り越えたはずの当時の心境に自分がまた戻っていってしまうようで怖いのよ。それが正直な気持ち」
それなら無関係な人を襲えばいいよ。キミに何の関係もない、けれども過去にキミみたいな誰かを苛めた経験を持つ卑劣な輩を襲うんだ。
「止めてよ。それじゃ、わたしがその人たちの仲間になっちゃうわ」
違うって、それは制裁なんだ。正しいテロルなんだ。たまたま大事には至らなかったから警察や裁判所のお世話にならなかっただけで、奴らの罪が消えたわけじゃない。心にトラウマを埋め込まれた子供たちはいまでも生産され続けている。その潮流を絶つことは実際には不可能かもしれないけど、でも奴らが行った非道を奴らには思いもよらない方法で返してやることは可能なんだ。
「あなた、それ、本気でいってるの」
まあ、ぼくはキミにそれをやれと薦めはしないけどね。でも自分に関することなら、キミにはそれを行う権利があると思うよ。
「法律上ではないにしても、それより上位の法としてね。で、あなたはわたしにそれを望むの」
ううん。ぼくは誰にも何も望まない。ぼくはただ考え方を示すだけさ。それが不快な人はその考えを無視すればいい。ただ、それだけのことさ。
「わたしにはまだどちらが良いのかわからないわ」
食事が終わると彼女とぼくは雑居ビルを出て、T駅前の幹線道路を最初は彼女の彼氏のアパートの方向に向かって歩き、途中で方向転換してパチンコ雑誌なんかを出版している出版社の前の坂を上がって狭くはない児童公園を眺めながら先に進む。約十分後に着いた彼女のアパートはいわゆる昔のマンション風の集合住宅で、T駅とJR線の別の路線のO駅とのほぼ中間点にあることがわかる。エレベーターで七階に昇ってそこで降りて七階の通路を奥に進んで彼女が鍵を開けて自室の玄関を開けて照明を点けて彼女が先に部屋に入る。すぐに部屋の奥の窓を開け放って彼女は空気を入れ換えたが、長らく人が住んでいないことを感じさせる黴臭い臭いはすぐには払拭されない。
「ま、どうぞ、おあがりになって」
彼女に薦められて、彼女に差し出された丸パイプ椅子にぼくが腰をかける。彼女が窓ガラスを閉めてからガスヒーターのスイッチを入れる。
「お茶でも飲む?」
いいえお構いなく。
ぼくはそう応えたが、彼女はキッチンのガスコンロでお湯を沸かしはじめる。やがて古風な薬缶から立ち昇った蒸気が狭い室内を満たしてゆく。居心地は悪くなかったけれど、その雰囲気はまるでぼくが暮らす部屋のコピーのようだ。劣化した、いや違うか、進化したぼくの部屋のコピーだ。
「まあどうぞ」
ありがとう。
彼女が煎れてくれた煎茶をぼくは受け取り、啜る。
あの、熱いんだけど、布巾か何か、ないかな。
一旦茶碗を部屋の床に置いてぼくが言う。
「え~っ、布巾ねぇ」
ぼくは彼女の部屋に上がってもまだ脱いでいなかったモッズコートのポケットから手袋を取り出して、それを履いて、今さっき床に置いた茶碗を再度持つ。
「はい、これ」
そういって彼女がぼくに布巾を差し出したときには当面の問題はすでに解決されている。
ありがとう。
「疲れたわね」
そうだね。
「なんだか、ぐったり」
そういいながら彼女がお茶を啜る。ぼくもお茶を啜る。彼女とぼくがお茶を啜る。まるでそれ以外に何かをすると自分たちの暮らすこの世界のバランスが狂ってしまうとでもいうように、律儀に彼女とぼくは交代にお茶を啜る。煎茶を啜る。
「テレビでも見る。それとも映画」
それはキミが決めることだよ。キミがぼくを招いたんだから。キミが招待者なんだから。
「じゃ、寝よっか。二人で」
えーっ、でもぼく経験ないし。
「ばかねぇ、誰がやらせるっていったのよ」
そういって彼女が歯を見せて笑う。ぼくの心の中に愉快な感情が湧き上がる。
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