7 スポーツジム

 O線をK駅で降りて彼女とぼくは群集というほど多くはないが、その時間帯の適度な混雑の中に紛れ込んで、不思議な安堵感と違和感をお互いに味わいつつ、連れ立って歩く。ぼくは目的地を知らないが、彼女は目的地を知っている。だからぐいぐいと、いつの間にか繋いでいるぼくの左手を強く引っ張って彼女は進む。寒い冬の中を進む。頬を紅く染め上げながら進む。先天性の痣をその紅の中に隠しながら進む。やがてフィットネスクラブに到着する。

 彼女は受付を済ませている。ぼくはじっと待っている。ぼくは事務員に何かを言われるのではないかと気が気ではない。だけどぼくがフィットネスクラブの事務員に何かを言われることはない。ぼくは事務員に出て行けとやんわりと指示されることはない。このフィットネスクラブは見学自由なのだろうか。それとも彼女が受付に、自分の連れに行動の自由を与えるように話をつけたのだろうか。

 更衣室でトレーナーに着替えて彼女が出てくる。最初は有酸素運動マシンがずらりと並んだ一郭に向かう。

 ステップマシンで架空の階段を昇りまた降りながら彼女は言う。

「最初はね、格闘技も考えたんだけど、でもその前に体力作りが必要だと思ったのよ」

 なるほど。

 クロストレーナーマシンで架空の空中を散歩しながら彼女は言う。

「いまにはじまったことじゃないんだけどさ、わたしって昔から体力がないんだ」

 うん、そう見えるね。

 エアロバイクマシンで架空の自転車を漕ぎながら彼女は言う。

「だから、はじめた頃はもう大変。たったの三分間が地獄のような苦しさだったわ」

 ああ、わかるよ。なんでも最初は大変なんだ。

 ウォーキングマシンで架空の森林地帯をウォーキングしながら彼女は言う。

「それでね、その苦しさは二週間も続いたのよ」

 うん。その辺りが最初の継続の壁だよね。何につけても。汗を拭いてあげようか。

「ありがとう。お願い」

 それからレジスタンスマシンに切り替えて、アダクションマシンで細い太股の内側を引き締めながら彼女は言う。

「でも今では大分平気になってきたわ」

 ああ、そうみたいだね。自信たっぷりに見えるよ。

 レッグプレスマシンで身体を傾けて坐りつつ踵を張って下半身全般の筋肉を動かしながら彼女は言う。

「このマシンでは、普段の生活では使うことのない筋肉が鍛えられるそうよ」

 まあ、確かにそんなふうに背中を斜めに壁に押し付けた格好で生活している人はまずいないからね。

 アブドミナルマシンで腹筋を鍛えながら彼女は言う。

「腹筋が締まってくると、いわゆるぷっくりお腹が解消されて、それにわたしの場合は内臓脂肪にも利いたみたいで、自分で見ても結構ステキなウエストを手に入れつつあるわ」

 腹筋については、ぼくがキミを見た最初から感じてたよ。あっ、絶対に割れてるって。

「うふふ」

 ラットプルダウンマシンで背筋を鍛えながら彼女は言う。

「これって、肩凝りの解消にもなるのよね。それと猫背矯正にも。仕事柄、わたしって結構肩が凝るんだ」

 うん。肩こりは辛いよね。あと、枕の形が頭の形に合わないと肩凝りが取れないっていうよね。

「そう。でも、わたしの枕って彼の肩だからなぁ。それで凝ったって感覚はないけど」

 ごちそうさま。

 チェストプレスマシンで胸の筋肉を動かしながら彼女は言う。

「はあ、きついわ。さすがに辛くなってきたわね」

 キミって、どちらかというと貧乳だよね。

「煩いわね」

 ディッピングマシンで腕の裏側を動かしながら彼女は言う。

「でも顔は鍛えられないのよね。残念ながら。まあ、実は身体の他の部分は最近殴られてもあんまり痛さを感じなくなってきたんだけどさ」

 キミって、ちょっとおかしくない。

「そうかしら。まあ、そういわれたことは、はじめてじゃないけど」

 やっぱり。

 ヒップエクステンションマシンでヒップアップをしながら彼女は言う。

「どう、ダンサーみたいに魅力的に見える」

 それをいうんなら、顔の引き締めの方が先だと思うよ。好みはあるけど、ちょっとふっくらし過ぎているから。

「煩いわね」

 プッシュダウンマシンで腕の裏側を動かしながら彼女は言う。

「飲み会なんかで中年のおじさんと話しているとさ。その二の腕のプルプルがいいんだよね、って指摘する人もいるわよ」

 じゃあ、キミはもうその範囲外に出たようだね。でもさ、キミって、体力作りして性格変わってない。

「さあ、それはどうかな」

 レジスタンスマシン最後のベンチプレスマシンで上半身全般を鍛えながら彼女は言う。

「でも、あなたは過去のわたしのような気はするわね。何処にも行けずに閉塞していた」

 ということは、キミは未来のぼくなんだね。

「さあ、それはどうかな」

 それから彼女は場所を屋上に移動して、更衣室に入って水着に着替えると、プールの一番左側のレーンに飛び込んで泳ぎはじめる。最初は普通のクロールだったが、そのうちに平泳ぎに代わり、背泳ぎに代わり、それからほとんど水の中に沈んでしまいそうなバタフライに代わって、再度クロールに戻る。面白いことに彼女がバタフライにチャレンジしたときにはプールサイドから疎らな拍手が巻き起こる。

「あーっ、くたびれた」

 最後にシャワーを浴びて着換えて戻ってくると彼女は言う。

 まあ、一時間半でそれだけ動けば疲れると思うよ。

「久しぶりに自分のアパートに戻るけど、来る」

 いやだっていっても連れて行くんでしょ。

「わたしはそんな強引じゃないわ」

 じゃあ、ぼくはもう家に帰らなくちゃ。

「あら、気弱ね」

 そうだよ。ぼくは昔のキミなんだろ。でもいいや、付いて行くよ。彼氏に殴られないキミにも興味があるから。

「あらあら、言い訳がお上手になったこと」


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