6 共犯者

「さあ、出て来なさいな。そこに隠れているのはわかっているのよ」

 そういっている彼女の声が聞こえる。明らかに彼女の声が聞こえる。困ったことに彼女の声が聞こえる。困ったことに彼女は明らかにぼくに向かって話しかけている。ぼくに向かって話しかけている彼女の声が聞こえている。

「さあ、隠れていないで、出て来なさいな。コソコソしないで。もう三月になるんですもの、いい加減、うんざりだわ。ホラッ、怒らないから出てらっしゃい」

 彼女が声をかけたのは、会社からの帰宅途中、最寄駅に向かう道の途中でのことだ。彼女が声をかけたのは、通常の速さで歩くと約十五分かかる、その十分目くらいの道の位置でのことだ。彼女が声をかけたのは、困ったことに、やはりぼくに向かってのことらしい。そのほんのわずか前、彼女は首を軽く後ろにまわしてぼくを探し、その瞬間ちょうど自分の真横にあった電柱の影に隠れたぼくに向かって彼女が言葉をかける。

「ホラッ、かくれんぼはもう終わりよ!」

 あの、それって。

「何か反論したいの。それに、あなた以外に誰がいる」

 だって。

 確かに今この瞬間、半径十メートル圏内に人影はない。

「もう、しょうがないわね。ホラッ」

 彼女がぼくの腕を掴んで、ぼくを電柱の後ろから引っ張り出す。だから、ぼくは頬をだらしなく歪めて微笑むしかない。

「いいから、いいから、さあ歩いて」

 彼女がぼくの背中を押して、ぼくを促して、ぼくは彼女と肩を並べて歩きはじめる。でも、まだ口は利けない。彼女もしばらく無言で歩く。でも、それも長く続かない。

「なんか言ったら」

 彼女がぼくの顔を覗き込む。彼女の先天的な痣がぼくの目の前で存在感を増す。後天的な痣の方はほとんど見えなくなっている。そしてぼくには彼女に話かける言葉の持ち合わせがいない。でも。

 あの、いつから気がついて。 

「あーっ、やっと喋ってくれたわ。わたし、もしかしたら、あなたが唖じゃないかって、もう少しで信じるところだったのよ」

 ああ、それはぼくも考えたよ。

「何それ。それって、わたしが唖だってこと」

 うん。だってさ、通勤途中にぼくがキミの声を聞いたのは、つい先日のことだから。 ええと、ひと目で意地が悪そうだとわかる、キミの前を歩いていたあのデブの爺さんにぶつかって。

「ふふふ。まあ、爺さんって歳ではなかったけれど、ひと目で意地が悪そうだっていうのには同意するわ。それにあなたが気づいていたかどうかわからないけど、あのおじさんの定期は昔のペラペラなタイプの磁気カードなのよ。それがまた迷惑で」

 何故。

「あのタイプの磁気カードってPASMOやSUICAみたいなICカードと相性が悪くてさぁ、磁気カードが改札機の向こう側に完全に抜ける前にICカードを認識させると、かなりの確率で改札機が鳴り出すのよね。タッチ面を真っ赤にして」

 ふうん。それは知らなかったな。

「それで、その後係員のところにいってカード履歴を確認してもらうと改札はちゃんと通過しているのよ。まったく、えらい迷惑だわ」

 そうこうするうちに、ぼくと彼女は彼女の会社の最寄駅に着いてしまう。彼女が先に、ぼくが続いて改札を抜ける。

「ところで定期を定期としてしか使わないんだったら関係ないけれど」

 JR・N線の階段を越えた先にある上りのホームで電車を待ちながら彼女が言う。

「誰か知らない人とはじめて連れ立って一緒に帰るとき、どこそこの駅までの切符を買ってくださいっていわなくていいから楽よね」

 それって、ぼくの。

「まあまあいいから、付き合いなさい。彼のアパートは知ってるんでしょうけど、今日はあそこには寄らないから」

 ああ、やっぱり彼氏なんだ。

「がっかりした。でも、あなたが望んでもわたしは彼とは別れないわよ」

 どうして。いつも、あんなことされているのに。

 電車が来たので、ぼくのその質問に対する彼女の答えが返ってくるのがはしばらく先の話になる。しばらくの間お預けになる。電車の中で話す話題でもないからか。

「そんなことはないけど、でも今わたしが彼と別れたら、彼はきっと死んじゃうかもしれないからよ」

 うーん。それは、もしかしたらキミのいう通りなのかもしれないけど、でもそれだったら何故。痛くないの。

「そりゃ痛いわよ。でも、彼にはそれ以外の愛情表現ができないみたい」

 付き合って長いの。

「長いっていうか、短いっていうか。いわゆるそういう関係になってからは、まだ半年くらいかな」

 いったい何時から、その、痛い行為が。

「そういう関係になってからは、わりとすぐによ。彼と外を歩いているとき、たまたま彼の知らない昔の知り合い――括弧、男――に気がついてしばらくその人と昔話をしていたら、その日の夜に壊れたわ」

 えーっ、でも、吃驚しなかったの。

「そりゃあ、したわよ。最初は驚いて何が起こっているのかわからなくて、それから怖くなって、それから彼のことを殺してやりたいほど恨んだわ」

 でも、いまは赦したんだね。

「ううん。赦してはいないわよ。でも、まだその時期じゃないから」

 その時期って。

「聞いたらあなたも共犯よ」

 すると電車がN駅について、彼女とぼくは電車を降りて階段を昇る。改札を抜ける。階段を降りる。別の路線の改札を抜ける。ついでエスカレーターに乗って上に昇る。やがて電車が来て、彼女とぼくは各駅停車に乗って、電車に揺られて、お互いに妙な空気感を感じながら会話する。

「どうするの。聞くの、それとも聞かないの」

 やっぱり怖いから聞かないけど、その代わりに当てるよ。それでいい。

「わたしは構わないけど、当たるのかなぁ」

 キミは心が優しいから自分からは彼に別れてくれとはいえなくて困っている。

「それで」

 だからキミは彼の方から自分と別れてくれと言えるような状況を作り出そうと画策している。

「ふんふん、それで」

 だから今、キミは身体を鍛えている最中だ。でもキミはまだそれが十分ではないと思っている。少なくとも、まだ数ヶ月は先のことだとね。

「へぇー、すごいわね、当ったわ」

 そして彼女は秘密を打ち明けるときに特徴的な妙に親密な表情でぼくに自分の顔をものすごく近づけて、こんなふうに言う。

「でも、あなたが共犯者だって事実には変わりないからね」

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