5 自分

 彼女が子供の頃幸せだったのか、それとも不幸せだったのかは、ぼくにはわからない。ぼくにわかるのは現在の彼女が世間の一般的な視座に立てば不幸に見えるということだけだ。けれども実際に彼女が不幸なのかどうかは、ぼくにはわからない。ぼくにわかるのは、それは彼女にしかわからないだろうということだけだ。ぼくにわかるのは、それはそれを感じているはずの本人にしかわからないだろうということだけだ。ぼくにわかるのは、それはそれを感じていないはずの他人にはわからないだろうということだけだ。それとも、それは違うのだろうか。

 人間の感情は飼い慣らすことができる。不運を幸運に感じることができる。ムチをアメに感じることができる。偶然の事故を必然の試練と感じることができる。癌の告知を人生の再発見と感じることができる。たとえばの話だが。

 それよりももっとずっと簡単に種々湧き上がる感情にひとつ一つ名前を付けてキャラクター化すれば感情を操ることが容易になる。何かの対人関係で、ある厭な――あるいは心地良い――感情が生じたとき、それがキャラクター化されていれば客観視できるということだ。そして一度客観視できてしまえば、それに振りまわされることが少なくなるということだ。さらにそれらキャラクターを動物で設定したとすれば文字通り感情を飼い慣らすことができるということだ。たとえばの話だが。

 もちろんそれができない人たちもいる。この世の中に少しでも首を突っ込んで中を覗けば、それができない人たちの方が多いことに気づかされる。この世は大学出の人たちばかりから成り立っているわけではない。この世は大学院出の人たちばかりから成り立っているわけではない。この世は有名大学出の人たちばかりから成り立っているわけではない。この世の大半は大学出の人たちとは何の関係のない要素から成り立っている。この世の大半はわずかでも賢さが感じられる人たちとは縁も因もない人たちの要素から成り立っている。この世の大半はただ生きることに必死になっている人たちから成り立っている。この世の大半は実は端から見ればただ生きることに必死になっているように見えるのにそれに気づいていない人たちの群れから成り立っている。だから、それに気づいた人がある量を越えた社会にはテロが横行する。

 自ら望んで不幸になりたいと思う人は滅多にいない。自ら望んで手足を紐で縛って吊るしてくれと願う人は滅多にいない。自ら望んで非モテになろうと思う人は滅多にいない。自ら望んで滅私奉公をしたいと思う人は滅多にいない。自ら望んで真の殉教者になろうと思う人は滅多にいない。自ら望んで誰かに殴ってくれと願う人は滅多にいない。だがぼくにとって驚きなのは、そういった滅多にいない人たちが数こそ少ないが実際にはいることだ。自ら望んで不幸になりたいと思う人がいることだ。自ら望んで手足を紐で縛って吊るしてくれと願う人がいることだ。自ら望んで非モテになろうと思う人がいることだ。自ら望んで滅私奉公をしたいと思う人がいることだ。自ら望んで真の殉教者になろうと思う人がいることだ。自ら望んで誰かに殴ってくれと願う人がいることだ。

 でもそれならばまだマシだ。まだ感情がコントロールできている。まだ感情がわかっている。まだ感情が感じられる。まだそこには自分がいる。まだそこには自分がいて自分が自分として機能している。まだそこには自分がいて、この世のさまざまなところから発信された固有情報という記号に翻弄されていない。まだそこにはギリギリの部分に自分がいて自分の感情までもが記号化されていない。

 いつからこんな世の中になってしまったのか、ぼくは知らない。ぼくが知っているのは、自分の人生からリタイヤしたら、それが見えてきたということだけだ。いまを生きる人たちはモノを考えない。数限りなく溢れた記号の中からそれを選び取るだけだ。この世の中に数限りないモノが氾濫していることがその原因かもしれない。この世の中に数限りないモノが氾濫していることがその原因ではないかもしれない。この世の中に数限りないモノを氾濫させてしまった前世代の人々の責任なのかもしれない。この世の中に数限りないモノを氾濫させてしまった前世代の人々の責任ではないのかもしれない。けれども選択肢が増えることによって逆説的に、あるいは順接的に自分で何かを作り出せるという選択肢が減ってしまったように見えるところまでは事実のように思える。それとも、そうではないのだろうか。

 彼女と彼女の彼氏は彼女の会社の同僚に誘われた合同コンパで知り合ったのかもしれない。彼女と彼女の旦那は世の中に数多く存在する出会い系のサイトで知り合ったのかもしれない。彼女と彼女の事実婚の夫は驚いたことにこの世にまだ存在する紙媒体の文章系同人誌の会合で知り合ったのかもしれない。彼女と彼女の彼氏は彼女の会社の同僚に誘われた合同コンパで知り合ったのではないかもしれない。彼女と彼女の旦那は世の中に数多く存在する出会い系のサイトで知り合ったのではないかもしれない。彼女と彼女の事実婚の夫は驚いたことにこの世にまだ存在する紙媒体の文章系同人誌の会合で知り合ったのではないかもしれない。そしてぼくが知っているのは、彼女のふっくらとした顔の何処かには必ず後天的な痣があるという事実だけだ。そしてその原因が彼女の彼氏か旦那か事実婚の夫によるものらしいという推測だけだ。

 今のところ彼女は黙って殴られているようだ。今のところ彼女は声を立てずに殴られているようだ。今のところ彼女は彼氏か旦那か事実婚の夫に殴られるままにしているようだ。今のところ、時折声を張り上げるのは彼女の彼氏か旦那か事実婚の夫の方のようだ。今のところ、時折泣きじゃくりながら彼女を殴るのは彼女の彼氏か旦那か事実婚の夫の方のようだ。今のところ、時折思い出したように彼女を殴るのは彼女の彼氏か旦那か事実婚の夫の方のようだ。

 最初にその音を聞いたとき、ぼくはその音だけしか耳にしていない。その次にその音を聞いたとき、ぼくはその音以外の音も耳にしたように感じる。その後何回もその音を聞いたとき、ぼくは時折その音以外の音を耳にするようになる。

 けれども彼女の声は聞こえない。彼女は口が利けないのだろうか。

 だが、その心配は杞憂に終わる。朝の通勤で何に気を取られたのか、彼女が改札口で前の乗降客にぶつかってしまい、「ごめんなさい」と謝る声を聞いたからだ。その声は彼女の声だ。特に綺麗でも穢くもない彼女が発した単なる声だ。ただそれだけのことだ。この世に完璧な天使など存在しない。

 例えばぼくは彼女に彼女の声で、「愛している」といわれたいのだろうか。例えばぼくは彼女に彼女の声で、「あなたが好き!」といわれたいのだろうか。例えばぼくは彼女に彼女の声で、「あなたに会えて良かったわ」といわれたいのだろうか。例えばぼくは彼女に彼女の声で、「救ってくれてありがとう」といわれたいのだろうか。例えばぼくは彼女に彼女の声で、「あっちへ行って」と罵られたいのだろうか。例えばぼくは彼女に彼女の声で、「わたしに近づかないで」と罵られたいのだろうか。例えばぼくは彼女に彼女の声で、「わたしの周囲一キロ圏内に近づかないで」と罵られたいのだろうか。例えばぼくは彼女に彼女の声で、「わたしは今のままで充分幸せなのよ。さっさと何処かに行きなさいよ、クズ!」と罵られたいのだろうか。それとも例えばぼくは彼女に彼女の声で、「あなたのことには気がついていたわ」と確認してもらいたいのだろうか。

 何故、彼女はぼくの中で特別な存在となってしまったのだろうか。何故、ぼくは彼女のことがこんなに気になって仕方がないのだろうか。

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