4 音

 ぼくに無邪気な子供だった時代があったのかどうか定かではないが、やたらと耳を何かにくっつけて音を確認してまわった次期があったことは憶えている。そもそものきっかけは忘れたが、良くある話で巻貝とか長い筒とかに耳を近づけると面白い音が聞こえてくるよ、と学校の先生か親か誰かに言われて試してみたのが最初ではないだろうか。アスファルト製の地面に耳を押し付けたときに聞こえてきたのは、もちろん大地の鼓動なんかではなくて大通りを走る車などの振動音だったが、子供心にそれがわかっても別に失望したりはしない。くぐもって身のまわりの小空間を轟かせながらぼくの現実の耳に届いたその音が、おそらくそれなりの加工音だったからなのかもしれないと今ならば思う。アスファルトに守られた、目の前の現実から一歩引いた音がぼくを安心させたのかもしれない、と。

 まったくの無音なんて存在しない。真夜中で真っ暗でまわりに音源が見当たらないときでも、自分の中に音源がある。心臓は意識しようと意識しまいと何時だってトクトクと鳴っているし、音の聞こえ方は部位によって変わるが、血液の流れる音だって聞けば聞こえる。内臓が鳴る音は、そんなに意識しなくても普通に聞こえるし、その中で数時間前に食べた食物や数十時間前に食べた食物が消化されてゆく音も聞こえる。もっとも他の多くの人たちにそれが聞こえるかどうかわからないので、最後の音はぼくの妄想かもしれない。だから、より正確に表現すれば、聞こえたように感じる、と表現すべきなのかもしれない。

 構造によって、あるいは材質によって、音が違って聞こえるのも、音を聞く行為がぼくを惹きつけた理由かもしれない。いまでは郊外にでも行かないと見受けられないが、木製の電信柱から聞こえる音とコンクリート製の電信柱から聞こえる音はやはり違う。最終的に耳に届くのは変圧器が立てる低周波の、あるいは高周波の唸りなのだろうが、それ以外にも地面や地下や空からの音の寄与があって、それらの最終的な合成音が材質によって異なるのだ。もとより音に優劣など存在しないが、材質の中を移動する音成分の速さが違うせいか、より非現実的に聞こえたコンクリート製の電柱からの音を、ぼくは木製の電柱からのものよりも好んでいたようだ。日によって、あるいは電柱の立地条件によって聞こえる音の優劣はさまざまに変化したが、コンクリート製と木製の電柱の材質による優劣が引っ繰り返ったことは数回しかない。それら引っ繰り返って「優」となった木製の電柱はみな厭な感じに腐っていて、コンクリートが死体である以上に死を死んでいる。そのときのぼくがそんなふうに感じたかどうかはまったく憶えていないけれど、今思い返せばつまりはそういうことなのだろうと思う。当事のぼくは死に憧れていたわけでもないし、また実際に死にたいと思っていたわけでもないはずだが、みんなと同じところにいて自然な自分が感じられなかったのも当事の事実だ。自然な自分というのは伸び伸びとした自分とでも言うか、逆説的に自分が自分を感じていない瞬間における自分と言うか、そんなふうな表現で納得してもらえればありがたい。あるいは学校の同じクラスの誰かの誕生会に呼ばれてプレゼントを渡しておめでとうというのは容易いが、それはぼくの中に潜んだ何者かが言わせているのだという感じをいつも強く感じている、そんなふうに表現した方が納得していただき易いだろうか。どちらにしても、ぼくに言えるのは当事ぼくがそんなふうに感じていたということだ。そんなふうに感じる人間が一般社会や身近な世間に多くいるのか、いないのか、ぼくは知らない。ぼくが知っているのは、そんなふうに感じているぼくがいるということを、ぼくの感じそのままに正しく感じとってしまう他人が必ず何人かはいたということだ。だから、ぼくは小学校の高学年になるにつれて、クラスの誰かの誕生会に招かれる回数が少なくなる。一般に仲良しと呼ばれる閉鎖グループから非仲良しとして認定されることが多くなる。友だちの数が減って、それがそのまま知り合いの数となって増えていくようになる。そんな状況が継続される。

 もっとも誕生会に呼ばれることに、ぼくはある種の苦痛を感じていたから、それはそれでまったく良い出来事だとも言えたのだが、そうはいってもだんだんと集団から離反していく自分が心細くもあって、何かと苛々していた記憶がある。現時点では、まだ他人に迷惑はかけていないのでマイナスの要素はなかったが、この先札を取り違えて、あるいはわざと他人とは異なる札を引いてしまって、将来的にマイナスの要素が増えていったとき、自分はいらない人間になるのだろう、と子供の頃ぼくは漠然と感じていたようだ。それが小学校高学年に上がった頃のぼくの現実だ。ぼくの記憶が何者かによって改竄されていたり、あるいはこのぼく自体が誰かの想像の産物であれば話は別だが、それにしたところで、まったく違った経験というわけでもないだろう。まあ、記憶が捏造されたにしても、そうではないにせよ、それがわかるわけもないのだが。

 子供の頃にぼくが飛び切り相貌が整っているとか、容姿が美しいとか、あるいは単に可愛いらしいとかしていたら、話は少々変わっていたかもしれない。子供の頃にぼくが飛び切り相貌が崩れているとか、容姿が醜いとか、あるいは単に可愛いらしくないとかしていたら、話は少々変わっていたかもしれない。子供の頃にぼくが運動能力に長けていたり、算数や国語の読解力に頭抜けていたり、新しい遊びをいくらでも思いつける才能に恵まれていたりとかしたら、話は少々変わっていたかもしれない。子供の頃にぼくがまったく運動音痴だったり、まったく算数や国語ができなかったり、まったく遊びを思いつく才能に恵まれていなかったりとかしたら、話は少々変わっていたかもしれない。子供にとって相貌や容姿の見劣りがどれだけ差別の対象になるのか、実のところぼくにはよくわからない。ぼくにわかるのは、醜いよりは美しい方がおそらく生き易いだろうという常識的判断だ。子供にとって運動能力や知力の欠如がどれだけ差別の対象になるのか、実のところぼくにはよくわからない。ぼくにわかるのは、走っているときに横から脚を出されて転んでしまって痛がるよりは、出された足をひょいと避けてさっさとその場から立ち去ってしまう方がおそらく生き易いだろうという常識的判断だ。ぼくにわかるのは、混沌とした現実の中で先がまったく見えずに彷徨うよりは、過去や現在の状況や経験からわずかでも未来を予測できた方がおそらく生き易いだろうという常識的判断だ。醜いよりは美しい方が良いに決まっている。鈍足よりは俊足の方が良いに決まっている。馬鹿よりは利口の方が良いに決まっているということだ。でも、それ以上に良いのはその中間点にいることで、そのままそこに埋もれてしまえることだ。そのままそこに埋もれて壁になってしまえば良い。そのままそこに埋もれて影になってしまえば良い。そのままそこに埋もれて見えなくなってしまえば良い。そうすれば誰もあなたのことやあなたの人生のことを気にしないし、あなたの近くにいる同じような影たちと仲間として常識的に対等的に付き合えるようになる。そうすれば、あなたは多くの人々からちやほやされることと引き換えに安定した人生を手に入れることができる。そうすれば、あなたは誰彼なく虐げられることなしに安定した人生を送ることができる。そうすれば、あなたはぼくの持っているような孤独感に苛まれずに安楽な人生を過ごすことができる。そうすれば、あなたはぼくのような引きこもりにならずに済むことができるかもしれない。そうすれば、あなたは自分の部屋のドアに鍵を掛けて早朝や真夜中にそこから抜け出して街や電車のホームを彷徨う人生を送らずに済むことができるかもしれない。でも仮にそうなってしまうと、あなたはそれら安寧と引き換えに彼女を発見することができなくなるかもしれない。

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