3 彼女のこと
彼女の話をしよう。彼女についてぼくが知っていることは多くない。それでもぼくについて彼女が知っている事柄よりはずっと多いだろう。彼女は某会社の事務員らしい。もしかしたら彼女が所属する派遣会社からその会社に派遣されている派遣社員なのかもしれないが、その詳細についてはまだわかっていない。でも派遣会社からというのは間違っていないような気がする。何故なら、そうでなければ一週間のうち、その会社に通うのが三日間だけという理由が説明し難いからだ。もちろんそれは、いまのところぼくが把握している彼女が通う会社についての話だ。他の会社にも彼女が会社勤めをしているのかどうか、ぼくは知らない。一週間の残りの日々を彼女がどんなふうに過ごしているのか、ぼくは知らない。火曜日と木曜日と金曜日以外の曜日に彼女がどんなふうに生活しているのか、ぼくはまだ掴んでいない。でも、それも追々わかってくるだろう。
彼女の話をしよう。彼女が通っている会社は電子機器のメーカーらしい。賃貸オフィスビルの一テナントではなく、独立した社屋を持つその会社の外壁に張られた社名プレートにあったその名称は不幸にしてぼくの知るところではなかったけれど、それはその電子機器メーカーが一般人とはほとんど接点のない分野の製品ばかりを取り扱っているという事実からではなく、ぼくたち庶民が普通に知っている企業名が有名会社名ばかりだからという事実を反映しているだけだろう。東証でも一部上場と二次上場の企業では知名度が大きく異なる。もっとも大手新聞社、大手出版会社、赤字経営の鉄道会社、同族経営世襲継続企業の食品会社や運送会社、一部のグループ会社など種々の理由で上場していない有名企業も数多くある。株の売買を含む金銭スキャンダルの結果、上場廃止となってしまった有名企業も数多くある。だが閑話休題。これは彼女の話ではない。
彼女が勤める会社のホームページを眺めてみると、その会社で扱っている電子機器が水質調査などで使われている各種センサであることがわかる。pH(水素イオン濃度)、ORP(酸化還元電位)、溶存酸素、亜硝酸イオン、硝酸イオン、カルシウムイオン、硝酸イオン、カリウムイオン、フッ化物イオン、二酸化炭素、塩化物イオン、銀イオン、銅イオン、導電率、アンモニアなどなどだ。そして、そういったセンサの中には、例えば料理のときに使う塩分センサ(ナトリウムイオン・センサ)や糖分センサ(グルコース・センサ)やお酢(酢酸)の濃度センサなどもあるらしい。だが、それらも彼女に関する付帯情報であるに過ぎない。だから彼女に関する重要な情報ではまったくない。彼女がそれらを設計したり、あるいは営業で販売したりするのであればその重要度はもっと増すかもしれないが、そんな感じがぼくにはしない。根拠はまったくないが、彼女からはそういった技術系人間の匂いは感じられない。だからそういった情報はやはり彼女が勤める会社に関する情報であって、彼女に関する重要な情報ではありえない。例えば彼女が殺されてその名前が新聞に載ったとしても、技術系メーカー勤務の○○さんとは書かれずに、例えば派遣社員の○○さんと記載されて終わりだろうということだ。
彼女の話をしよう。その会社には彼女は経理の助っ人として雇われているようだ。もちろん彼女に直接それを尋ねたわけでも、あるいは社員の誰かを会社脇の横道で捕まえて訊いたわけでもないので、その情報の信頼性は限りなく低い。だから実際には彼女は総務ではがきの宛名書きの仕事をしているのかもしれないし、あるいは庶務で蛍光灯の交換や五階建ての社屋各階のトイレ掃除をしているのかもしれない。
ここまではぼくの想像だ。
ある日の朝、ぼくは彼女が他の社員たち数名と駐車場の枯葉掃除をしている光景を目にすることになる。水曜日と木曜日と金曜日に彼女が通う会社の所在地は既に突き止めてあったので、いつも彼女の後をつけて彼女の会社の前まで歩くのもなんだと思って、別ルートで彼女の会社の近くまで先に行って、ぼんやりと社屋全体を眺めていたことがある。そのときに出くわした光景だ。多額の負債を抱えて日本中が逼迫して閉塞したこのご時世なので、社員および派遣社員を持ちまわりさせて駐車場の枯葉掃除をさせる会社があっても別におかしくはない。だから、そのこと自体、ぼくはあまり不自然には感じない。それにその事実を演繹したり、帰納したりしたところで、ぼくは彼女の会社での役割あるいは作業分担を推察することはできない。そんなものは外からただぼんやりと眺めていてわかるものではないからだ。ただ、こんなふうに思うことはできる。彼女は本質的には優しい人間なので、前日、会社に何か忘れ物をして、それを回収するために自分の出勤日ではない日の朝に会社に着いたとしたら、彼女はその枯葉掃除を手伝うのではなかろうかという推察だ。
けれども、それも彼女に関するたいして重要な情報ではない。
だとすれば、彼女に対する重要な情報とは、いったい何なのだろうか。
彼女に関してぼくが重要と感じる情報とは、いったい何なのだろうか。
彼女の話をしよう。彼女が会社から帰る後を付けるのにはとても勇気がいる。もちろんそれはぼくが類まれなる臆病者だからという事実の反映に過ぎないが、ストーキング行為をするのは彼女がはじめてだという事情も絡んでいる。事実、彼女についてストーキングをはじめてからしばらく経つと、ぼくはその途中でフラフラと別の気に入った誰かに追跡相手を切り替えて別のストーキングができるようになったからだ。もちろんそれは彼女の存在がぼくの中で小さくなったとか、そういったことでは決してないのだが、いまここでその話をするのはよそう。何故かといえば、それはぼくの話であって、彼女の話ではないからだ。
彼女の話をしよう。彼女は会社から徒歩と電車を含めて一時間ほどの三階建ての鉄骨モルタル仕様のアパートに住んでいる。JR山の手線のターミナル駅から二駅なので十分都会だ。彼女のアパートはその駅から駅前を通る幹線道路を下って十分とまでかからないところにあって、幹線道路からは路地二本分、奥まったところに建っている。ぼくには築三十年程度に見積もられたが、もしかするともっと年数を重ねているのかもしれない。けれどもそのアパートの大家さんがきれい好きなのか、アパートに薄汚れた感じはまったくしない。さらに言えば、清潔感が漂っている。ゴミがカラスに漁られた様子もないし、近所のネコたちも行儀が良いのか、躾けられているのか、悪さに飢えているようには感じられない。そのアパートの205号室が彼女の住まいだ。もしかしたら彼女の彼氏あるいは旦那あるいは事実婚の夫の部屋なのかもしれないが、それはまだわかっていない。とにかく彼女は十分都会の、夜に眠らない街の、幹線道路から二路地分しか離れていないのに思いの他閑静な住宅街の一廓に住んでいる。それだけのことを知るのに、ぼくは一ヶ月近くもかけてしまう。一週間のうち丸三日も確実に彼女の後をつけられる日があったというのに、この体たらくはいったい何だ!
彼女の話をしよう。でも彼女について、ぼくが知っていることはあとほんのわずかだ。彼女は殴られたときに悲鳴を上げない。彼女は殴られたときに言葉で言い返さない。彼女は殴られたときにただ黙ってそれに耐える。彼女の殴られる部屋は鉄骨モルタル仕様のアパートの二階にあって、その部屋は角部屋で耳をぴったりと付けられる壁はない。耳をぴったりと付けられるのはドアだけだ。ぼくは勇気を振り絞ってある日そのドアに耳を押し付けてみたことがある。ぼくの耳には彼女の泣き声は聞こえず、彼女の嘆きの声は聞こえず、彼女の言い返す声は聞こえず、彼女の彼氏あるいは彼女の旦那あるいは彼女の事実婚の夫が彼女を殴る音だけがそのとき聞こえている。
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