最終章 記録者
第八地区には戦死者の名を刻んだ石碑がある。
ただし当然のことながら、そこにニッパやまきじゃくの名前はない。
彼らはもとから存在しなかった。名を遺すこともなく、知られることもなく、逝ってしまったのだ。
ローレンス氏は石碑を素通りする。
石碑の周りにはいくつかの樹が植えられていて、彼はそのうちの一本へと向かう。
何の変哲もない樹。
ローレンス氏はその幹に手を当てる。
ニッパ、まきじゃくとともに植えた樹だ。
植樹は、戦争が苛烈さを増す前まで、休息のように言い渡される任務だった。と言っても、指示された場所に穴を掘って、指示された樹を植えるだけの機械的な作業だった。
あるとき、指示されたのとは別の株をまきじゃくがくすねてきた。
「これ、サクラって言うらしい。すごくきれいなんだってよ」
返してきた方がいいのでは、とニッパが怯えた様子で言った。懲罰が怖いのだ。
「馬鹿言え。毎日同じことの繰り返しには飽き飽きしたんだよ。それに――」
その場にいた全員が、彼の言わんとするところを理解した。
戦争が激化し、植樹なんて悠長な作業はもう二度と回ってこないかもしれなかった。
三人で上司のレンチに目を向けると、彼はにやりと笑い、黙ってうなずいた。滅多に見せない表情だった。そして相変わらず、頭の左右でくせ毛が立ち上がっていた。
チームの全員で、サクラを植えた。
ローレンス氏は幹に手を当てたまま、目を閉じる。
ニッパとまきじゃくはもういないのだ。
上半身の半分を吹き飛ばされたニッパを思う。
胴を真っ二つにされたまきじゃくを思う。
彼らの、叶わなかった夢を思う。
ニッパは、街中の人間を守り抜いた。その手に抱くようにして。
まきじゃくはおとりになった。敵機の攻撃を逸らすために。
軍の中である薬が出回った。実際のところ、それは薬ではなくナノマシンと呼ばれる類のもので、人の肉体を改造し変身させる効能をもっていた。
世間には公表されない、政府の「秘策」。
兵士たちは、己の手のひらにある丸薬をにらみつけながら、人であり続けるかどうかを毎晩自問する。
空を埋め尽くすほどの敵機を見たとき、ニッパは迷わず薬を飲み込んだ。彼はみるみるうちに巨大なドームと化し、街中の人々を懐にかき抱いた。
途切れることのない閃光と爆発音が一晩中続いた。
朝になって人々が目にしたのは、半壊したドームの姿だった。それが半身を失ったニッパだと分かる人間が、どれだけいただろうか。
ニッパの死を見届けたまきじゃくも、薬を飲み込んだ。
空襲が一夜で済むはずもない。そのことを察知した彼は、戦闘機へと変貌し、無数の敵機の前へと躍り出た。
丸二日、まきじゃくは敵機を攪乱し続けた。
そして、ニッパが守り通した住民たちの避難が完了したころ、ついに力尽きて墜落した。
あの「尾翼の塔」が、翼をもがれ、銃弾を撃ち込まれても飛び続けた男の姿だと知る人間が、どれだけいただろうか。
ローレンス氏はサクラの樹から手を離し、ハンチング帽を脱いだ。
頭の両側、くせ毛は相変わらずだ。
ローレンス氏が何を思い出し、何を感じているのかなど分からない。
きっと彼なりに、ニッパとまきじゃくを悼んでいるに違いない。
私は、カイホードーム、そして尾翼の塔の真実を書きとめる。これが私にできる唯一のことなのだ。ニッパとまきじゃくが確かに存在したという証を残すのだ。
ローレンス氏が私を抱え直す。
私はチームメイトの二人を失った。そして、人間の姿のまま生き残った。
私ではなくニッパが生きていれば、どれだけの生命が救われただろう。
私ではなくまきじゃくが生きていれば、どれだけの子らの未来が開けただろう。
そんな考えにさいなまれ、私は壊れた。
壊れた頭で、二人の生きた証を残さねば、という灼けるような使命感だけが私を満たした。
そして、私は薬を飲んだ。
私は一冊のノートになった。
政府にとって不都合な情報は消され、燃やされるような時代だ。
だからこそ、私はニッパやまきじゃくといった人間の記録を残し続ける。
ローレンス氏がどんな思いでいるのかは分からないが、いつも黙って協力してくれている。
静かに風が吹く。
わずかに散った花びらの向こうで、ニッパとまきじゃくが微笑んだ気がした。
巡礼者 葉島航 @hajima
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