第13話

 冬の冷気で冷え切った鉄製のはしごを掴む。氷のように冷たいはしごには錆が浮き、掌を汚す。小さな傷を付ける。しかし藤巻はただ上だけを目指して進んでいた。

 もう立ち止まったりなんかしないと心に決めて。

 体を上へ、体育館の屋上へと引き上げた。目に映るのは胸部を血氷の針によって体育館の屋根ごと貫かれている波流の姿。いや、貫通はしていない。正確には針より発せられている冷気と針の柄より伸びる樹木の根のような氷柱によって体を屋上へと縫い留められているのだ。

 しかし長くは続かない。凍り付く皮膚を剥がし、波流は今にも自由の身になろうとしていた。

 藤巻は駆けた。渾身の力を籠めて駆けた。猟銃を引き抜き、波流の下へ、妹の下へと駆ける。

 十二月の外気で凍り付いた屋上は酷く滑って走りにくい。何度もこけそうになった。不格好な走り方になった。けれど藤巻は決めたのだ。もう決して蹲ったりしないと。

 けれど現実は非情だ。藤巻は全力で駆けた。不安定な足場も気にせず、自分の命も気にせずに駆けた。しかし先に動けたのは波流の方。体の至る所に亀裂が走り、裂傷が広がって皮膚が幾つも脱落する。特に損傷が激しいのは胸、心臓の当たりだ。服や皮膚はボロボロに崩れ、ぽっかりと開いた穴からは冷え切った脈打たぬ心臓とそれを囲む白濁の化け物どもが見えていた。

 藤巻が、波流の下へと駆けよるその直前、拘束より抜け出た波流が屋上の縁より飛び降りた。自身の体に深刻なダメージを与えた郷二こそを最優先目標と決めたのだ。

 藤巻になど目もくれず、一目も見ずに飛び降りた。この程度の落下であれば彼女は魔術によって安全に着地できる。その上、後ろより迫る藤巻には空中の波流を追いかけるすべなどないのだ。藤巻は、もう彼女に手を出せない。そのはずだ。故に、振り返った事に意味などない。屋上を見た所でそこには呆然と立ち尽くす藤巻がいるだけ。その、はずだった。

 しかし、そこには、藤巻がいた。屋上にではない。屋上より飛び降りた彼がいた。猟銃を強く握り締め、喉を絞って、全てを吐き出す。


「もう!絶対にッ……俺はあぁァッッ!!」


 立ち止まらない。

 猟銃を波流へと突き付け、心臓を射程に収め……

 瞬間、氷の一閃がきらめく。瞬きよりも短い間。その一瞬で波流の腕には氷の刃が形成されていた。にわか作りの氷刃は既に自壊を始めている。けれどそんな事、既に関係なかった。

 猟銃の破片が宙を舞う。氷の刃は彼の唯一の武器を破壊した。そして、藤巻の腕が、飛んだ。肘と手首の中頃より切断された左腕が、寒天を舞う。血が噴き出る。命が漏れる。

 しかし、波流の魔術は止まらない。追撃の魔術が発動する。その魔術とは『白虹』。照らされる事が死を意味する致命の光。必殺の白き光が波流の右腕、その掌に集約する。

 だが、藤巻はもう決めたのだ。彼は、もう、決して彼女の手を離さないと。

 故に、藤巻は手を伸ばす。彼女の腕を、『白虹』ごと強く、強く握りしめた。繋がれた二人の腕の隙間から白き虹が爛々と輝く。押しつぶされた光は藤巻の右腕と波流の左腕を白き氷へと置換していく。不可逆な氷への変化が彼らの腕を強く結びつけた。永劫溶けぬ白き氷。

 猟銃は砕かれた。左腕を切り落とされ、右腕は氷に固まった。藤巻に波流を殺す手はない。けれどそんなのは些末な事。彼の想いは、未だ折れてはいない。

 藤巻の視線が空飛ぶ腕へと向けられる。血噴き出る腕、そこに描かれたものへと向けられる。

 かの地を想起させる異端の図へと向けられた。そして、その詞は紡がれる。


「……『灰雪の轍が……円を描く』」


 この世には『極地』に親和を持つ者と、持たぬ者がいる。なら、親和を持たぬ者は魔術を扱えないのかというとそうではない。郷二はかつて魔術とは共感覚のようなものであると言った。『極地』を想起し、この世の物で代替する。『極地』に深い造詣を持ってさえいれば発動する。それが魔術であると。

 藤巻は親和を持たぬ者だ。しかし彼は魔導書を開いた事がある。あのカラオケルームで彼は『極地』へと至っている。そして何より彼は波流の遺したデータを持っていた。魔術の研究資料。脳を破壊する情報群。彼は何度もそのデータに目を通した。波流の遺したものに少しでも触れていたくて。故に藤巻は魔術が使える。波流からのクリスマスプレゼントだった、壊れた万年筆。それより漏れるインクで描いた、腕の想起図を見れば藤巻でも魔術を発動する事はできるだろう。これまでの比ではない『極地』の浸食という代償を背負うのならば。

 藤巻は死ぬだろう。『極地』の浸食とは本来そういうもの。只人が触れていい領域ではないのだ。確約された自身の死。けれど、けれど彼は……


「『その先は、標の先は、瑞花のみ』」


 止まらない。両目は充血し血が滴る。代替句を唱える度に口の端より血が垂れる。内臓の全てがひっくり返るような吐き気と体の全てが氷に置き換わってしまったかのような寒気。けれどそんなもの、彼が止まる理由になどなりはしない。

 刃が作られた。半ばより断たれた腕の先に伸びる血色の刃。自身の血を凍らせた決死の刃。度重なる攻撃によって既にボロボロの波流の心臓を破壊するには十分な鋭さだった。

 しかし波流もただでは殺されない。彼女の中に潜むのは『極地』より来る者。自身の『白虹』が防がれたとみるや即座に魔術は紡がれた。彼女の腕に再度、氷刃が形成される。藤巻を確実に殺す刃が作られて、彼の喉をその鋭利な刃で貫かんと己が腕を振り上げた。

 しかし、そんなもの、人の想いが許しはしない。

 地上より響く、一発の銃声。砕かれる波流の氷刃。彼らの下、地面より放たれた、灯美によって放たれた銃弾が確かに波流の凶器を打ち砕いた。拳銃を下ろした灯美が上を見つめる。己が道を進む藤巻に向けられた激励の目。しかし彼と目は合わない。

 藤巻は全てを賭して波流を見る。愛した少女に、血氷の刃を振り上げた。

 波流を失くした三年間の想い、いや波流への全ての想いを籠めて波流の心臓へと刃を突き刺した。あっけなく滑り込んだ刃は、彼女の心臓を、まとわりつく蛞蝓を、貫いた。

 波流は目を閉じる。ようやく、彼女は長い悪夢を終え、眠りにつくことを許されたのだ。

 落下する彼女を優しく抱きしめる。『白虹』の魔術によって繋がれてしまった二人の腕を見る。二度と、離さない。たとえ世界が終ろうと、絶対に離さない。そう、心に決めて。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 元々、灯美は笹花とは戦わない事になっていた。何故なら彼女は一度、笹花の魔術によって昏倒させられてしまった事があるからだ。灯美誘拐の際に彼女が気絶する原因となった、笹花が灯美の額を小突いた行為。恐らくあれは認識と精神の魔術である『白痴』を応用した何かだったのだろう。灯美と笹花は相性が悪い。そのため、郷二は灯美との合流後、担当する敵を交換した。『極地』に親和を持つ郷二であれば『白痴』の魔術にある程度の抵抗ができるだろうし、拳銃を持つ灯美ならば死に体の波流を打倒する一助となってくれるだろうと判断したからだ。

 そして、今、郷二は自分で下した判断の下、その光景を目撃していた。

 廊下に横たわる体の殆どを凍り付かせ、生きているのか判断に迷う笹花とその横に立ち尽くす楽之助の姿。援軍として駆け付けた筈の郷二だったが既に全てが終わった後だった。


「……やったのか……楽」


 郷二の言葉にゆっくりと振り返る楽之助。その顔に生気はない。青ざめ、立ち尽くしている。


「……笹花さん、これであなたは終わりです。中上波流も今頃、藤巻さんと灯美が全てに方を付けている頃でしょう。これで人の中に潜む敵、碑結家はお終いです」


 郷二の言葉に一瞬眉をひそめる笹花。


「このまま衰弱死したくなければ、あなたの持つ情報を全て吐いて下さい。手始めに『白冷』と『白痴』以外の二冊の魔導書に関してです」


 殉教の死か、神を裏切って生き延びるか。郷二の出した二択はそういう事。恐らく彼女は死を選ぶ。自分で質問をしていながら郷二はそう考えていた。だが……


「……あぁ、ふふっ。気づかない、振りを……してるんだね。いいよ……話してあげる」


 眉をひそめていた笹花が急に笑った。


「三冊目は『白虹の書』。もうわかってると思うけど、光が当たった場所を未来永劫溶けない不溶の白氷に変換する神術だよ。当たればほぼ即死するけど、人間がこの神術を使うと、他の神術なんかとは比べ物にならないくらい人として大事な部分を削られるからおすすめはしない」


 饒舌に喋り始めた笹花に郷二は面喰ってしまう。


「四冊目は『赤墨の書』。変換と貯蔵の神術。あらゆるものを神術発動のエネルギーへと変換し、赤い泥状の実体として貯蔵する事ができるんだ。外付けバッテリーみたいなものかな」

「……あらゆるもの?」

「氷の城の深層で我らの主は赤い泥沼に浴していたでしょう。あれは今までの生贄の命、その全てを泥として貯蔵したものなんだ。主の復活に必要な量まであと少しだったんだけどね……」


 あまりにも禍々しい術。しかし、笹花の話を聞いた郷二は、別の事に気を取られていた。


「……なんで、そんなに簡単に、教えてくれるんだ?」


 当然の疑問。邪な神の信奉者である笹花が何故、郷二の味方をするのか。郷二の問いに、笹花が大きく息をする。揺れる体から皮膚や肉が氷となって地面に落ちる。


「物語は、ここでお終いだからだよ。……郷二、ここから先は全部蛇足なんだ。何も知らなくても世界は救われ、神は死に、ハッピーエンドが訪れる」


「な、なにを」と、口を開いた郷二よりも早く、その言葉を笹花は言い放った。


「郷二。どうしてさっきからユウヒの所に行こうとしないの?」


 空気が凍る。廊下に立ち尽くす郷二の背筋が凍る。笹花が横たわっている廊下は教室のドアのすぐ前だ。笹花と向かい合う様に立つ郷二には教室の中が見えない。


「作戦を考えたのは郷二でしょう?なら、教室の中にユウヒがいる事はわかってるよね?ユウヒの事を誰よりも大切にしていた郷二があの子の安否を気にせずにいる。それがどれだけ不自然な事かわかってる?ねぇ、ビビりな郷二?」


 ニヤリと、笑って、笹花は続ける。


「教えてあげる」「知りたかったんでしょ?」「ユウヒが一体何者なのか」「ここで全部教えてあげるよ」「ふふ…ねぇ、郷二。知りたかったんでしょう?」


 聞きたくない。聞いてはならないと全身の細胞が叫ぶ。しかし笹花は楽しそうに口を開いた。


「元禄の時代、我らの祖が花柱にて神と契約を行った時、彼女は一人じゃなかったんだ」「そもそも、花柱山は『子捨て山』、要らない子供を、忌児を捨てる山だった」「対なすように落ちた氷の神と紅の神のせいでこの地では最も邪知なる忌児がいた。『双子』だ」「もうわかったでしょ?私達は同じ腹から生まれた」「あの時、主の恩寵をたまわったのは、最初の『碑結』とユウヒ、二人の姉妹なんだ。だけどユウヒは裏切った。神を裏切り、妹を裏切り、あろうことかあの尊火共と手を組んだ」「神を裏切る神術を発動した」「発動されたのは、自身を凍らせるコールドスリープのような神術と、赤き泥を掠め取る神術だ」「自身の体を紅の炎で守りつつ、『白痴』を用いて主との間に精神的なパスを作る。主が復活のために貯蔵している赤き泥を掠め取るためのね」「主の復活には本来こんな長い期間は必要なかったんだ。半分の年月で復活は可能な筈だった」


 憎々し気に呟く笹花に楽之助が問いを投げかける。


「……その話を聞く限り、人間側から見てユウヒはいい事をしたように聞こえるんすけど」

「そうだよ。ユウヒのおかげで人間はこうして地球上にのさばる事ができている。大多数の人間にとって彼女は救世主のような存在だ……ただ一人、郷二を除いて、ね」


 嫌らしく笑う。竦む郷二の目を正面から見て、彼女は続ける。


「神術はね、万能じゃないんだ。人を傷つける異なる技。それはユウヒが使った『白痴』でも同じ事。精神に作用する神術を何百年も使い続ければ、心は擦り切れ、魂は消滅する。今のユウヒの中に当時の彼女の心はもうないんだ。私が、洞窟から逃げた我が祖の『姉』とユウヒを結び付ける事が出来なかったのはこれが原因。本来であれば人形のような空っぽの体があるだけの筈だった。だけどユウヒの中には心がある。この矛盾は、彼女の中にどこかから心が流れ込んだとしか考えられないんだ。そして彼女には外界との繋がりは一つしかなかった。それは主と繋がったパスだ……つまりね、そういう事なんだ。そういう事なんだよ」


 あぁ、駄目だ。聞いてはならない。聞いてしまえば、全てが


「ユウヒの中にあるのは主が食らってきた人間達の心の破片だ。食べかすだ。空っぽになった彼女の体に流れ込んだ被害者達の心がユウヒを作る全てなんだ。郷二ぃ、君さ、ユウヒの事を新しく見つけた生きる意味だとか考えてた?ちがうよ、郷二!ユウヒの中には君の母親の欠片が、混ざっているんだッ!」


 それは、彼の心を折る真実。

 その時、トサっと物が落ちる音がした。全員がハッとして目を向けるとそこには『白痴の書』を地面に落とし、静かに涙を流すユウヒがいた。目が合った郷二が、おずおずと口を開く。


「嘘……だよな。ユウヒ、そんなの……」

「『白痴の書』を呼んで、自分が何者か思い出したんだね。自分が何者でもないって事を」


 郷二の言葉にユウヒは反応せず、代わりに笹花が楽しそうに話す。


「だって、僕は、君の事が……」

「ぁはは!違うよ……郷二。違うんだよ。郷二はユウヒが好きなんかじゃない。ずっとずっと、ずっと!過去に、ユウヒの中の母親の残滓にっ、囚われている子供のままなんだよ!」


 氷の欠片を飛ばしてケタケタと笑う笹花の声。そんな言葉も郷二の耳にはもう入らない。

 冷たく暗い絶望が、ぽっかり空いた彼の心の穴で吹きすさぶ。


「……『瑞花よ』」


 その詞はユウヒから。その場にいた全員を覆いつくすような氷の薄氷が形成された。

 次の瞬間、校舎が爆ぜた。郷二達がいた廊下の窓を尽き破り巨大な氷の柱がその場所に突き刺さったのだ。しかしその柱は事前にユウヒが張っていた薄氷によって防がれる。あまりにも桁違いな力のぶつかり合い。郷二や笹花が発動してきた魔術などとは比べ物にならない程の力の本流、隔絶した『極地』に対する深度の差。

 砕け散る氷が降り注ぐ中、ユウヒが一歩前に進み氷の破片を拾い上げた。と、同時に彼女は自身の胸に破片を突き立てた。抉られる胸。そして、そこから取り出された、赤き泥。赤と呼ぶには余りにもどす黒い邪知なる力の漲り。笹花の話していた、ユウヒが掠め取った赤き泥だと一目でわかった。泥を見つめるユウヒの顔は痛々しく、歪んでいた。

 ユウヒがまた一歩前へ進む。先ほどの氷の柱によって開いた穴から外へと一歩踏みだした。無言のままに形成される氷の足場。ユウヒは何も言わず、郷二を見ずに、その先へと進んでいった。瞬間、郷二達の見えない外、校舎の直上で光が輝く。白き光、砕ける氷の音。校舎の全てが揺れすさぶ轟音と振動。ユウヒと何かが戦っている。


「……んだよ、何が起こってんだよ!?郷二ィ、いっぺん外出んぞ!」


 床に倒れる笹花を抱きかかえ、ついでに『白痴の書』を拾いながら叫ぶ楽之助。しかし郷二は反応しない。呆然としたまま突っ立っている郷二に舌打ちをしつつ腕をつかんで走り出した。階段を降り、揺れる校舎にたたらを踏みながら玄関より外に出る。

 そこで見たのはこの世の終わりのような光景。寒天を覆う氷の天蓋。そこを這う百ではきかない無数の蛞蝓、天蓋の頂点で絶叫を上げるその邪知なる群れ。だがそれで終わりではない。校舎から伸びる氷の螺旋階段を昇るユウヒがいた。静かに、泣きながら一歩ずつ昇るユウヒ。彼女を取り囲む蛞蝓がユウヒに向けて氷の柱や『白虹』の魔術を発動する。当たれば即死、殺意に満ちた冷たき攻撃。しかしユウヒは身動きの一つもせず、その尽くを自身が生み出した薄氷の防壁によって防いでいる。

 郷二達の魔術なんてお遊びでしかない。本当の魔術がそこにあった。


「楽っ、郷二!」


 埒外の戦闘に目を奪われていた二人を呼ぶ声。灯美だ。

 郷二達のすぐ近く、校内の生垣に寄り掛かるようにして倒れている藤巻と波流。その横で空を見ないようにしている灯美がいた。楽之助が郷二を引っ張って灯美と合流する。


「楽、いったい何が、どうなってるの?」


 困惑に眉をひそめた灯美が問うも、楽之助も答えに窮す。しかし楽之助の背中にいた笹花が全身の傷に顔をしかめつつ、億劫そうに、投げやりに、口を開く。


「私の『白痴』が消えた事によって蛞蝓共の制御が外れたんだ。私達が『極地』を拒絶するように、蛞蝓共も『地球』にいるだけで耐え難い苦痛の中にいる。今あそこにいるのは周りの『地球』全てを破壊する事によってしか恐怖を抑えられない子供の群れさ……でも、見てみなよ」


 諦観の混じった目線が空を示す。

 ハッとして顔を上げると、空での戦いには既に決着がついていた。猛り叫ぶ口に突き立てられた氷の剣。氷の礫によって頭を粉砕されている尽くの蛞蝓。ユウヒの完勝だった。余りにもあっけない終わり方。ユウヒの圧倒的な力によって全てが終結に向かっている。

 血が滴り、即座に凍る氷剣を握り締め、空高くを見つめるユウヒ。彼女は一体何を思っているのか。そのユウヒが徐に郷二達のいる方へと目線を向け、薄氷の階段を形成した。ゆっくりと、昇って行った時と変わらない足取りで降り始める。カツリ、カツリと響く音が誰も声を出さない寒空に響いていた。涙に濡れて深く沈んだ彼女の瞳を、郷二は直視できない。

 地面に降り立ったユウヒに灯美が近づいていく。ユウヒに近づき、何があったのかと口を開きかけたその時。灯美の額を、コツンとユウヒが小さく小突いた。

 瞬間、灯美が大粒の涙を両目に浮かべて崩れ落ちる。悲嘆にくれた、ユウヒと同じ涙。灯美の前に立つユウヒが彼女の頬を優しく拭う。涙を拭う。

 そして顔を上げ、郷二を見て言ったのだ。涙の混じった声で、ただ一言。


「……ごめん、なさい」


 彼女は踵を返して歩いて行った。森の中へ、神の眠る氷の洞窟へ歩いて行った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「ユウヒは白蛆の神を殺しに行ったの……『白痴』の魔術は認識と精神を司る。今の一瞬で彼女の考えが全部伝わってきた。ユウヒが持ってた赤い泥は、何百年という年月で神が貯めてきた泥の半分に当たる。だからそれをエネルギー源としてユウヒが魔術を使えば神を殺すことだってできるんだ。ユウヒは紅の炎にも精通してるし」

「あの白蛆は死ぬのか?」

「絶対に死ぬ」

「この街の失踪事件は解決して、全部が元に戻るのか?」

「戻るよ」

「ハッピーエンドで終わるのか?」

「……うん」

「じゃあっ、なんでお前はそんなに泣いてんだよッ!」


 大粒の涙が灯美の頬を伝っていた。ユウヒと同じ、静かな涙。


「……自分の命を絶つ攻撃に晒されれば、神は必ず目を覚ます。幾ら目を閉じ幾百年の眠りについていようと、あれは神なの。攻撃の直前に目を覚まして防ぎ切る事だってできる」

「じゃあ……殺せねぇじゃねえか」


 首を振る灯美。涙が散る。


「……神は隠れてるんだ。眠る事によって自身の気配を小さくし、『白痴』による認識の阻害を使って尊火から隠れてるんだ。自身の存在を隠蔽している。深い眠りの底にいる今の状態で、それだ。なら、不完全なまま覚醒を果たした神は確実に、尊火に捕捉される。そうなれば不完全な白蛆は一方的に殺されるだろうね……あたり一面を、消し炭にして……」


 楽之助は最後の一言で全てを察した。ユウヒの犠牲を許容すると、灯美は言ったのだ。


「お前ッ、それを知っていてあいつを行かせたのか?」


 灯美の胸倉を掴み、声を荒げる。踵を浮かせた灯美が楽之助を睨み、喉を潰して叫んだ。


「あの子の絶望はもうどうにもならないっ!。彼女の中に昔の記憶はもう無いんだ。だけど、あの世界には彼女が愛した人達が、彼女を愛した人達がいたはずなんだッ。彼らの復讐の為にユウヒは選んだんだ。神に食われる少女達がいる事を。新たな犠牲の上での復讐を、許容したんだ。この二週間、ユウヒは幸せだった。復讐を、罪を、全てを忘れてっ、幸せに生きた。それをユウヒは許せないッ!」

「いいじゃねぇかよ、生きて。幸せになってよぉ。この世界が滅んでないのはあいつが神の眠りを長引かせたからなんだろ?誇っていいだろ、生きて……幸せになっていいじゃねえか。ココにだってあいつを愛してる奴はいるだろうがよ……」


 その言葉に灯美の顔は苦痛に歪む。楽之助の胸に顔を埋め、悲痛な声で言葉を紡ぐ。


「……もしかしたら、そんな……世界もあったのかもしれない。あの子が、全てを乗り越え……今を幸せに生きる、そんな世界が」


 なら、そう呟こうと口を開いた楽之助を遮るように灯美が続ける。


「でもダメだ。だって、だって……あの子が許容した死の中に郷二のお母さんがいたから……そして、自分がどれだけ残酷な事を郷二にしてしまったのかを知ってしまったから!郷二の心に寄り添っていたのは自分じゃないって知ってしまったからッ!『白痴』でユウヒの記憶が流れ込んだ時、少しだけあの子の心と繋がった。その時に知ってしまったの。あの子の絶望の色をッ、深さを、その…苦しみを。そして……それ以上にあの子がどれだけ、どれだけ……郷二の…ことを……」


 その言葉の意味を理解し顔を歪ませる楽之助と、彼の胸に顔を当てたまま崩れ落ちる灯美。

 郷二は二人を何処か他人事のように見ていた。

 幾百年も前から続く白蛆を取り巻く因縁があった。その歴史の中で自分達はただの橋渡しだったのだ。目を覚ましたユウヒが『白痴の書』を読むまでの橋渡し。人類の滅亡をかけた壮大なお話が、ここで終わりを迎える。だけどそれは幾百年と昔を生きたユウヒのお話だった。そこにほんの少しだけ郷二達の『日常』が掠って、また離れる。集団失踪事件と連続放火事件から始まったこの話は、ここでお終い。被害者達は帰ってこなかったが、犯人はいなくなり世界は救われ全ては平穏に帰っていく。三人の誰も欠けずに、平穏な元の生活に帰ることができる。

 納得していた、その結末に、ハッピーエンドのこの結末に。


「……そうか」


 呟く郷二に、俯いていた二人は一瞬顔を上げるも彼の顔を見て理解する。非日常の終わりを、日常への帰還を、救われた世界を理解する。これで本当に終わりなのだ。この話は、ここで終わり。いつの日か、この日の事を笑って話せる時が来るのだろう。日常が続くその日の中で、あの一冬に見た彼女の笑顔を思い出し、その日の一歩を踏み出せる、そんな日が……



      「後悔の日々だ」


 声が、した。かぼそい、死にかけの声。咳き込んで赤黒い血を吐き出す男の、藤巻の声。


「……郷二……ちょっと、こっち来い……失敗した、大人の話をしてやろう」

 消え入るような声が、叫んでいる。世界を震わせ叫んでいる。

 ハッピーエンドはここではない。エピローグは始まらない


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 郷二は倒れ伏す藤巻の隣に膝をつく。藤巻が波流を強く抱きしめたまま口を開いた。


「お前達のおかげで、俺は、この子に、最期にまた会うことができた……本当にありがとう」

「……はい」絞り出すような声が喉から漏れる。

「俺はよ、三年前、波流のメールを読んで、捜査を止めろと言われてすげぇ迷ったんだ。だけど……俺はあんま出来が良くなくてよ、俺よりずっと優秀なこの子が、今はまだ待つべきだと判断したのならそれに従うのが不出来な兄の出来ることだと……あの時は思ったんだ」


 半ばより断たれた腕を掲げ、藤巻がケラケラと笑う。


「見てみろよっ。現に今、奴らから妹を取り返し、世界は救われた!」


 虚な目は空高くを見ている。


「メールを見た時には全てが遅すぎた。あの時、この子の言う事を無視して突っ走っても、俺は何もできずに殺されてただろうと思うよ。だから……だからこれが、あの子の望んだ出来うる限りの終わり方……そうなんだろうよ」


 水っぽい音を立てて腕が落ちる。深く息を吐いて、彼は言う。


「でも……やっぱり、俺はあの時に動くべきだった」

「……ぇ」


 郷二はその言葉に反応し顔を上げる。藤巻はその漏れ出た声に少し微笑み、話を続けた。


「ずっと、ずっと……後悔の日々だ。三年間後悔し続けた。あの時に何かをしていれば波流は今でも俺の隣で笑ってくれてたんじゃないかって……あの、はにかんだような笑顔を俺に向けてくれてたんじゃないかって、みんなが笑って終わる、そんなハッピーエンドがあったんじゃないかって、そう思い続けた。事件の全容を知っても世界を救っても、この子が胸の中にいてもっ!後悔している。今でもッ後悔してるんだッ!世界が滅んだとしても、この子に二度と会えないままだったとしてもッ!俺はこの子の言葉を……無視するべきだった」


 藤巻が、目を見開き呆然とする郷二の方を向く。光の失われた目はそれでも郷二を見ていた。


「俺は……失敗した大人だ。ダメな大人だ。郷二……郷二、お前は俺みたいになるな。ガキのお前らはもう充分頑張った。……郷二…お前は、どうしたい?」

「……この世界が、尊いものだと、僕は知っています」


 藤巻は静かに続きを促す。


「幸せを望む八十億人が生きる世界、そんな世界に、僕らは生きているんです」

「……あぁ」

「……ユキさんの子供は、来年の夏頃に生まれるそうです。暑い……夏に、生まれます」

「めでたい事だな」


 郷二は息を呑む。その顔は苦痛に歪んでいた。


「そんな世界がッ!……っ世界が…………救われる。日常が、戻ってくる……」


 そこに居たのは、痛みに耐え、苦しみに顔を歪ませる一人の子供。


「郷二……お前は世界を救いたくて、これまで戦ってきたのか?」


 藤巻のその一言に、世界が止まる。郷二の世界がピタリと止まった。


「これまで通りの日常が、本当に、欲しかったのか?」


 止まった世界で自分の心臓だけが音を響かせる。叩きつけるようなその音が郷二の嘘を、心の嘘を、糾弾する。燻んだ退屈な世界を変えてくれたあの子を諦めた自分を糾弾する。


「…もし、も……僕がユウヒを止めれば、この世界はいつか来る滅びを待つことになる」

「そうだ」

「此処であの神を殺さなければ、供物となって食われた彼女達が報われない」

「そうだ」

「……ッ此処であの子が死ななきゃ、あの子が今まで耐えてきた事が無駄になる!これからの人生、ずっと、抱えきれないほどの罪を背負って生きていくしか無くなってしまう!」

「……そうだ」


 俯く郷二の顔は涙にまみれている。静かに滴る涙は月の光を反射させ、美しく輝いていた。


「……それ、でも?」

「それでもだ」


 歪む顔。沈黙。


「……あの子は、幸せになるべきだ」


 藤巻の言葉に、唇を噛み、叫ぶ。


「そんな事ッ!僕が誰よりも知っている!」


 その言葉にかぼそく笑い、口を開く。


「お前もだよ、郷二。俺は、お前にも幸せになって欲しいんだ。世界とか、日常とか……そういうものじゃなくて、お前は、お前のために幸せになっていいんだ。そうであって欲しいんだ」


 郷二と瓜二つだった男の言葉。彼は心の底から郷二の幸せを願っていた。その暖かな言葉は、彼に届く。顔を上げた郷二の瞳に涙はない。その瞳は、決意に満たされていた。


「……わかってんじゃねぇかよ。男なら……惚れた女の為に死ね。だけどよ……期待してるぜ……ハッピーエンドってやつをよぉ」


 目線を空に戻し、大きく息を吐いて顔を波流に近づける。

 彼の愛した波流の顔。


「あったけえな……波流」


 優しく微笑み、幸せそうに笑って、藤巻は死んだ。こうして彼は死んだのだ。ようやく自分の心を取り戻し最愛の者を胸に抱いて、藤巻は、死んだ。

 永劫の白き氷で繋がれた二人の手は死してなお離れない。二度と、離れない。

 目を伏せ、黙す。これからの彼らの旅路に幸多からん事を願って郷二は祈った。

 そして、思案する。今度は郷二の番だ。藤巻の望んだハッピーエンドを目指すのだ。

 黙す郷二を後ろから見ていた楽之助が声をかけようと口を開くも、その瞬間郷二は立ち上がり、驚く楽之助に目もくれず一直線に笹花の元へと歩いて行った。地面に寝かされた笹花は殆ど息をしていない。全身を覆う氷は徐々に彼女の体温を、命を吸い取っていた。郷二が躊躇うことなく笹花の血と氷に塗れた手を掴んで自身の頭に押し付けた。死にかけとはいえ、彼女は『冷たき司祭』なのだ。その気になれば無防備に近づく郷二など瞬きの間に殺すことができる。

 郷二の突然の奇行に、楽之助が慌てて止めようとする。が、彼は無視して笹花を見やる。


「……痛い、ん……だけど」


 億劫そうに眉をひそめる笹花。


「『白痴』の魔術を使って僕の考えを読め。そして全部、教えろ」


 既に、笹花は全てを諦めている。ユウヒは神を殺す。それを止めるすべなど残されていない。笹花が何をしようとその事実は覆らない。だが、だからと言って郷二に手を貸す義理などないのだ。郷二のその言葉を無視することだってできた筈だ。

 しかし、数秒後、代替句は読まれた。

 彼女の魔術がなされた瞬間、郷二は撃ち抜かれたかのように頭を弾かれ、大量の鼻血を流す。楽之助らが即座に笹花を警戒して構えるも、彼女は突然大声を上げて楽しそうに笑い出した。


「はははっ……ぁあー、はは。ほーんと、郷二は性格悪いよね……やるしかないじゃんか……『司祭』としての……最期の仕事がこれかぁ。まぁ、いいように使われただけだけど、元々いいように使われ続けた人生だ……悪くない、結末かもね」


 結果として、彼女は郷二を助けるために魔術を使った。彼女の言葉の真意はわからない。たとえその意味が分かった所で彼女のしてきた事は紛れもない悪行だ。彼女は加害者だ。

 けれど、今、この瞬間。彼女に後悔はなかった。心からの笑みだった。

 郷二は横で笑っている笹花には目もくれない。彼は自分のすべき事をする。そのために、鼻血を垂らして目尻からも血を流しながら笹花の外套に手を伸ばそうとして、


「郷二」


 灯美の声がした。凛としたまっすぐな声。しかしその声とは裏腹に彼女は拳銃を握っていた。構えていた。拳銃を郷二に向けて構えていた。


「お、まえ、なにを」


 灯美の凶行に、楽之助が震える声で呟く。しかし灯美は彼の言葉を無視し、問いかける。


「郷二……行くの?」


 手を止め、立ち上がって振り向く郷二。彼らの目が合う。


「……行く」

「何を……しに行くの、郷二」


 半壊した校舎を背にして無言で見つめ合う二人。灯美の目には未だ涙が浮かんでいる。ユウヒの心を知っている彼女にとって、郷二の望む結末は許容できない。


「あの子の苦しみを知っているのは私だけ。あの絶望は、もうどうにもならない。ユウヒは苦しんで、たくさん苦しんで、我慢して我慢して我慢して!もうアレを殺す事でしかっ、解放されない!死ぬ事でしか、楽になれないッ!郷二、答えて……何を、しに行くの?」


 分かっている。今から郷二がしようとしている事は、決してしてはならない事だ。世界が望まず、みんなが望まず、ユウヒが望まぬ結末で、郷二だけが望む、そんな自分勝手な結末なのだ。だけど、いやだからこそ、彼は真っ直ぐに灯美の目を見つめて言う。


「告白を、してくる。まだ……好きだって伝えてないんだ」


 もう少し歩いた先で伝えると言ったあの言葉を、郷二は未だ伝えていない。

 身勝手で恥知らずな答えだ。全てを賭してユウヒは世界を救おうとした。

その全てを無に帰す自分勝手な、けれど彼にとっては世界よりも重い、その行為。

 その言葉を聞いて、楽之助は自身の告白を思い出していた。笹花に言ったあの一言が自分にとっては世界よりも大切だった事を思い出していた。いつも本ばかり見ていた友が、まっすぐに前だけを見つめてそう言うのだ。なんと嬉しい事か。他の誰が何と言おうと楽之助だけは彼の味方であらねばならない。でなければ、楽之助は自分の告白にも嘘をつく事になってしまう。

 一歩前に出る。射線に立ち、正面から彼女を見つめた。目だけで、全てを伝えるように。

 灯美は唇を強く噛む。もちろんわかっている。郷二の想いも、楽之助の気持ちも、無二の友たちの心に気づいている。顔がひどく歪む。郷二が行けば、世界は救われない。平穏は訪れず、禍根は残り、またどこかで人が死ぬかもしれない。灯美の中の正義の心が揺さぶられる。

 悩んで、悩んで……思い出したのは、ユウヒの顔。もう一人の、私の友達の笑顔。

 銃声が響く。硝煙をたなびかせる空になった拳銃を下げ、俯く。小さな笑い声。


「……まだ、恋バナしてないもんね」


 サイレンの音が遠くに聞こえる。銃声や轟音を上げて行われた戦いに、誰かが警察に通報をしたのだろう。彼らを急かす音。迫る時間切れ。けれど、その音はまだ遠い。

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