第12話

 窓の外に見えるのはどっぷりと深く沈んだ夜の空。教室の壁掛け時計が頂点を示してから既に一時間は過ぎている。教卓に寄りかかり、目を閉じていた笹花が薄らと目を開く。カツリ、と遠くで音がした。近づいてくる足音。教室の後ろの扉が開けられる。

 現れたのは楽之助と、灯美。二人だけ。


「……ユウヒを、連れてきてって、私は言ったはずなんだけど」


 楽之助の視界に映るのは白装束の笹花ともう一人、あの洞窟の五層でも見たボロボロのローブに身を包んだ枯れ枝のような人間がいた。圧倒的な異質な空気をまとった敵がいる。


「笹花さん!……あなたにとって、オレは、なんすか……?」

「ちゃんと殺すよ。『白冷』と『白痴』も返してね」


 白装束をめくり、裏竪衿に縫い付けられた空っぽのブックホルスターの様なものを見せる。本来ならそこに魔導書が収められているのだろう。噛み合わない会話。けれど、彼らの立場は明確になった。そこにいたのは、敵だ。楽之助の顔がまた歪む。彼女の顔を見たから。いつもの笑顔、楽之助の大好きだったその笑顔は、こんな時でも変わらなかった。

 楽之助の口が、開かれて、何かを伝えようとした、その瞬間、


「『喘鳴の洞より顕れる、欠けぬ流涎よ』」


 教室の扉がはじけ飛ぶ。氷の柱が濁流となって流れ込んだ。氷柱の向かう先は笹花と枯れ枝の敵。しかし笹花は即座に寄りかかっていた教卓を氷柱に向けてぶん投げ、一瞬だけ威力の弱まった氷の進路から強引に飛びのいた。結果、餌食となったのは枯れ枝の敵。教室のドアから直進した氷柱はその枯れ枝を巻き込んで教室の窓を突き破る。笹花はその時になって漸くその氷柱に掴まっていた郷二の姿に気づいた。この氷は郷二の魔術。氷柱は廊下に描かれた想起図より伸びていた。その郷二が、凄まじい速度に耐える中、薄目を開けて楽之助を見やり、


「すべきことをッ!」


 その叫びだけを残し、郷二は枯れ枝を伴って外へと、三階の窓の外へと落ちていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「藤巻さん!やれぇッ!!」


 三階の窓から空中に投げ出された郷二が叫ぶ。掴まっていた氷柱は衝突によって至る所に亀裂が走り、空中で砕け散った。落下を始める直前、刹那の時間、しかし郷二は確かにその目を見た。敵の、フードの奥深くにあった温度を感じない冷め切った目を。死体のような目を。

 瞬間、爆音が轟いた。同時に目前の敵から鮮血が舞う。直下から飛来した弾丸によって胴体を穿かれたのだ。弾丸の射出元は郷二の遥か下、地面から。落下先にあった高校のプール、そのプールサイドには藤巻が立っていた。硝煙のたなびく銃口を直上へと掲げた藤巻がそこにいた。血を方々へとまき散らすローブの敵が水面に張っていた薄氷を割ってプールの中へと落ちた。汚く淀んだ水が、数秒の後には血によって染まり、敵の致命傷を報せていた。

「『跪拝の白よ』」、郷二が素早く魔術を発動し、中空に五センチ四方の氷の足場を複数作る。各足場で落下の衝撃を軽減し、何とか藤巻の横に着地した。

そろそろ普通の高校生を名乗りづらくなってきたななどと考えながら藤巻に目を向ける。


「どてっぱらにデカい穴が開いてました。確実に死んだでしょう。急いで楽之助達とごうりゅ」


 プールの水が爆ぜた。飛来する氷の礫。その全てが郷二に殺到し、とっさに避けようとした郷二の、頭を抉った。直撃はしなかったものの衝撃はすさまじくその体を遠方まで吹き飛ばす。舞い上がった水が降り注ぎ、二人を濡らした。「郷二!」、叫ぶ藤巻は吹き飛んだ郷二に一瞬目を向けるも即座に水面へと猟銃を向ける。

現れるは敵。頭を覆っていたフードは水が流れ込んだ重みによって外れてしまっている。

 あらわになる、敵の、彼女の顔。


「…………うそだ……」


 目を見開く藤巻が猟銃を下ろす。下ろしてしまう。

 彼の目に映っていたのは、真っ黒なセーラー服を着た幼き少女、中学生ほどの少女。

 『中上波流』が、そこにいた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「よくできてるでしょ、あれ。中上波流の死体に蛞蝓を五匹ばかり詰めて自立した兵器として使えるようにしたんだ……あぁ、気にしないで。ちゃんと死体だから、気にせず壊していいよ」


 笹花が、砕けた教室の窓から下を見降ろし口を開く。彼女には灯美の持つ拳銃の銃口が向けられている。藤巻から借り受けた品だ。


「外道がッ」


 吐き捨てるように叫んだ灯美に、ニヤリと笑って笹花が目を向ける。外道の目。


「『髭は伸び、そこにあり、白癬は覆う』」


 だらりと垂れた笹花の指先に『白虹』が現れ、


「灯美!」


 楽之助が叫ぶ、よりも早く灯美は駆けだしていた。教室の後方、ドアに向けて走る。

 途中で銃弾の幾つかを撃ち込むが、弾丸は『白虹』に掠ったかと思うとその悉くを白き氷へと変化させ空中で細かな破片となって消えた。次の瞬間灯美のいた場所を白き静寂の暴力が薙いだ。光の軌跡にあったものの全てが白き氷へと置換される。

 あの光に触れてしまえば即死する。そう気づかされるには十分な威力だった。

 笹花が指先を楽之助に向ける。が、一瞬早く対処する。窓の外に向けてその身を投げたのだ。「『跪拝の白はここに』」、郷二と同じように空中に足場を形成し、渾身の力を込めて踏み込んだ。飛び込む先は二階の窓。窓ガラスを叩き割り、頬を切りつつ、教室の中へと転がり込んだ。


「へぇぁー、無茶するなぁ……」


 階上の笹花の声も無視して走り出す。楽之助と灯美は逃亡に成功した。問題は郷二。ほのかな不安が楽之助の心に押し寄せかけたその時、その声を聴いて楽之助はニヤリと笑う。


「『那由多の献花は空を覆った……」


 階下、プールの方から声がした。頼れる相棒の声がした。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 「……霞む目を擦れど、それでも佇む眼前の白霧にもがく』」


 地に伏す郷二が地面に触れた。波流の攻撃によって飛び散っていたその水に。

 瞬間、それら全てが急激な冷却によって濃霧となってその場にまき散らされた。爆発といっても過言ではない白霧の広がりは郷二や波流、呆然と立ち尽くしていた藤巻をも包み込む。

 視界の全てが白となり、再度、氷の礫が波流より撃ち出された。目標なんて付けていない、まき散らされる氷塊の雨。漂うだけの霧など次の瞬間にはその悉くが打ち払われていた。しかし、霧の晴れたその場所には誰もいない。郷二と藤巻はその一瞬の間で離脱に成功していた。

 敵を取り逃がしたにもかかわらず波流の顔に動揺はない。その顔に、心はない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 プールよりいくらか離れた部活棟、その裏で息を大きく切らした二人の男。郷二と藤巻だ。郷二は壁に背中を付きながら額の血を拭う。息を整えながら藤巻の方に目を向ける。

 波流だった。あの敵は紛れもなく中上波流だ。

 藤巻にとってこの戦いは波流の遺したこの街を救って欲しいという願いと、彼女への弔いのためのものだった。しかしそうではないと知ってしまった。波流は未だに苦しみ続けている。その亡骸は彼女が防ごうとした奴らの計画の歯車として利用されていた。なんという凌辱か。それを知った藤巻は一体何を思っているのか。俯いたままの藤巻に郷二が声をかけようとして、


「……俺は、やるべき事を、知っている。覚悟は……あの展望台で、既にしたんだ」


 藤巻の目には燃える炎。生きる人間の炎が灯っていた。彼の心は震えていない。


「作戦を考えました」


 自信に満ちた郷二の言葉を聞いて藤巻は小さく笑う。


「考えるのは、君の領分なんだってな」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 場所は変わり、校舎内。楽之助は走っていた。大胆な逃走経路をとったことにより楽之助と灯美は分断されてしまっている。一刻も早く合流をしなければ。

 廊下の角を曲がり、走る灯美が見えた瞬間、楽之助の背筋は凍り付いた。何故なら灯美の背後、そこに笹花がいたから。手を掲げ灯美の頭に触れようとしている、笹花の姿。


「避けろォッ!」


 叫んだ瞬間、灯美がハッとし前方へ跳んだ。笹花の手は灯美の頭を掴み損なう。しかし、その指先は逃走を許さない。はらりと揺れた灯美の髪に指をかけ、掴み、引き倒した。同時にがら空きとなった灯美の腹に渾身の蹴りが叩き込まれる。彼女の口から唾液と空気が飛んだ。

 灯美の窮地。楽之助が即座に視線を巡らし、壁のポスターを剥いだ。


「……ッ…『軽白を濯ぐ晩冬よ』『踵の許されない爪先だけの前進よ』」


 そこにあったのは想起図。ポスターの裏にはいつの間に描いたのか、想起図があった。笹花の目がキッと細められ、彼女の口からも忌むべき唄が紡がれる。魔術は成される。


「『奉仕の種族は、無貌を尊ぶ』……『蛞蝓』」


 楽之助の眼前に氷の礫が五つ、形成されていく。パキパキと嫌な音をたてて作られたそれらは、できた端から高速を伴って笹花に襲い掛かった。

 笹花の背後にそれらは現れた。見慣れる事など決してない蛞蝓。笹花の使役する化け物ども。その触覚が一瞬震えたかと思うと笹花の眼前に氷の障壁が現れ、楽之助の攻撃、全てを防いだ。

 無傷に終わった楽之助の攻撃。しかし、それは無為に終わる訳ではない。攻撃のインパクトの瞬間、倒れていた灯美が渾身の力をもって笹花の腹を蹴り上げた。恐らくさっきの意趣返し。灯美の足は笹花の内臓を抉る。顔が歪み、手が緩む。そんな隙を灯美は見逃さず全速力で楽之助の方へと逃走した。楽之助も灯美に伴って逃げる。

 逃走に成功した二人。その場に残されたのは蠢く蛞蝓と、想起図による『極地』の浸食に耐えられずヒビが入ってしまった壁。壁に残された想起図は余りにも緻密で、精巧な造り。


「ユウヒ……来ているんだね」


 そして、その壁を見つめ、呟く笹花だけだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「蛞蝓どもが、厄介すぎる。あれを、何とかしない事には……笹花さんには手を出せない」


 走って逃走しながら、荒れた息で楽之助が言う。


「計画には、それも織り込み済みでしょ……私達のやる事は、蛞蝓の数を減らしながら予定の位置まで誘導する事。そして、そこで蛞蝓も、笹花も、まとめて殺す」


 楽之助が息を呑む音を灯美は聞き逃さなかった。ハッとして急停止し、楽之助の肩を掴んだ。


「楽……まさか、まだ躊躇ってるの?向こうは楽の事を殺す気なんだよ?」

「……足を止めんな。追いつかれるだろうが」

「追いつかれたっていいッ!これは、何よりも優先しなきゃダメな事なんだ」


 灯美の目がまっすぐに楽之助の目を捕らえて言う。


「私は正義の為に、郷二はユウヒの為に、藤巻さんは妹の為に、ここにいる。その為に私達は命を張って人を殺せる。……楽は、何の為にここにいるの?」

「……殺すさ。あの人はしちゃなんねぇ事をして、これからもそれを続けようとしている」


 逡巡の後、重い口を開く。


「オレはあの人の狂気が理解できない。だから、オレはあの人を殺す事でしか止められない。社会がどうとか、犠牲者がどうとかは、オレにはどうでも良い事で、だけど……それでも、あの人にこんな事を続けて欲しくないんだ。今までの笑顔が全部偽物だったとしても、オレはその笑顔に救われたんだから……紛れもない、自分勝手なただのエゴなんだ」


 思いの丈を話した楽之助の顔を灯美の両手が挟み、無言で、それだけかと問う。本当にそれだけなのかと。二人の視線が交差する。泣きそうな顔の楽之助が口を開いた。


「オレ、あの人に自分の気持ち伝えてない。オレ、あの人に……好きだって言ってない」


 弱々しい言葉。けれど、心からの言葉だった。灯美がニッと笑い楽之助の胸を拳で突く。


「全部終わったら恋バナしようね。友達みんなで恋バナは、やっぱ定番だよねっ」


 その言葉につい笑ってしまう。今の今まで恋バナをした事なんてないくせに。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 波流が郷二達を見失ってから既に五分。波流はまたも濃霧に包まれていた。場所は部活棟の裏。足を緩める事なく霧の中を進む。波流は死んでいる。見た目は人のように見えても、その実、蛞蝓を覆うハリボテに過ぎないのだ。恐怖もなく、躊躇もなく、進む。だから罠にかかる。


「『瑞花よ』」


 波流の足が凍り付く。地面に縫い付けられる。間髪入れず浴びせかけられる無数の氷塊。氷の柱。これらの全ては郷二ただ一人が発動させているものだ。圧倒的な暴力の雨。『極地』への近づき。郷二は、無為にこの数週間を過ごした訳ではない。

 しかし、『極地』とはどこまで行っても異端の技。埒外の向こう。理の内に住む郷二が、『極地』より来る者である蛞蝓に、蛞蝓によって作られた歯車に勝てる道理などない。

 攻撃の当たる直前、瞬きよりも短い間、その一瞬で波流の周囲には夥しい量の氷塊が姿を現し、「……ッ!」郷二が何かを叫ぼうとした時にはその全てが撃ち出されていた。

 それらは郷二の魔術など歯牙にもかけず、砕き、蹴散らし、その後ろにいた郷二の腹を抉った。郷二の魔術によって威力を大幅に削られていたとはいえその衝撃は凄まじく郷二は部活棟の壁に叩きつけられ、肺の中身全てを吐き出した。

 力なくへたり込む郷二。意識が、朦朧とする。プールに続き、再度打ち付けられた頭へのダメージは大きく、足の氷を剥いで目前に迫る波流を呆然と見る事しかできない。霞む目が、迫る波流を、自身の死を映す。死が、迫って……笑った。郷二は笑った。確信の笑みだった。

 波流の背後、霧の向こう。そこに切っ先が現れる。化け物を討つ、波流を撃つ、猟銃が現れた。持ち手は藤巻。憎悪と憤怒、弔いの気持ちを込め、背後から波流の心臓を狙った一撃。思いの全てを乗せて、撃鉄は落とされた。

 郷二の計画は一言で言えば、自身が囮になる。それだけだ。しかし郷二の頭には先ほどのプールでの失態があった。水底より放たれた魔術によって頭を撃ち抜かれた失態だ。

 そもそもあの攻撃は何だったのか。濁った、血の滲む水の中からの攻撃であったにも関わらず奴は正確に郷二の頭を撃ち抜いた。視覚ではない。奴は何か別のものを見ている。そして恐らくその何かとは『極地』だ。奴らは『極地』より来る者。奴らにとって『極地』の冷気とは郷二達にとっての光なのだ。故に、『極地』に親和を持ち、直前に魔術を行使した郷二が見えた。

 知って、対処する。それが郷二の専売特許だ。だから今度はそれを逆手に取った。今、波流の周囲には氷の残骸が散らばっている。郷二が襲撃に使い、波流が迎撃に使った魔術の残滓だ。『極地』に包まれたこの環境。背後に現れた理の内に住む藤巻には気づけない。

 轟音。寒天の下、轟音が轟いた。銃弾は発射され、波流の心臓をはじいた。

 計画は完璧に遂行された。郷二は自身の死をリスクに最大の隙を作り、藤巻はその一瞬の時間を無駄にする事なく正確に猟銃を撃ち放った。

 だから、その結果は誰のせいでもない。ただ少し、波流の体が硬かっただけ。魔術による凍結で心臓を防御しているなど誰が考えられるだろうか。だからその結果は、攻撃の失敗という結果は、誰のせいでもない。失敗したという事実がそこにあるだけだった。

 立ちつくす藤巻の胸に氷柱が突き刺さる。自身の体に損傷を与えた藤巻を最優先目標と決めたのだ。背中の傷から白濁とした何かを垂らしながらゆっくりと藤巻に向けて歩を進める波流。その足取りは重い。攻撃は効いている。しかし藤巻の方が重傷だ。藤巻は拳銃や猟銃を独自のルートで仕入れている。それに伴い防弾チョッキも手に入れていた。しかし波流が全力で放ち、何にも遮られる事なく直撃した氷柱の威力は凄まじく、藤巻の肋骨はその数本を折られていた。

 何か、何か手はないか。郷二は必死に考えていた。頭を回す。周りを見やる。郷二の魔術ではダメだ。猟銃の一撃でさえ防いで見せたあの心臓の硬さは郷二の魔術では抜けない。

 絶望だ。打開などできない。策がない。郷二の目が、藤巻に向けられて、

 ……目が合った。覚悟を決めた彼の目。そして恐らく、彼女の目だ。藤巻の愛した少女が最期までしていた目でもある筈だ。

 だから……


「『眼前を昇る悉くの白』『白き汚濁の表面に刻まれた絞殺の痕』『四八一』『三』『一〇〇九』」


 その目は郷二の記憶を呼び起こす。最期まで戦い続けた少女の遺した、打開の策を。

 掲げた郷二の指先から血が迸った。空中に向けて血色の氷が昇った。それは魔術。郷二達と藤巻を結び付けた氷の文字を作るあの魔術。しかし、今浮かぶのは電話番号などではない。

 ソレは図だ。『極地』を呼び起こす『想起図』だった。


「『白澹たる空より降るあえかな花弁よ』『混じらず捩じる、根切り虫は落ちていく』『進め、我が忌児』『暗澹たる孔を穿て』」


 魔術は『極地』を呼び起こす想起と、この世の物で置換する代替、二つの工程で出来ている。今、郷二の視界にあるのは『極地』の氷によってその細部まで再現されたあの世界の一部だ。郷二は埒外の異物である氷その物を想起図としたのだ。

 その威力は絶大を超える。

 現れたのは針。郷二の血を吸って形成された血氷の針。針の先を波流へと向け、柄はまるで根でも張るかのように広がって、郷二の背後、部活棟の壁にへばり付く。郷二の目は充血に濡れて霞み、吐く息には赤が混じる。けれど、それでも目は敵へと向けられる。


「『孔だけが、あった』」


 刹那の間もなく、針は突き刺さる。胸に、心臓に。小さな針によって引き起こされたとは信じられない程の轟音を引き連れて、波流が吹き飛んだ。地面に座していた郷二から放たれたせいで波流の体は遥か後方、上空へと吹き飛ばされる。胸部の衣服や何かの破片、皮や肉、白濁した液。それらをまき散らしながら吹き飛ばされ、体育館の屋根の上までその体は吹き飛んだ。

 だが、届いていない。血氷の針による一撃は心臓に届いていない。致命傷足りえない。


「………ゥ…クソ……足りない。藤巻、さん……」


 全身の穴から血を流しながら郷二が呟く。『極地』をあそこまで再現した魔術を行使したのだ。その代償は凄まじい。名前を呼ばれた藤巻は何かを、波流の胸を穿った際にこぼれた何かの破片を拾い上げる。泣きそうで、それでいて何処か慈しむような顔。

 藤巻の手にあったのは万年筆だ。波流の日記に書かれていた藤巻にあてたクリスマスプレゼント。その破片が、漏れ出た真っ黒なインクが、藤巻の手を濡らす。


「行ってくるよ、郷二。あの子にちゃんと、さよならを言ってくるよ。……本当にありがとう」


 優しく笑う兄の顔。郷二は悟る。だが、いったい誰に彼を止める権利があるというのか。


「あなたと中上波流を、尊敬しています。どうか、どうか……」


 続く言葉は出てこない。けれど藤巻は笑って波流の許へと駆けていった。わかっているとでも言う様に。お前の言葉は届いているとでも言う様に。

 郷二も小さく笑って彼を見送った。彼との別れには笑顔が良いと思ったから。

 息を吐き、天を仰ぐ。まだ休んではいられない。やらねばならぬ事はまだあるのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 二階の廊下。月光と外の街灯の光だけが床を照らす静かな廊下。今、その廊下には楽之助と笹花二人の姿があった。笹花は姿の見えない灯美を警戒しながら一歩進み、口を開く。


「もう逃げなくていいの?覚悟はできた?私を殺す、覚悟はできた?」


 私の方はできてるけど、そう言外に伝える笹花に楽之助は顔を上げ彼女の目を正面から見た。

 その目に笹花は一瞬虚を衝かれる。悲観でも哀憐でもないまっすぐな目。


「オレはあなたが好きです。他の誰も知らなくても、全部が嘘だとしても、オレはあなたの優しさに救われたんです。その事実は……変わらない。あなたの事が……好きでした」


 心からの告白。その言葉の意味は笹花にしかわからない。わからなくていい。何故ならそれは笹花だけに向けられた言葉だから。告白に面食らった笹花だったが、告白を終えてもなお真っすぐに目を見る楽之助の姿を見て、数秒の間を置き、微笑んだ。彼の好きだったあの笑顔。


「ごめん、私好きな人が居るんだ……私がやってる事を知ったら絶対に許してくれない優しい人。だから……これは絶対に叶わない恋なんだけどね」


 はにかみ、言った。断りの言葉。けれどその言葉に嘘はない。何故だかわかる。


「俺と、一緒っすね」

「ふふっ……確かにね」


 笑い合う二人はいつもと変わらぬように話す。楽之助が大好きだった『branch』での二人そのままだった。しかし現実は違う。この場にいるのは殺す者と殺される者。

 その事実は変わらない。笑って、互いの目を見て、頷いて……

 駆けた。楽之助が全力で笹花との距離を詰める。ナイフを抜き取り疾走する。


「『貌有る者が来る』『貌無き者とせよ』」


 笹花が代替句を呟く。蛞蝓共が一斉に触覚を震わせ氷の礫を形成し迎撃の準備を整えた。


「『軽白を濯ぐ晩冬よ』『踵の許されない爪先だけの前進よ』」


 しかし、続く楽之助の代替句に笹花の目が見開かれる。弾かれるように上を、天井を見て、想起図を見た。天井に描かれた夜の暗闇に霞む呪いの紋様。そしてその想起図の前に浮かぶ自身を穿たんと浮かぶ五つの氷塊を見た。


「ユウヒィ……ッ、小癪な真似を!『私に耳は無く、白皙を誇る』……ッ」


 叫ぶ笹花の声に反応し、蛞蝓の内の二匹が礫の形成を中断。笹花の頭上に薄氷の障壁を作る。

つまり楽之助を狙う蛞蝓は二匹。それは隙だ。楽之助の眼前に迫る氷塊の数は減った。致死の数ではない。そう自分に信じ込ませ、楽之助は己が右手を振りぬいた。その右手はただナイフを握っただけの何でもない腕。しかし、命を守るには十分な盾となる。


「……があぁッ」


 無数の氷塊が突き刺さり、骨を砕く。血がはじけ飛ぶ。けれど、その代わりに生まれた僅かな隙間。氷の弾幕の隙間に体を潜り込ませ、前へと踏み込み……笹花の顔があった。身一つで氷の暴力を乗り越えた楽之助を見て、驚愕に見開かれた眼と視線が交わる。

 楽之助は笑って拳を握り締める。恋する高校生はなんだってできるのだ。

 楽之助の喉が咆哮に震える。笹花の顔面を渾身の力を籠め、殴打した。

 純粋な暴力によって笹花の頭が後方にのけぞり、それが目に入った。

 崩壊する、天井が目に入った。何故。確かに想起図は描かれた場所を破壊に導く。しかし、ただ一度の浸食が堅牢な建物の天井を破るなど不可能だ。眼振の止まぬ目を見開き、探り、視界の端のそれを見た。笹花達がいる二階の廊下、そこにある教室の室名札。『2―3』の札。

 つまりここは最初に笹花が待っていた教室、『1―3』の真下。つまり、ここは郷二が地面に想起図を描いて氷柱の魔術を行使した廊下の真下なのだ。

 上と下の両方から浸食を受けた廊下が崩れ、今、笹花と楽之助、二人の命を押しつぶさんと降り注ぐ。血走った目の笹花が目前の楽之助に目を向けると、笑っていた。落ちてくる瓦礫に気づいていながら、笹花の胸倉に掴みかかろうとその腕を伸ばす楽之助の姿を見た。


「……ッ!?『積層する深青の岩氷』ォ!」


 楽之助はここで死んでもいいと思っていた。笹花となら死んでもいいと。もし、笹花も同じように思っていたなら、相手に隙を見せまいとした二人は何もせずに瓦礫に押しつぶされていただろう。しかしそうではない。笹花は楽之助を愛していない。故に防御してしまう。魔術を使って頭上に防御を張った。それは余りにも致命的な隙だ。

 楽之助が血に濡れたズタズタの腕で笹花の胸倉を握り締め、目の前の教室の扉に叩きつけた。後頭部を強打した笹花の脳が盛大に揺れ、強打に耐えられなかったドアが教室の中に向けて倒れこんだ。足がもつれ、ドアに伴って教室になだれ込む二人。楽之助はそれでも放さない。握り締められた拳は開かれず、喉は、再度引き絞られ咆える。


「『瑞花よ』ォッ!!」


 瞬間、楽之助の腕より垂れる血が凍結した。滴る血は笹花の首元にまで垂れており、それらも同時に、強固に、凍り付く。笹花がドアに貼り付けにされたとみた瞬間、楽之助は即座に下がった。教室の外へと飛びのいた。「……あ?」揺れる頭が困惑する。しかし……


「『灰変した死肉は空へと昇る』『滴る雪は落ち窪んだ井戸へと溜まり、淀だけを飲み干した』『喉と、指先で、雨音は鳴る』」


 理解した。聞きなれた彼女の声より響く呪いの詞。教室の壁、天井、地面、全てを覆って描かれた夥しい数の想起図。彼女が、ユウヒがそこには立っていて、笹花を殺そうと立っていた。

笹花が、胸ポケットから、赤い泥満つビンを、取り出して、

「『私こそがぁッ!』『無貌』だ!!蛞蝓どもっ、私を守れェッッ!!」

 次の瞬間、世界が凍った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 静寂に支配された教室。ユウヒと、楽之助の見つめる先、そこには笹花が立っていた。全身の至る所が凍り付き、動く度に皮膚ごと剥がれ落ちている。白濁した片目は恐らく失明している。けれど、それでも、自身の足でそこに立っていた。生きて、立っていた。圧倒的なユウヒの魔術を防げた理由はただ一つ。笹花の体を取り巻く蛞蝓共のせいだ。

 魔術発動の直前、笹花の体を取り囲み氷の障壁を張ったのだ。しかしそれら化け物も無傷ではない。四匹いた内の二匹はその亡骸を晒している。しかしそれでもその内の二匹は健在だ。

 もう、手がない。計画はここまでだった。敵は健在で…、もう……手が、


「……その蛞蝓達を操っているのは『白痴』の魔術ですね」


 ユウヒが口を開く。鼻から垂れる血を拭いながら笹花に向けて問いかける。


「ササカは蛞蝓に命令する度に魔術を使っていました。恐らく使っている魔術は認識と精神を司る『白痴』。そうでもなければただの人が『極地』の化け物を操る事など叶わない……だと、するなら……魔術で、支配を上書きする事もできるんじゃないですか」


 ユウヒが後ろ手に持つ、ソレ。今朝、過鍵病院から盗み出したその魔導書。『白痴の書』。


「…『くぁ、貌有る者が……来る』『貌、無き者とせよ』」

「ユ、ユウヒっ、やめ」


 いち早くその言葉の意味を理解した笹花が悴む口で蛞蝓に命令を飛ばした。残った二匹が即座にユウヒに飛び掛かる。数舜遅れて理解した楽之助が制止の声を上げようとした。

 ユウヒは『白痴の書』を読もうとしている。蛞蝓がいる限り笹花には勝てない。故にユウヒは蛞蝓の支配を奪おうとしているのだ。今この瞬間に書を開き、『白痴』を習得しようとしている。確かに魔導書の閲覧に時間は関係ない。『極地』の世界とこの世界の時間は致命的にずれている。しかし、この一瞬の時で魔導書の中身を頭に入れるなどただの自殺行為だ。うまくいく筈がない。けれど彼女は本を開いてしまう。笹花のけしかけた蛞蝓よりも早く、楽之助の制止の声よりも早く、ユウヒは『白痴の書』を開き、目を向け、

「……ぁ」小さな声を漏らした。眼を見開いて、何かを見た。しかし、命令をされた化け物共はそんな事気にせずユウヒの体を食い破ろうとして、


「『貌無き者』」


 はじけ飛んだ。蛞蝓二匹が空中で白い粘液をまき散らしながら四散した。蛞蝓は死んだ。


「……は?」


 楽之助の声が静寂にこだまする。いや、静寂ではない。泣き声が聞こえる。彼女が、ユウヒが、泣いていた。血を垂らす訳でも、吐き気にえずく訳でもなく、静かに一人で泣いていた。

 四散した蛞蝓を呆然見つめていた笹花がうなだれ、一人小さく、呟いた。


「……あぁ…世界が、救われてしまった……」

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