第11話
全身の激痛に目を開く。遠くで音が鳴っている。甲高い音だけが聞こえ、対比的な静寂が強調されていた。何があったのかわからない。その甲高い音が耳鳴りだと気づいた時には、郷二の目は強く見開かれ、もうそんな音の事なんて頭の中から吹き飛んでいた。
……紅。
眼前を埋めるのは紅の炎。コンクリート製の建物はその一面を炭化させ、壁はプロパンガスに引火して起きた爆発のせいで粉々に吹き飛んでいた。大きく抉れた穴は地下の方まで続いている。いや、正確には地下を狙って放たれた炎の余波で地上まで被害をうけてしまったようだった。郷二が五体満足で生存しているのはそれが原因だ。
だが、そんな事を冷静に考えている暇など当の本人には微塵も残されていなかった。
その炎、建物に広がる炎ではない。目の前の大穴から覗く漆黒の寒天に浮かぶ烈火の紅の事だ。炎はそこにあるだけにもかかわらず尋常ではない存在感と畏怖の念をまき散らす。
ただただ紅い筈の炎が郷二には深く沈んだ穴のように見えた。赤熱する太陽のように輝く沈んだ暗闇。見た目には紅いはずの炎に、郷二は黒を見た。
炎は数回の明滅を見せた後、急激な収縮によってビー玉ほどの大きさに凝縮した。その瞬間、炎は弾けるように上空へと消え去った。その場から跡形もなく消えた。
郷二のことなど眼中になく、災害に巻き込まれた一市民のように、郷二は赤い炎に包まれた黒焦げの建物内に取り残された。地面に倒れたまま、炎がいた場所を呆然と見つめる郷二の横で、金属製の扉が大きな音をたてて倒れた。ハッとして目を向けると、爆発の衝撃で歪んだ扉が蝶番を引きちぎるように倒れている。その奥に見えるのは散乱した日用品。ひび割れた壁、漂う黒煙。引火した家具から舞う火の粉の群れ。
日常だったものの残骸だった。
「…ユ……ユキ、さん……ハオさんッ……」
二人の名前を呼ぼうとするが、舞い上がる煙に喉を焼かれ声が思うように出ない。痛む足で地面を踏み二人を探す。だが、所詮ここは小さなビルの小さな一室。一目見ただけでそれは目に入った。吹き飛ばされたコンクリートが積み重なった瓦礫の山。その下に見えた男の足が。
「ハオさん!」
炎と煙を無視して駆けよる。そこにあったのは不安定に揺れ今にも崩れ落ちんばかりのコンクリートの瓦礫とその瓦礫を背中に食い込ませながら必死に耐えているハオ。そしてハオの下に倒れ伏す意識を失ったユキの姿だった。息を呑むも瓦礫の隙間から覗くハオの目が郷二の方に向けられた事に気づき、唇を噛んで自分のやるべき事をやろうと手を握る。
「ハオさん、瓦礫をどけます。タイミングを合わせて下さい……今です!」
瓦礫が不安定な状態であった事が功を奏し瓦礫は動いた。いくら壁に大穴が開いているとはいえ、勢いを増し始めた炎によって室内は黒煙に満たされだしていた。
瓦礫をどける、たったそれだけの事で郷二の呼吸は乱れ、息が苦しくなる。
「ハオ…さん、早く外……え?」
……血。血が地面に垂れている。決して少なくない、鮮血。気絶したユキの肩口に刺さる鉄の棒。瓦礫から伸びる鉄筋を真っ赤な血が伝って落ちる。鉄筋はあまりにも生々しく、鈍く、炎によって照らされていた。ユキのすぐそばには二つのマグカップが転がり、片方のピンク色のカップは粉々に砕け散っている。こぼれたコーヒーが血と混じり地面のひびへと吸い込まれている。液体は何処へと向かうのか。
その時、気絶していたユキが小さく咳込んだ。意識は取り戻しておらず、反射のようなものだったのだろうが、確かに息をしている。
出来ることを、自分にできることを。現実逃避しかけていた自分に発破をかける。呆然としたままのハオの肩を掴み、気をしっかり持てと大きな声で呼びかける。
「ハオさんッ、このままじゃユキさんを移動させられない。出血を覚悟で鉄筋を抜きます。大丈夫です。女性の方が出血には耐性があって、まだこの出血量なら」
「子供ガ」
ハオが、口を開いた。泣きそうな顔で、そう言うのだ。
「お腹ニ……」
言っている意味が分からなかった。数秒後、口を間抜けに開けたままその意味を理解して頭の中が真っ白になった。ユキのお腹の中に、子供がいる。壁際の炎が肌を焼くほどに迫ったこの状況で郷二の頭はなにも答えを出せていなかった。
何をすればいいのか。胎児は母親の出血にどの程度影響を受けるのか。鉄筋を抜いても大丈夫なのか……郷二は、なにも知らなかった。
郷二は無力で、そして、無知だった。
無知だった郷二は『魔導書』なんかに手を出した。
無知だった郷二は蛞蝓を開いて赤の泥を零し、紅の炎を呼んだ。
そう、この惨状は無知な郷二が原因で起きたことだ。
燃ゆる炎が、死にゆく彼らが、全てが郷二に起因する。気づいてしまった。自分の存在の無意味さに。いや、無意味どころではない。郷二の固執する『知識』がみんなを、不幸にしかしていないと、気付いてしまった。郷二の心から色々なモノが零れそうになる。取り返しのつかないモノが。
だが……いや、だからこそ彼女は現れるのだ。郷二の心は現れる。
「キョージ!」
ユウヒは現れる。ユウヒが見たのは、倒れたユキと伏したハオ。そして大粒の涙に顔を濡らした郷二の姿。その光景を一目見ただけで彼女は全てを理解した。郷二が何を思い、何に涙を流しているのかを。息を切らしていたユウヒは一度、大きく深呼吸をする。息を整える。その間も彼女は郷二の目から視線を外さない。優しく歩き始めたユウヒ。ゆっくりと、燃え盛る火なんてそこにはないとでもいうようにゆっくりと郷二の目の前に立った。なんでもないこと。そう優しく伝えるユウヒの歩きに郷二はただ茫然と彼女を見つめていた。ユウヒの両手が郷二の頬に添えられる。優しい小さな手が、暖かな手が。
「キョージ……わたしの大好きなキョージ。どうか、ユキとハオを、わたしの大切な二人を助けて下さい……どうすればいいか教えてください」
その言葉に、郷二は子供が駄々をこねるように首を振る。泣き言を漏らす。
「僕は、知らない。無知な僕は、結局なにも……」
「…キョージ」
頬を挟むユウヒの手に力が入り郷二の顔を強く支える。
「キョージはちゃんと前に進めています。歩けています。泣き虫なわたしをここまで連れてきてくれたのはキョージなんですよ。大丈夫、大丈夫です」
笑って、彼女は言う。郷二の大好きな彼女の笑顔。
「だから、今大事なのは何をしたいかです。キョージ。あなたは今、何をしたいんですか?」
彼女は言った。郷二はちゃんと歩けていると、進めていると。無知ではないと。
その言葉が、郷二に知る事以外の喜びを教えてくれた彼女の言葉が、どれほど彼に勇気を与えるのか、彼女は知らない。けれど一度強く瞑られゆっくりと開かれた郷二の目。その優しく力強いユウヒの大好きな目を見て、彼女はいつもの郷二がそこにいる事を知った。
「…助けたいです。……こんな僕に優しくしてくれた二人と、二人の望む全てを助けたいです」
郷二は言った。自分の願いを。それを聞いたユウヒが優しく笑って問う。
「教えてください、キョージ。どうすればいいですか?」
沈黙、思考。口を開く。
「……魔術を使う」
準備を。そう伝え、壁際に落ちていた、炎で熱せられて赤熱した鉄筋を拾う。そして大きく息を吸い込み、張り裂けんばかりに叫んだ。
「楽ッ!雀荘から消火器!退路をォ確保しろッッ!」
郷二は知っている。消防法を知る彼は、向かいの雀荘に消火器の設置義務があることを知っている。道路の方から頼もしい相棒の返事が聞こえた。
端の赤熱した鉄筋をハンカチでくるんで持った郷二が、その棒をユキの肩に刺さった鉄筋に押し付ける。あまりの熱に鉄筋を伝う血が蒸発し、嫌な臭いを上げるが気にせずに顔を上げる。隣に佇むハオの顔を見る。
「ハオさん。目をつぶって、耳をふさいでもらえませんか」
「……なにヲ」
呆然としたままだったハオがその言葉にハッとした後、訝しむように口を開くが、
「どうか、あなた達を助けさせてください。あなた達……三人を……」
そう言って頭を深々と下げる郷二に、閉口し唇を強く噛む。自分が何もできないと気づいた顔。郷二がさっきまで感じていたクソみたいな気持ちにハオもなっているのだ。だけど郷二は頭を下げる事しかできない。なぜならハオを笑顔にできるのはユキだけだからだ。
そのユキを、郷二は助けたいのだから。数秒の沈黙の後、頼ム。そう聞こえた。
ハオは何も聞かず、目を瞑って耳をふさいだ。最大の感謝を郷二は抱く。
「ユウヒ、近くに」
ユウヒが隣に座り、郷二の目を見つめる。
「急激な温度変化は、あらゆる物体にダメージを与える」「冷熱衝撃だ」「ユキさんに刺さった鉄筋を限界まで熱した後、魔術を使って局所的に、瞬間的に冷やす」「魔術で人を救うんだ……今までの暴力的なものとは違う、ユキさんの体に気を使った繊細な作業だ」「……できるか?」
燃える室内の温度は急激に上昇している。そこにいる郷二とユウヒの額にも汗が浮かび、彼らに時間が残されていないことをひしひしと告げていた。それでも、ユウヒは笑って言う。
「あなたとなら」
頼もしい言葉。郷二も同じように思っていた。彼女となら、どこまでも行ける。
「……合わせて。ユウヒ…」
熱せられた鉄筋に手をかざす。その熱は火傷に痛む郷二の腕を痛めつける。そして、そこに加わった暖かさ。これだけの熱の中でも確かに感じる優しいぬくもり。ユウヒの手がかざされる。触れてはいない。けれどそこにあって、暖かい。
ユウヒが強くうなずいて……
「「『灰雪の轍が円を描く……」」
呪いの言葉は紡がれる。優しい呪いの言葉が、煙に交じって部屋を満たす。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
手探りでスイッチを探す。壁を這う指先には鈍い痛み。この痛みが悴みからくるものなのか、火傷のせいなのか、郷二にはもう判断がつかなかった。
電灯がともる。暗かった室内に明かりが差し、すすの被ったぼろぼろの二人が浮かび上がる。二人。郷二とユウヒだ。光に照らされた彼らの顔は疲れと寒さによって酷い有様だったが、二人の顔に悲壮感は微塵もない。
何故なら、救うことができたから。ユキとハオを、そしてお腹の子供を救ったからだ。付き添いで救急車に乗車した楽之助から先ほど連絡がきた。まだ意識は取り戻していないが、出血量はギリギリの所で抑えられ、血圧の低下も胎児への影響が許容範囲内で収まっていたそうだ。
ユキ達を救うことができた。細心の注意をもって行使された魔術は身重のユキに害をなすことなく鉄筋を冷却し急激な温度変化に耐えられなかったそれをへし折った。
郷二達の完全な勝利だった。しかし、その勝利はあの時あの場所だけを見た一時的なもの。根本の部分では彼らは追い詰められている。
何故なら今回の火事のせいで奴らにこちらの拠点の位置が、ひいては郷二達の素性がばれた可能性が高いからだ。ここ数か月の不審火全てに奴らが関与している。そんな中で発生した奴らと無関係の火事。碑結どもが見過ごすわけがない。
見過ごす。その言葉は適切ではないと郷二は考えていた。奴らはこの事態を予想していたのではないか。藤巻が襲われた日に手に入れた蛞蝓の死体、一匹だけで車に乗り込んできたあの行動が既に罠だったのだ。蛞蝓を解剖させ赤の泥を露出させることによって火の玉に郷二達を殺させる罠。火の玉が郷二達を殺す事に失敗したとしても、解剖をした場所、つまりは敵対者の拠点を把握することができる。無駄のない計画だ。
奴らは数日のうちに楽之助を、芋づる式に郷二と灯美を特定することだろう。
だから郷二とユウヒはここにいる。郷二の家に、やって来ていた。
直近の問題としてユウヒの家がないのだ。楽之助はユキ達の付き添いとして病院にいる。火事当日、それも碑結家の息のかかっていない病院内での襲撃はないだろうが、一応の警戒として今日の夜だけは泊まり込むことにするそうだ。そもそも家がないのは楽之助も同じだが。灯美と藤巻には郷二がいち早く連絡し拠点に近づくなと伝えてある。二人とも合流はできない。
そんな理由で、郷二とユウヒは火事の後処理をすべて楽之助に任せこうして互いの疲れ切った顔を見ているという訳だ。そのまま火事の現場にいても郷二の素性が碑結家にバレる可能性が高まるだけでユウヒに至っては身分証もなにもない。厄介な事態になるのは目に見えていた。
郷二は電灯に照らされたユウヒを見て、彼女の手が微かに震えている事に気づく。
真冬の夜道をここまで歩いて帰って来たのだ。郷二でさえ両手は悴んでいる、幼く小さいユウヒはひとしおだろう。風呂にでも入れてやらなければ風邪を引きかねない。
疲労と睡魔に目をこすりながら郷二はそんなことを考えていた。
「……疲れた…だろうけど、お風呂に入ってあったまった方がいい……」
ユウヒの背中を押し、浴室へと連れていく。何故か脱衣場の明かりがついていたが気にせずドアを開け放つ。そこにいたのは下着姿の妹、双生。脱ぎかけのズボンに手をかけたまま固まり、ゆっくりと郷二とユウヒを交互に見やって、
「…………は?」
と、首を傾げた。
「……丁、度良かった。この子に…この子を、風呂に入れてやってくれ……たのんだ……」
郷二、この時、脳の稼働率十パーセント。
そのまま困惑に満たされた顔の双生にユウヒを押し付け、自身はさっさとリビングに戻ってしまった。残されたのは、顔を青くしたまま目を泳がせるユウヒと、そんな彼女を見て酷く嫌そうな顔で溜息をついた双生だけだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
左肩のぬくもりに目を覚ます。
郷二はいつの間にか眠りに落ちてしまっていたようだ。時刻を確認しようと身じろぎをした時、肩の暖かさに重みがある事に気づく。同時に感じるほのかな甘い匂い。何故かそのぬくもりがユウヒであるとすぐに気付いた。
「……何も言わなくていいから……君に、ただ聞いて欲しいだけなんだけど……」
自然と口が開く。何も考えず、ただ言いたい事を口に出す。無言のままであるにもかかわらず、肩のぬくもりが郷二の言葉に耳を傾けている事が、何故か分かった。
「僕が小さい頃、僕の両親はうまくいっていなかった。今考えればただの性格の不一致みたいな、よくある理由だったと思う。だけど当時の僕には不仲な両親ってものがよくわかんなくて、二人の険悪な雰囲気が怖くて堪らなかったんだ。だからいつも、耳をふさいで、ケンカが終わるのを黙って待ってた。怖くて堪らなかったから。じっと耐えてさえいたら、また昔みたいな家族に戻れると思ってたから……だけど二人は離婚した。玄関を出て行った母さんの背中に、結局何も言えないまま……どうしてって、一言も言えないまま……そして、その日から僕はこうなった。全てを知らないとまた失ってしまいそうで……怖かった。僕のせいで、僕達家族はこうなってしまったんだって、悔やみ続けて……そして、あの日、君と出会ったんだ。今はもう何処にいるのかも分からない母さんに囚われ続けていた僕に、君はそれ以外の価値を与えてくれた……僕は、今の自分が好きだ。過去じゃなくて、君と寄り添って歩ける今の自分が好きだ。今は、それしか言えません……もう少し、歩いた先で、続きを言います……」
返事はなかった。隣の彼女は何も言わない。けれど、彼女は無言のままに手を握る。冷たく悴んだ郷二の手を黙って握る。郷二にとってはそれだけで充分だった。
手を包むぬくもりを感じながら、甘やかな眠りへと、落ちていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
話声で目を覚ます。最近こんな事ばかりだなと薄っすら思いながら眠ぼけ眼を開いた。
「フタウ。お味噌汁は沸騰させてはいけませんよ」
「し、知らねぇーそんな事。義務教育の範囲外でしょ、それ」
声の主はユウヒと妹のフタウ。料理本を片手にエプロンを付けた二人がいた。
「あっ、おはようございます。そろそろ朝ごはんできますんで、先にお風呂の方をどうぞ」
「……え…あ、うん」
回らぬ頭でなんとか返事を返し、言われた通り風呂場に向かった。
頭からシャワーをかぶり、徐々に昨日の事を思い出していく。ユウヒに対して言った事を思い出し、つい赤面してしまう。素面で思い出すには何とも恥ずかしいセリフだった。だが彼女に言った言葉に嘘はない。郷二は少し乱暴に頭を拭きながら羞恥心を振り払った。
新しい服に袖を通してリビングに向かう。しかし、そこにあったのは予想に反した光景。無言で食卓に着くユウヒと双生、そして皺ひとつないスーツを着込んだ父親がそこにいた。
立ちすくむ郷二に気づいたユウヒが席を進める。断ることもできず、郷二は無言のまま食卓を囲む。恐らく十数年ぶりに家族がそろった瞬間だった。
卵焼きと味噌汁、白米の質素な朝ご飯。彼らの間に会話はない。黙々と箸を動かしていた。
「本棚にあったお料理の本を見ながら作ったんで大丈夫だとは思うんですけど……あっ、おかわりもありますから。お味噌汁、もう一杯いかがですか?」
沈黙の食卓を何とかしようとユウヒが口を開き、父に向けてそう尋ねる。
「…………いただこう」
郷二と双生の目が驚愕に見開かれる。そんな事を言う父など、予想だにしていなかったのだ。
父の言葉を聞きユウヒの顔にパッと花が咲く。嬉しそうにお椀を受け取って、味噌汁をよそった。お椀を受け取った父は、一口それを啜った後、そうか、と小さく呟くのだった。
その後の朝餉は普通の家族のようだった。主に口を開くのはユウヒと双生でたまに郷二が、数度だけ父が加わった。だが、それだけで郷二にとっては信じられないような光景だったのだ。食後のコーヒーを飲みながら、郷二はただユウヒを見つめていた。
やはり彼女なのだ。郷二にとって、ユウヒは前進の象徴だった。
その時、着信音が鳴る。携帯に映されていたのは藤巻からメッセージ。どうやら彼は今の今まで碑結について調べていたようだった。なんとも申し訳ない気分になりながらメッセージの内容に目を通していく。一晩で調べた膨大な量のデータ群。
「……え?」
目を見開く。彼が見ていたのは市内に居を構えている碑結家の親族名簿。かなりあくどい経路で手に入れたらしいその名簿には、郷二のよく知る名前が含まれていた。彼の目が伏される。今全てに合点がいった。口の中に広がる苦い物を感じながら彼は覚悟を決める。
全てに決着を付けよう。
冷たい胃袋に落ちていった者達へ弔いを。白蛆の神話へ終止符を。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
寒冷の空気を伴って二人が店内へと入っていく。『branch』に冷たい外気が流れ込んだ。
ドアベルの音が響き、二人、張り詰めた顔の郷二と青い顔をした楽之助の来店を知らせる。
店内には郷二達の他に客が数人、常連の老人達がいた。ユウヒの事をいつも可愛がってくれている人達だ。そしてもう一人、お店の電話を耳に押し当て、虚空を見つめる店主。笹花がいた。その目はいったい何を見ているのか。
「そっか……気付かなかったなー。今連絡を受けたよ。でも、病院から物を盗むとかよくないよ?というか、過鍵病院にも『書物』があるってどうしてわかったの?」
「……行方不明者全員が図書館で魔導書を開いたにしては、彼女らの家が散らばりすぎていた。もう一冊位はあるんじゃないかと睨んではいたんだ。碑結が干渉しやすく、魔導書を開いた者をすぐに捕捉できる場所……過鍵病院の精神科、その待合室が最も適している。その様子を見るに灯美たちは魔導書の奪取に成功したみたいですね。笹花さん……碑結笹花さん」
「ふふ……そんな勿体ぶった言い方しないでよ。ふふふっ、そう、私こそが碑結。真の碑結家当主であり、八代目『冷たき司祭』碑結笹花。ふふ…可笑しいなぁ。そこで、座って話そうか」
テーブルを指しながら笑う彼女の笑顔はいつもと変わらぬ、笑顔だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
笹花の淹れたコーヒーが湯気を立てている。震える楽之助がゆっくりとそのコーヒーに手を伸ばすも、郷二の、「飲むな」という一言に泣きそうな顔をしてゆっくりと手を下ろした。
「で、どうして私が犯人だってわかったの?私が碑結だからって理由だけじゃないでしょ?」
「灯美が誘拐された時、僕らは連絡を受けてから十五分足らずであの場所に到着した。だけど到着した時には既に犯人の車はありませんでした。灯美は洞窟の二層目に居たにも関わらずです。そこまで灯美を担いで行って、車で離れたのなら犯人の乗った車と僕らのバイクはどこかですれ違っていても不思議じゃありません。ここら辺は街の外れで夜の往来も少ないですから。けれどあの時、僕らは怪しい車なんて見ていない。ずっと違和感は感じてはいた……だけど、それは犯人がすぐ近くに居を構えているのなら、可能な事だ」
「なーるほどねぇ。やっぱ灯美ちゃんの存在が大きいか。んー、一度でいいからお店に来てくれてたらなぁ……楽之助ー、なんで連れてこなかったのさ。いじめは良くないよ?」
楽之助は顔を上げない。上げられない。
「郷二も嫌ーな奴だよねぇ。こんな時間にお店に来たのは私が人目のある場所では『神術』を使わないと考えたからでしょ?彼らを人質に使ってるようなものじゃん」
ジト目で郷二を睨みながら、後ろの老人たちを示す笹花の言葉を無視し、郷二は口を開く。
「あなたは……あの蛞蝓達は、何者なんですか……」
笹花の視線はまたも宙に向けられる。しかし数秒の間を置いて、クスっと笑った後、まぁ郷二は知りたいだろうね、と意味深に言った。
訝しむ郷二を無視し笹花は語りだす。
「今から三百年前、私の祖先はこの花柱山で彼の神に出会った。その時、幼き彼女と御神の間である契約が行われた。その契約とは、生贄を貢ぐ責務を背負う代わりに碑結を郷家たらしめる力を授けるというもの。憎き紅の炎と相打ちになって幾十年。神は弱っておられた。尊火どもが蔓延るこの地において、蛞蝓だけでの活動には限界があったんだ」
忌々し気に呟く。
「碑結を郷家たらしめる力とは四冊の書物の事だ。図書館に配置していた、冷気を司る『白冷の書』と君らが今朝病院から盗んだ、認識と精神を司る『白痴の書』はその時享け賜わった内の二冊だよ。そして、かつて交わされた契約は現在でも履行され続けている。碑結には『極地』に親和性を持つ子供が生まれる。まるで一族全ての才能をただ一人に集めたかのような絶大な才能。その一人が『冷たき司祭』として彼の神に使う名誉を受けるんだ」
饒舌に語る彼女の目には恍惚とした熱が浮かぶ。郷二達の見たことのない笹花の顔。
見ている郷二の背筋にうすら寒いものを感じさせる顔だった。
「……何故、僕らに固執する」
憎々し気に呟かれた郷二の言葉に、キョトンとした顔を浮かべる笹花。
「なーに言ってんの。こっちの事を探ってるのは君らでしょ?確かに君達は栄養価が高そうではあるけど、費用対効果が悪すぎだよ。蛞蝓を二匹も殺してくれちゃってさー、あれも無限にいる訳じゃないんだよ。だから私らは専守防衛。君らを襲ったりしないよ。大丈夫。君らは傍観に徹して自分の人生を楽しんでるだけでいいからさ。ね?いいでしょ?」
隣で聞いていた楽之助の口から息が漏れる。恐らくそれは安堵の息。彼女と敵対しないでいいのだという安堵。少し綻んだ顔を上げ、「じゃ、じゃあ」と呟く楽之助に、
「嘘だ」
制して言う。笹花の、碑結の顔を睨んで言い放つ。
「これまでの三百年間におよぶ隠匿を主幹とした方針を変えて、大量の行方不明者を生むような大胆な行動に至った経緯はなんだ?」「奴は、お前の言う神はあとどれほどで目を覚ますんだ」
パッと伏された笹花の肩が揺れる。くつくつと笑う声が響く。いやらしく笑う声。
「四年だよ」
郷二と、楽之助の顔が引きつる。
「あと四年で主は目を覚まし、今の世界は主を頂点とした新世界へと生まれ変わる」「N県警は碑結家の傀儡。私が一度命令を出せば意のままに動かせる」「いいと思うよ、私は。こんな事に首を突っ込まないでさ、四年間を友達と遊ぶの。みんなで旅行に行ったり、親孝行したりさ。人としての幸せを噛みしめるには充分すぎる時間だよ、四年ってさ」
狂気だ。笑いながら語る彼女の顔にあったのは狂気だけ。
「そして大人しく化け物の腹におさまれと?」
「我らの母だよ。帰巣の中心であり畏怖の頂点。その胸に抱かれる喜びを知った方がいい」
「人は隣にあるぬくもりこそを愛と呼ぶんだ。あんな冷たい糞尿以下の蛆虫じゃなくてな」
「人を語るとは大きく出たね。あの御方こそが、今おられ、かつておられ、やがて来られる主なる神なんだよ」
「異常者がッ!一人で勝手に狂ってろッ」
笑いを堪えるように下を向く笹花。本当に、本当に愉快そうに笑って彼女は言う。
「……郷二さぁ、人とか、愛とか言って母なるあの御方を否定したけどさ。本当にそんなものを知ってるの?」「本当の母を知らない、君が?」「ふふっ……ふ…、碑結家には代々『神術』に適性のある子供が生まれる。それは初代『冷たき司祭』の血が脈々と流れているから。つまりさ、遺伝するんだこの素質は。じゃあ……ふふ…じゃあさぁ?君はどうなんだろうね?君の素質は誰から来たんだろうね?ハハっ!もしかしたら、お母さんの方から来たんじゃない?」
顔を押さえる指の間から見えるは狂気の笑顔。その瞳。
「だってさぁ、美味しそうに食べてたもん。ふふ、絶品って感じ。羨ましいなぁ。主の身許へゆく事を許された母を尊びなよ」
連絡が途絶えて久しい母と、笹花のその言葉は、つまり…つまり………
「神授の法の元、どうか安らかな眠りを彼らに」
笹花の左手にはいつの間にか粗雑な造りの装飾品が付けられていた。郷二は即座に気づく。その装飾品が蛞蝓の皮で造られたものであり、表面に細かく描かれた模様やその装飾品自体が『想起図』である事に。そしてその手には小さなビン、『極地』を濃縮した赤い泥の入るビンが。
「『見よ。眼下を、眼上を翔る寸白の光を』」
その言葉と共に手に握られていた赤いビンが捩じ切れ弾け飛ぶ。埒外の異物が流れ込む。
笹花は決めたのだ。後ろの彼らを巻き込む事を、この場で郷二達を殺す決意を。激情に呑まれていた郷二は一瞬対処に遅れるも、ベルトに付けていたナイフを一息に抜き取り笹花の首にねじ込むように叩きつけた。しかしその刃は首の寸前で薄い白氷に受け止められる。
「『この嗣業の先は、何人も至れぬ義の最果てなれば』『汝の赦しは不動のみ。語るな、知るな、ただ止まれ』」
「『灰っ…雪の轍が円を描く』、『連なる跪拝の白。それは崇めるように、畏れるように』っ」
郷二の代替句が後を追いかける。
「『嫋やかなる光とともに、究極の羊水に抱かれろ』」
「『その先は、標の先は、瑞花のみ』ッ!!」
郷二の目の前に氷の盾ができる。机と地面に根を張り、強靭な盾へと変化した氷。
笹花の掲げた三指の先に『白虹』の球体ができ、その球から目にも留まらぬ速さで飛び出した光線が不規則な動きで店内の壁を、地面を天井を、郷二の起こした魔術の氷壁を、その全てを等しく舐め回した。光が触れた部分は不透明な白い氷に姿を変える。
「『白虹』を防ぐか。すばらしい、主の供物に相応しい熟成具合だ」
道路に面した大きなガラスが、作り出した氷壁が、『白虹』の跡のみを残してひび割れる。
ひび割れた氷を通して幾重にも重なった笹花が狂気の瞳でこちらを覗く。店内にいた人々は一人残らず『白虹』の餌食となり、全員がその体を白き氷へと変化させ死亡していた。
自分の目論見が浅かった。まさか客と店を犠牲にして、こんな暴挙に出るとは……
その時、窓の外に影。店のガラスを突き破り、笹花めがけて車が突っ込んだ。とっさに氷の盾を展開するも壁際まで吹き飛ばされる。
ひしゃげた車の運転席に居たのは藤巻。妹の仇を目前にし、憤怒に顔を歪める藤巻だった。郷二は携帯を通話状態にしたままにしていた。郷二達のピンチを感じ取り救助に来てくれたのだ。郷二は即座に傍らの楽之助を引っ掴み車内のユウヒ達に向けて放り投げる。撤退だ。
「今日の夜……十二時に、駆保高校の『1―3』の教室にユウヒを連れて来い……朝までに君達が来なかったら、登校してくる生徒を端から殺していくから。……決着を付けよう、ユウヒ。畜生腹から生まれた私達と君は、殺し合うしかないんだ。獣のように、殺し合おう」
笹花と車内のユウヒの目が合う。その顔に浮かぶのは形容し難き自嘲の様な笑み。ユウヒは痛ましく顔を歪める。ユウヒにとっても笹花はかけがえのない友だったのだ。
「藤巻さんっ、出して!」
藤巻が車を急発進させる。ひしゃげたバンパーの一部をその場に残しながら郷二達全員の乗る車は死地を脱する事に成功した。車内には郷二と楽之助の喘鳴だけが響いている。
「クソ!あの『白虹』、三つ目の魔導書か。規格外すぎる。人の扱える『極地』じゃねえだろッ」
郷二の脳内に浮かぶのは常軌を逸した『白虹』の魔術と、人の限界を超えた魔術を可能にしている赤き泥の入ったビン。恐らく、何かしらのドーピングだ。
「キョージ……わたし」
「ダメだ!絶対に行かせない。奴がどんな人間か、お前も分かっただろッ!?他の生徒のことなんか知ったことかッ!」
車の後方、『branch』の方を見つめていたユウヒが口を開き、被せる様に郷二が吠える。笹花の残した最後の言葉、学校へ来いという言葉。ユウヒは、行こうとしている。
「キョージ……わたしは、誰なんですか……?」
ビクッと郷二の肩が揺れる。ユウヒのその言葉の意味を郷二は理解していた。
誘拐犯である笹花がユウヒの顔を知らなかったという矛盾。そして、『畜生腹から生まれた私達と君』という笹花の言葉。ユウヒはいったい、ナニなのか。
「キョージ……わたしは、知りたいです。わたしが何者なのか……知りたいんです。貴方が隣に居たいと言ってくれたわたしを、ちゃんと知らなきゃダメなんです」
郷二は歯噛みする。行かせたくなかった。彼女の正体なんて郷二にとっては些末な事だ。彼女が彼女でいてくれるのなら、それでよかった。しかしそれは郷二の勝手な思いだ。
「大丈夫ですよ。わたし達なら、きっとなんだってできますよ。キョージ」
渋い顔の郷二。彼だって同じように思っている。だが、郷二の胸の中には苦々しい、どろどろとした嫌な予感が広がっているのだ。その先に進んではいけない。そう、強く思うのだ。
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