第10話
展望台での出来事から二日後。十二月二十二日、月曜日。
あんな地獄のような夜があったとしても日常は続いていく。相も変わらず学校に行き、放課後になったら『branch』へ。
無糖のココアを頼む。コーヒーの次はココアばかり頼むようになった郷二にユウヒは少し不服そうではあったが、渋々注文を受け取った。郷二の前には楽之助が座り、以前郷二が読んでいた郷土史の本を開いていた。その顔はどこか沈んでいる。
「やっぱよぉ、捜査を全部藤巻さんに押し付けてる現状はあんま良くねぇと思うんだ」
「『暴露』はあの人の領分だろ?まぁ、どうにかしてその本の作者、加賀美教授の研究資料を覗ければ話は変わってくるかもしれないが……」
高校の図書室に置かれているような資料では情報の解像度が数段落ちるのだ。一次資料である研究のオリジナルを見ることはできないものか。
「稲森大学自体はすぐ近くにあるってのが余計もどかしいぜ」
持っていた本をカバンにしまい、溜息をついて天を仰ぐ。
「……あれ、そういや……」
楽之助が、店内に充満していたコーヒーの香りに何かを思い出して顔を上げる。
「笹花さーんっ」
キッチンの方に向け大きな声を出すと、右手にお玉を持ったままの笹花が顔を覗かせる。
「なぁーに?おなか減ったの?」
楽之助は緩みそうになる口元をなんとか抑え、質問をする。
「…いや、笹花さんって大学どこでしたっけ?」
「私?稲大……稲森大学だよ。懐かしいね、それがどうかした?」
なんたる偶然。降ってわいた幸運。今回ばかりは手放しで楽之助をほめてもいい。
郷二がパッと顔を上げ笹花に尋ねる。
「OGなら大学図書館の入館証を発行してもらったりできませんか?」
「郷二の分って事?私が一緒に行くのなら何の問題もないはずだけど……関係のない子をってなるとなぁ」
うーん、腕を組んで悩む笹花。こんな幸運二度とはないだろう。郷二の目にも力が入る。真剣に頼む郷二の方をチラと見て、笹花がにっこりと笑った。
「ところでさー、新作のかぼちゃスープ作ってたんだけどさぁ」
「ください。僕に一杯、楽には二杯」
言わんとする事にすぐ気づく。
「最近、街のパン屋さんから商品を卸してもらっててさぁ。ふわっふわで美味しいやつ」
「一つずつ下さい。あと持ち帰りもできるならありったけください」
「毎度ありぃ。あっ、でもこの後、コーヒー豆の仕入れの予定があったんだった。今日にでも訪問できるように手配してあげたいんだけど、重労働でそんな暇なくなっちゃうかなぁ」
「楽之助を置いていきます。こき使ってください」
「やった!労働力ゲットだ」
相談の一つもなしに進められた自分の労働力の売買に楽之助が唖然としている。
その時、店前の掃き掃除を終えたユウヒが寒さに手をこすりながら店内に入ってきた。
「店長、お掃除終わりました。今日はあんまりお客さん来ませんね」
「あー、月曜日はみんな病院行っちゃうんだよ。客層上仕方ないんだ……」
悟ったような顔で呟く笹花に、店の奥から「わしらは元気じゃからな!」と茶々を入れてくる老人達。律義なことにユウヒが手を振る。可愛く手を振るユウヒに盛り上がる若者のような老人達。そんな彼らに、なんだかんだ言ってユウヒも懐いてしまっていた。
「ユウヒちゃんも、大学の図書館興味ある?」
おもむろにそんなことを言う笹花。
「と、図書館っ……ですか?行ってみたくは、あるんですけど……ダイガク?」
「じゃあ一緒に行ってきなよ。お客さんも少ないし、残りは楽之助が手伝ってくれるしね」
そんな事を言いながら楽之助の肩をポンと叩く笹花。楽之助はわかりやすく硬直してしまっている。一人分の許可証を頼むのも本来なら困難なはずなのだ。笹花には感謝しかない。頭を下げ、ユウヒと二人で謝礼の言葉を伝える。
「大丈夫大丈夫。昔の知人が稲大で働いててね。大変なのは私じゃなくてその人だから」
何が大丈夫なのかは分からないが、状況が状況だ。ここは甘えさせてもらおう。固まったままの楽之助を放置し席を立つ郷二とエプロンを脱ぐユウヒ。
「じゃあな、楽。頑張れよ」
「ラクノスケ、すみません。お願いします」
ドアベルを鳴らしながら別れを告げる二人。郷二の言葉には他意がふんだんに含まれていた。その様子を見たテーブル席の老人達も、ニヤニヤと笑いながら楽之助にガッツポーズを残し帰路についた。
残されたのはよくわかっていない顔をした笹花と、顔を赤くした楽之助。二人だけ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
エレベーターが上階に向けて昇り始める。
「お、おぉ……ぅ」
小さく唸り声を上げるユウヒを横目に見ていた郷二は、その可愛らしい反応につい頬が緩みそうになる。そこにいるのは郷二とユウヒ、それと背の低い華奢な男が一人。
「お望みの事がありましたらなんでも言ってください。できる限りのことはしますんで」
そう言って額に伝う汗をハンカチで拭う。
木村と名乗ったこの男は郷二達が稲森大学に到着した時からずっとこの調子だ。笹花の昔の知人ということだったがいったいどんな関係だったのやら。上昇を続けていたエレベーターが五階で止まった。目の前に広がるは、凄まじい蔵書数を誇る稲森大学付属図書館。
眼前の、知識の山と言って差し支えない光景に普段は理性的なユウヒが今にも走り出さんばかりに興奮している。チラチラと郷二の方を伺い、無言の声で、早く早くとせかしている。今度ばかりは軽く笑ってしまった。
「静かに、お行儀よく。図書館でのルールだ。それが守れるなら、好きに見てていいよ」
静かに。その言葉をどうとらえたのかはわからないが、口を堅く閉じたユウヒが無言のままに大きく首を縦に振り、目を輝かせて本棚の方へと歩いて行った。
「今日はどういったご用向きで?」
「加賀美教授の研究資料を拝見させていただきたくて、お邪魔させてもらったんです」
「加賀美教授の。納得です。彼はうちの大学でも一二を争うほど優秀な方でしたからね」
珍しくはしゃいだユウヒ。この所続く息の詰まるような体験も忘れて心を和ませていた郷二に、冷や水を浴びせられたような衝撃が走る。
今、この男は何と言った?
「優秀な方、でした……?」
木村の顔が軽く驚いたように固まる。
「ご存じなかったんですか?加賀美教授は六年前に火事でお亡くなりになっているんです」
崩れる音が聞こえる。どれだけ郷二達が先へ進もうと、そこには既に奴らの匂いがある。
本当に郷二達は奴らを、あの神を倒すことができるのだろうか。
音が聞こえる、足元の崩れていく音が。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
郷二は加賀美教授のプロフィール情報と彼が遺した研究資料を閲覧していた。
当時五十六才だった彼はこの稲森大学にて文化人類学を専攻する准教授だった。生前執筆した論文は計二十三。その内の一つ、比較的新しい論文に目が留まる。
そのタイトルは『N県東部平野周辺における火炎崇拝の痕跡に関する考察』
堅苦しい文を読み砕き、灯美達と情報共有する為にも頭の中で要約していく。
N県東部平野、つまり落白市周辺においては既存の宗教に加えられる形で火炎を尊きものと捉える傾向があった。以後この崇拝される対象の炎を、尊(そん)火(か)と呼称する。
この尊火はあらゆる場面で、人民を守護するものとされる傾向があった。
尊火。その名前を頭の中で反復し、同時に疑問が湧き上がる。学生服と手袋に隠されているが郷二の右腕には物々しい包帯が巻かれている。火の玉によって焼かれた傷だ。
証拠隠滅のために街を焼き、連続不審火を引き起こしているあの炎。中上夫婦を焼き殺したあの炎が、尊火としてあがめられている。
その内容は納得し難い、違和感を感じるもの。
加賀美の論文は続く。
この尊火の調査をしている最中、気付いたことがある。この地域では子供の喪失についての文献が多くあるということだ。
一六四〇年から六十年間に渡って発生した神隠しと言われる計九十人に上る児童失踪事件の被害者名簿。一六八八年、天狗の仕業だとされる新生児誘拐事件の捜索願。一七〇〇年代に子捨てに使われた、間引き山の代名詞となった花柱山の存在。一八二七年に発生した大水害で行方不明となった寺子屋の生徒、計十六名の慰霊碑。
他にも複数の実例が紹介されていた。やはり、奴らは遥か昔からこの街にいる。何百年も続く失踪の歴史は、彼の神の捕食の歴史でもあるのだ。
論文を読む。
調査の最中、改修作業中の寺にて火炎崇拝に関する書物が見つかったという報告があがった。
郷二が画面をスクロールし、PDF化された書物を確認する。郷二の目が見開かれ、端末を操作していた手が引きつる。フラッシュバックするあの異形に、一瞬頭の中が雪原に覆われかけたが、かぶりを振って自分を落ち着かせ、再度画面を確認した。
そこにあったのは蛞蝓と尊火、その絵だ。
だが、おかしい。絶対におかしい。郷二の頭が混乱に満たされる。
蛞蝓の絵。地面に横たわる無手の異形。十匹ほどが寄り集まり人間に群がっている白い化け物。邪知なる絵だった。
尊火の絵。天から舞い降りる幾つもの炎。それらの発する紅の炎はあまりにも禍々しい。
だが、郷二の疑問はその絵の存在ではない。郷二が食い入るように見つめていたのはその二つの群れがそこにあったためではなく、その群れが明らかに攻撃し合っていたからだ。
尊火は幾筋もの熱波熱線を発し、蛞蝓は氷の礫や冷気のようなものを飛ばしている。
火の玉と蛞蝓が『敵対』している?
二日前、蛞蝓に追い詰められた藤巻の許に現れ、焼き殺そうとしたのは火の玉だ。白蛆の神の生贄を用意するため、放火による隠蔽を行っているのは火の玉の筈だ。氷の洞窟の奥深くでユウヒを捕らえていたのは紅の檻だった。
致命的な思考の掛け違いを感じる。少しでも情報が欲しくて来たはずの図書館で、根本から全てをひっくり返された。すぐさま携帯を取り出し、灯美にメッセージを送る。
『至急、連続不審火の捜査資料が閲覧したい』
確認したかった。現状郷二が探ることのできる火の玉の痕跡は、放火の捜査資料だけなのだ。火の玉について郷二がなにか重大な誤解をしているのなら、これまでの色々なものの解釈が変わってくる。何より、ユウヒの囚われていたあの檻は何だったのだ。
氷と火が敵対しているのなら、ユウヒとはいったい何者なのか。
いや、そもそも……何故郷二はこんなにもユウヒのことをを信じているのだろう?
思考が、沈もうとして……
「……キョージ?」
ハッとして振り返ると、ユウヒがいた。呆然とする郷二の顔をきょとんとした顔で見つめるユウヒ。両手に本を持ち、重そうにしながらも何処か楽しそうな彼女の表情。大切な人だ。
「……図書館、楽しかった?」
「とっても!」
満面の笑みを浮かべる彼女を見て、郷二は思考を止める。
いいんだ。何故とか、理由とかは。
彼女の笑顔があれば郷二は前に進める。それだけでいい。それだけでよかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
日は落ち、いつものごとく楽之助宅。部屋の中では郷二、ユウヒ、楽之助が各々の椅子に腰かけている。郷二は図書館から帰宅してからというもの一時間は思索にふけっていた。
その間、ユウヒと楽之助は郷二が大学にて印刷してきた加賀美教授の研究資料を交互に読み合い、その内容について議論していた。ちなみに例のごとく別行動をしている灯美は、藤巻と一緒にいるらしい。不審火の捜査資料はまだ送られてきていない。何度か確認のメッセージを送ったのだが、警察の内通者にバレないよう細心の注意を払って行動しているのであまり催促してくれるなと灯美に小言を言われてしまった。
壁掛け時計が八時前を示した時、郷二の目がゆっくりと開かれる。
「……碑結家が、失踪事件の仕立て人だ」
唐突な言葉に、議論を進めていた二人の動きが止まる。
「……キョージ?」
困惑気味のユウヒ。
「わかったのか?犯人が、碑結家……なのか?」
「あぁ。状況証拠しかないが、恐らく人間側の裏切者は碑結家だ」
険しい顔の郷二が続ける。
「加賀美教授の資料に子供の失踪事件の詳細な年代が記されているだろ……ここだ」
机の上に資料を並べ、記述のある箇所を指し示す。
一六三〇年から六十年間、四十人の児童失踪。一六八八年、新生児誘拐事件。一七〇〇年以降、子捨ての山として有名になった花柱山。一八二七年、洪水で行方不明となった寺子屋の生徒十六名。他、多数の記述が年代別に並べられている。
「気付くことは?」
考えようとして険しい顔をした楽之助をおいて、ユウヒがすぐさま気づく。
「一七〇〇年あたりで、失踪の種類が変わっています。人が不自然にいなくなるそれまでの失踪と変わって、理由がはっきりとわかるようになってます……言い換えれば、捜索がされないような事件ばかりです」
郷二がうなずく。高校図書館の蔵書程度ではわからなかった数十に上る各事件の詳細な時期。一七〇〇年、その年を境にして失踪に人為的な隠蔽を感じるのだ。
「一七〇〇年……つまり約三百年前。この時期はあることが起きた年でもある」
「三百年前……確か、碑結家が急激に勢力を広げ始めたのもそのあたりだったな」
藤巻の捜査内容を思い出しながら楽之助が呟く。
「そう、失踪に人の手が加わりだしたのがこの時期だと考えるべきだ」
「なるほど……いや、だけどよ流石に薄すぎねぇか?証拠がよ」
懐疑的な顔の楽之助に首を振って返す。
「証拠はこれだけじゃない。楽、タブレットを貸してくれ。中上波流の日記が見たい」
楽之助からタブレットを受けとって日記を開き、該当の箇所を二人に見せる。
『私はお父さんの運転する車に乗ってた。後部座席に寝かされてて、隣にはお母さんがとても心配そうな顔で覗き込んでいた』『連絡を受けた時は心臓が止まるかと思った、どこも悪い所がなくて良かった、そう言って笑うお父さんとそれでも心配そうなお母さん』『お母さんがすごく心配して、今日くらいは学校を休めと言ったから』
「娘が血反吐を吐いて倒れたと聞いているのに、えらく落ち着いている父親に不自然さを抱いた時、そもそもの間違いに気づいたんだ……そもそも人が倒れてるのを見つけて親に連絡なんかしないなって」
話についていけず、首をかしげる二人。
「いや……普通に救急車呼ぶだろ。まず初めに」
「あっ」
間抜けな声を上げる楽之助の隣で、ユウヒが、キュウキュウシャ?と更に首を傾ける。
「そう。波流が図書館で倒れているのを見つけた司書か、他の利用者は救急車を呼んだ筈だ。今時の携帯は本人以外開けられないし、波流の持ち物に自宅や親の連絡先を書いたものが入っていた可能性も低い。彼女が一度病院に行っているというのは他の記述からも読み取れるんだ。何処も悪い所がなくて良かったと安堵する父親、波流の心配をしているにも関わらず一度として病院へ行こうと言わない母親。当たり前だ。もう病院に行って検査をしてもらってるんだ。恐らく、気を失っている間に」「この落白市で救急車を最も受け入れているのは、過鍵総合病院。碑結家の手が回っている病院だ」「充分だろ」「充分だ。状況証拠しかないが、それでも確かな証拠だろ」「人を裏切り、邪な神に仕える堕ちた者達。その正体は、落白の豪族、碑結家だ」
その言葉と同時に立ち上がり、部屋の端へ歩いていく郷二。
「楽、藤巻さんに今の推察を伝えといてくれるか」
「それは……構わねぇけどよ。お前は何すんだよ」
困惑気味に問う楽之助の方を一瞥し、視線をソコへ向ける。リビングの端、床下収納。取っ手に手をかけ力の限り持ち上げる。這いあがる冬の冷気に身震いが一つ。
「敵はわかった。なら、今度は僕らが攻める番だ。敵を知って、知って知って知って、あらんかぎりの力で叩き潰す。それが僕らのやり方だ」
郷二の目線の先には、ゴミ袋によって何重にも包まれたナニカ。
「未知は終わりだ」
郷二が、獰猛に牙を剥いて笑う。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
狭い浴室に立つ郷二。小さく震える手にはナイフが一つ。白く滴る何かを垂らして、それでも鈍く光る鋭利な刃物。浴室はむせかえるような腐臭で満たされていた。
後ろの廊下ではユウヒと楽之助が郷二の足元に目を向けている。足元の異形の死体に。蛞蝓の死体にだ。灯美が猟銃で吹き飛ばし今の今まで床下に収められていたその一匹。
郷二はその蛞蝓の剖検を行っていた。白い皮は剥かれ、中に詰まっていた汚泥のような白いゲル状の何かが溢れている。
そして、その中心には化け物の体内で唯一の臓器。袋状の何か。
「藤巻さんが殺した蛞蝓は、血のように赤い何かをまき散らして死んだ。僕はその赤い何かが気になっている」「『極地』に関するものはその須らくが白だった」「これだけが異質だ」「いや……楽、お前が見た白蛆の神も赤い何かを両目から流していたんだったよな」
「あぁ。だらだらと流れる赤黒い液体を確かに見たぜ。目から絶えず流れるその液体のせいで奴の足元には赤い沼ができていた」
郷二はその言葉を確認した後、足元の異形に視線を戻す。唯一の臓器、白く燻んだ皮袋。
息を整え剖検を再開する。厚手のゴム手袋をしているにもかかわらず、その感触は最悪を極めていた。こみ上げる吐き気を抑え郷二はなんとか作業を続ける。
あと少しで内容物が顔を出す。その時にふと気づいた。
「……なんだか、この臓器の質感……魔導書の革表紙に似てるな」
郷二の呟きに、ユウヒがパッと顔を上げ、返す。
「あっ、実はわたしも同じこと考えてまし」
袋の中に、赤い粘液が覗く。郷二の視界に、狭い浴室に、冷たく重い帳が落ちる。
濃密な『極地』の臭い。世界を歪める永久の冷気。
「……ッ!」
間近で見ていた郷二の頭がはじけるような痛みに襲われた。悶絶に言葉が出ないほどの異物。この赤こそが『極地』最奥の何か。体の全てが裏返るような嫌悪感と共に、そんな確信が郷二の脳内を駆け巡る。手の中にあるソレを、悴み震える手で何とか元に戻す。幸いにも中身はこぼれていない。それでも郷二の目にこびりついた暗澹たる赤が、目をどれだけ強く瞑っても離れない。そこにあったという事実が世界にこびりついてしまっていた。
「キョージ!」
肩を掴む手と心配そうに叫ぶ声に、郷二はハッと我に返る。振り返ると、青い顔をしたユウヒが首を振って立っている。その隣では吐き気に口を押えた楽之助。
「キョージ、止めましょう。ソレは駄目です。見たり、触ったりしたら駄目なものです」
ユウヒが郷二の手を優しく取り、浴室の外に引き寄せる。後はわたしが片付けますから、そう言って『極地』にあてられた郷二と楽之助をリビングの方へと追いやった。
吐き気にえずく楽之助が口を開く。
「……展望台で、どうして藤巻さんが心を折りかけたのかよくわかるぜ。あれは、純粋な『極地』なんてちゃちなもんじゃねぇ……凝縮された、溜め込まれた『極地』だ」
目元を押さえて頭痛を少しでも和らげようとしていた郷二が返す。
「溜め込まれた、確かにその言葉が合っているように感じる。ずっと疑問だったんだ。奴らがどうして『極地』ではないこの世界で動けるのか。あれが燃料のような役割をしているんだ」
その時、電子音が鳴る。郷二の携帯から。
「灯美からか?……流石に救難要請じゃねぇよな。無理だぞ、こちとらへとへとなんだよ」
「頼んでいた不審火の資料を送ってくれたみたいだ。それと僕らの推察を聞いて藤巻さんも碑結家が限りない黒だと判断したみたいだ。夜なべして碑結家を調べてくれるって」
添付されていたファイルを開く。表示されるのは出火原因のわかっていない火事のデータだ。三年前まで遡って集められた計二十一件分のそれら。速読。内容に眉をひそめる。
「確かにここ最近の火事は急増しているんだが……ガソリンが使われている」
「あ?」
「二十一件の内、十九件でガソリンを使った痕跡が検出されているみたいだ」
「おかしいだろ、それ。火事は火の玉のせいじゃなかったのか?……あぁ、いや火の玉が蛞蝓どもの仲間じゃねぇってわかったんだからむしろそれが正解なのか?クソっ、警察の内通者を警戒して今まで捜査資料に手を出さなかったのが裏目に出たな……ちなみにガソリンが出てない二件はいつの火事なんだ?」
「まず、一昨日の展望台でのやつだ。森も燃えてたからな……細かい所まで調べられたみたいだが、ガソリンはでてない。もう一件はかなり遡る。三年前の十一月二十九日だ。午前二時の通報……これは、中上家の火事だ」
「藤巻さんの実家の火事だけガソリンが使われていない。火の玉が原因だってことか?待て、待て待て。その事件は蛞蝓どもによるものだってのは中上波流の日記の記述で確定してただろ?どうしてその時にガソリンが使われていない?……わかんねぇよ、どういうことだ?」
そう、訳が分からない。恐らく他の十九件は予想していた通り誘拐犯である碑結が証拠隠滅のために放火を行っている。それは間違いないはずだ。だが、何故かこの一件だけは火の玉が関与している。民家を一つ燃やすこと、それが火の玉にとってどういう意味があったのか……
その時、大きなゴミ袋を重そうに引きずるユウヒが浴室から現れた。すかさず立ち上がり、手伝うよと言って手を差し出す。既に足の震えは治まっていた。
「キョージ……大丈夫ですか?その、袋越しとは言え……」
赤い泥に猛烈な拒絶反応を示していた郷二のことを心配して、蛞蝓の入ったゴミ袋を背後に隠しながらそう問いかけるユウヒ。
「大丈夫だよ、赤い泥も白い皮袋に入ってる状態なら全然平気なんだ。そこにある事さえわからない……あぁ、もしかしたらそれが白く燻んだ皮の性質なのかもしれない」
疑問顔のユウヒから袋を受け取りながら続ける。
「魔導書の革表紙と、赤い泥を覆い隠す蛞蝓の臓器。そっくりな二つの皮の共通点が、隠すことなんじゃないかってふと気づいたんだ。魔導書は『極地』そのものと言っていいほどの濃密なものを内包しているにもかかわらず、触って中を覗くまでは普通の本と区別がつかない。さっき取り出した臓器についてもそうだ。中には『極地』を濃縮したような泥が入っていたにもかかわらず、僕らはその存在に気づくことができなかった。だから、白く燻んだ皮は隠蔽のような効、果…を……」
なにか、見落としている。郷二の背中に冷たい汗が流れた。
蛞蝓、『極地』の赤い泥、隠蔽に長けた白く燻んだ皮、火の玉による火事、展望台での出来事、対立する氷と炎。その中でも特に、火の玉への猛烈な違和感を郷二は感じていた。
郷二達は展望台で火の玉と邂逅している。たった一度の遭遇で郷二達は全滅する直前まで追い詰められた。現に、もしあの時郷二が氷の魔術で炎を減弱させていなかったら車のタイヤは溶けてはじけ飛び、車内の人間は全員焼け死んでいただろう。化け物に追い詰められていた藤巻のいた場所に、とどめを刺すためもう一匹の化け物が現れた。取り立てておかしな所はない……筈だった。今日の夕方、氷と炎の対立を知るまでは。
そう、そのことを知った今、あの場所に火の玉が現れること自体がおかしいのだとわかる。碑結家に手引きされている蛞蝓が藤巻を襲うのはいい。だが、どうやって火の玉はあの場所を嗅ぎつけたのか。何故藤巻を襲ったのか。
おかしい所はまだある。火の玉が燃やしたと思われる中上家、どうして奴はそこにも表れたのか。蛞蝓どもは神への生贄を欲している。だが火の玉は?どんな理由があってその場所に現れたのか……共通点が、あるはずだ。
考えろと自分を叱咤する。前を向く決意をした藤巻と、最期まで諦めなかった波流。二人の思いを無駄にしてはならない。
……最期まで、諦めなかったその言葉に引っ掛かりを覚えた。中上波流の最期はどんなものだったのだろう。中上波流は日記を読んだだけで分かるほどに優しい少女。せめて両親だけは救おうと家から離れようと考えたはずだ。そして……きっと、彼女は魔術を使った。ひ弱な中学生が化け物の群れから逃げるなんて生半可なことではなかったはずだ。
持ちうる限りの魔術を出して、奴らに対抗した筈だ。なら、恐らく、蛞蝓の一匹でも倒したのではないだろうか?蛞蝓との邂逅を果たしている郷二は蛞蝓単体の脅威がそこまで高くない事を知っている。
彼女は蛞蝓を殺している。それだけの実力は彼女の日記や研究資料から読み取れた。
三年前の中上家においても蛞蝓は殺された。それが二つの火事の共通点。思い返してみれば『極地』の化け物どもは常に隠れていた。触らなければ異変に気づけない魔導書、洞窟の奥まで進まなければ『極地』を感じられない奴らの巣、隠蔽の皮に覆われた蛞蝓。
『極地』の化け物は常に隠れていたのだ。あの火の玉から。巧妙に自身を隠していた『極地』共。しかし、たった二回だけ火の玉は敵対者の気配を感じる場面があった。それが、
「赤い泥だ」
藤巻と波流が破壊した蛞蝓、その中身は濃縮した『極地』のジュース。そんなものが隠蔽の皮を突き破って外に漏れ出た。敵対者の香りに釣られてやってきた火の玉。これが火の玉による火事の真相だ。
火の玉は中上家を燃やそうとしたのではない。藤巻を殺そうとしたのではない。その場にこびりついた蛞蝓どもの赤い泥を滅却しようとしていたのだ。
「赤い泥が火の玉をおびき寄せ……あっ」
郷二の顔が恐怖に歪む。気付いたからだ。手の中のそれに、掴んだ袋の重さに。郷二の手には蛞蝓の死体が入った袋が握られている。
腹を裂き、元に戻したとはいえ既に赤い泥を覗かせた蛞蝓の死体がそこにはあった。
「クソがっ!!今すぐ外に出ろ!ここに火の玉が来るッ!」
郷二は叫ぶと同時に目の前のユウヒを担ぎ上げた。本人は突然のことに訳も分からず、目を白黒させている。
「楽はッ、魔導書とタブレットだけ持って外に!」
何故、などという言葉は楽之助の口からはでない。思考は郷二の担当だ。未踏を進む楽之助は彼の頭脳を信じている。郷二が命令を出してから十秒後、既に三人は建物の外に飛び出していた。暗い夜道を白色の街灯が照らす。周りを見回しても、あの紅の炎は見えない。まだ現れていない。自身のコートとカバンを小脇に抱えた楽之助が口を開く。
「で?どういう結論になったんだ。聞かせろよ」
「その前にこの場所からなるべく離れるッ。説明はその後に……」
周囲を見回していた郷二が肩のユウヒの位置をなおしながら続けようとして、光る窓に気づいた。室内の電灯が漏れる窓。郷二達が今しがた出てきたばかりの建物の二階の窓だ。
郷二の顔が青く染まる。
月曜日を定休日に指定する飲食店は多い。『好浩軒』も例にもれず月曜日の今日は定休日として店を開けていなかった。だが、ハオ夫妻はお店の真上、二階に居を構えている。二階の窓が光っていたのだ、二人は、そこにいる。炎の襲来する建物の二階にいる。
その事実に気づいた瞬間、郷二は楽之助に向けてユウヒを放り投げていた。同時にもう片方の手に持っていた蛞蝓の入った袋も道路の端へ投げ捨てる。
「楽!ユウヒを連れて遠くに逃げろッ!」
その叫びだけを残して郷二は再び建物の中へと飛び込んでいった。後ろでユウヒが何かを叫んでいたが今は一刻を争う火急の事態だ。とにかく上を目指す。今の郷二の頭の中にあるのは、一刻も早くハオ夫妻を外の安全な場所に連れ出すこと。
早く、少しでも早く。郷二は焦る。踊り場に設置された明り取りの窓は外の暗闇だけを照らしている。階段に躓きながら、なんとかハオ夫妻の部屋の前までたどり着く。大きな声で二人を呼ぼうとして、
「ハオさんっ、ユキさん!すぐにこ」
紅の閃光。コンクリートの窓枠を超えて、全てが紅に塗りつぶされて……
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