第9話

 覚束ない足取りの藤巻に肩を貸す。カバンを背負った灯美が後部座席のドアを開け、二人の乗車を手伝った。周りを警戒する楽之助が焦りを滲ませながら口を開く。


「郷二、マジでなんかおかしいぜ。もうここについてから五分とかだってのに、奴らが一匹もいねぇ。オレの勘がマジでやべぇって叫……ん、で」


 最初に気づいたのは楽之助。

 それはまるで朝焼けだった。展望台とは反対側、深い闇に沈む森の方角がまるで朝の日の出のように紅色に輝いたのだ。輝き、その光量は急速に大きくなっていく。今の時刻は十時。太陽などでは断じてない。いち早く正気に戻ったのは郷二。


「楽!車だせッ!」


 虚を突かれていた楽之助に命令を飛ばす。ハッとした楽之助がアクセルを全開にし、乗っていた全員が座席に体を強く叩きつけられるが車は道路に向けて急発進した。

 郷二の目は光に釘付けにされ、あらんかぎりの好奇心が郷二の中にはあった。そして同時に気づいていた。その紅色がユウヒを捕らえていた炎と同じ色であるという事に。

 光は大きくなる、光量はますます大きくなっていって、気付いた。その紅色の光は大きくなっているのではない。近づいているのだ。

 その瞬間、森が爆ぜた。炎が駆ける。その炎を発したものの正体を郷二だけが見ていた。

 森を焦がす炎の中に、それはいた。莫大な熱を孕んだ広大な炎の中心に何かが見える。いや、見えるという表現は正しくない。そこにある何かを感じたのだ。炎の中にある炎、赤の中にある紅に郷二が気付くことができたのはそれが人智を超えたものだから。常世のものではないとわかったから。車の中にいる郷二達にさえ、ガラス越しに凄まじい熱を伝えるその炎は、無形の化け物。狐火、天狗火、霊魂の火。火の玉と言われる正体がそこにいた。


「ふっ、たりは直視するな!」


 あれもまた異物。『極地』より来る者ではないが確かな埒外。この世のものでは決してない。

 莫大なエネルギーを内包した火の玉が芝生の上まで飛来する。火の玉を中心として放射状に発散させられる紅炎はぬかるむ地面を即座に沸かし水分の蒸発した芝が一斉に発火した。

 森から現れ一直線に進んでいた火の玉が展望台に迫って行きその途中で止まった。

 車を追いかけている訳ではない?それにあの場所は確か、あの赤いナニカのあった……

 郷二が訝しんだその時、炎の色が沈む。そう表現するしかない現象。紅の炎がその色を闇へと近づけた。光量が落ちた訳ではない。ただ深度を下げたのだ。常世より離れ、より深い埒外となって、暴力的な炎へと切り替わった。

 炎より発せられる圧倒的な熱が、距離を離し始めていた車の表面を焼く。熱は暴力性を上げていき車内はまるでサウナのよう。人間の耐えられる温度の限界に近付きつつあった。


「郷二ッ、タイヤを守れ!溶けちまったら何もできねぇぞッ!!」

「……わかってるッ」


 覚悟を決めて窓ガラスを下げ半身を出す。掲げられた腕が炎に炙られる感触に骨の髄から震えあがる。その上、郷二は肉体的苦痛以上のものを感じていた。初めて『魔導書』を読んだ時と同じ、埒外が頭に入ってくる苦痛。異物が流れ込む事に対する絶対的な拒絶反応。鼻血が垂れるも、炎の熱により即座に水分が飛び、顔にこびり付く。

 郷二が耐えなければ、郷二を焼いている炎は確実に車内の全員を焼き殺す。

 耐えろ!湧きだす涙を堪え、吐かれそうになる吐瀉物や泣き言を飲み込み郷二は耐えた。

 そして、呪いの言葉は紡がれる。


「……『円の外には、円…があり』ッ『積層する雪色の灰は祈りの残穢』……ッ!」


 掲げられた手は白く変色している。蛋白が変性し、白い火傷を示している。


「『混じ…ッり気の無い畏怖と無垢の信仰は手を取ィ、ト、り合い常に貴方に寄り添っていた』」


 けれど郷二の魔術は咲いた。氷の花は車の後方、炎から車を守るように咲き誇る。


「『集うは此処に鉛白よ』……『来たりてェ…去らず、凝…華の花よ』」


 歪んだ氷と紅の炎がぶつかり目を焼く光をまき散らす。


「『瑞花が、ここに』」


 異物な炎と紛いの氷の衝突だ。どうなるかなんて誰にも分らない。しかし結果として両者は互いの熱と体積を大幅に削りあった。炎の熱が脅威とはならない程に減衰した。

 その瞬間、楽之助がアクセルを再度踏み込む。ここしかないと判断しタイヤに負荷がかかるのも気にせず車体を前へと前進させた。車は火の玉から離れていく。炎の熱は既に届かず、火の玉自身も郷二達を追いかけようとせずその場に留まっていた。

 代替句を唱え終わると同時に郷二の体は脱力した。炎によって肉を焼かれる苦痛と精神を汚染する紅の光、氷の魔術により郷二の心は酷く損害を受けている。車外に崩れ落ちそうになった郷二を寸での所で藤巻が引っ張り戻した。


「……ぁ、りがとう、ござ……ます」

「喋るな。自分の心配だけしてろ」


 展望台の駐車場を抜け、山道の悪路を進む。ミラー越しに楽之助が声をかける。


「藤巻さん。体調が回復してきてんなら、そろそろ何があったのかを聞かせてもら」


 ゴトン、と音が鳴った。

 音は頭上、車の上から。全員が一斉に上を見上げる。

 その瞬間に見えたのは、霜。先程とは対極的に車内の温度が急激に下がった。天井の内側に霜が降り始め、その裏に何かが、冷たい何かがいる事だけがわかった。

 藤巻と灯美の口から声にならない悲鳴が上がる。蛞蝓が、そこにいる。


「車を、振れ…っ!」

「道が狭すぎる!」


 軋む頭を押さえて叫んだ郷二に、楽之助が叫び返す。ハンドルを握る楽之助は現状に対処できない。その時点で、郷二しかいない。『極地』の異物に対処できるのは郷二だけだ。

 頭と腕は酷く痛む。心臓が脈打つごとに血流にのって痛みが全身に運ばれるようだった。

 しかしやるしかないのだ。だって約束したから。彼女に、絶対に帰ると。


「……ッ!!」


 唇を噛み切り、覚悟を決める。天井を睨め上げ、霜の中心に傷だらけの腕を掲げる。


「……『白澹たる」


 郷二のすぐそばで爆音がなった。

 あまりに大きなその音に郷二は代替句を遮ぎられ、音の方へと視線を向ける。そこにいたのは天井に猟銃を突き付ける灯美。青白い顔で天井を睨みつけ、震える二本の腕で猟銃を持つ灯美がいた。天井に広がっていた霜はその銃撃で拡大を止める。


「……私は、足手纏いになるためにここにいる訳じゃ、ないよ」


 引き金にかかる指は震えている。けれど彼女の目に恐怖はなかった。前を向く力強い目だ。


「……お……まえは、本当、に……」


 頼もしい奴だ。その目を見て安心した郷二は急速に睡魔に襲われる。体と心の両方が安息を求めていた。抗いがたい眠りへと落ちていく郷二に不安はなかった。

 周りには、頼れる仲間がいると知っているから。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 目が開く。良く知る天井が見える。楽之助の寝室だ。

 薄すらと開けられた郷二の目、その前に突然ユウヒが顔を付きだした。触れんばかりの距離にある彼女の顔は、心配や怒りや安堵、そういった感情でごちゃ混ぜになっていた。


「起きましたか?」

「……起きました」

「どこか痛い所は?」

「……右手が、少々」


 郷二の言葉にムッと顔をしかめて更に顔を近づける。


「当たり前ですっ。右手の火傷ほんとに酷かったんですからね。トーミの応急処置がなかったら今頃病院です。それでも痕には、なっちゃいそうなんですけど……」


 声が小さくなっていく。怒っていた顔にも影が差していき、心配そうに沈んでいった。


「……あの時は、あぁするしかなかったんだ。だけど結果としてみんな帰ってこれたんだから……だから、泣かないで」


 そう言って、無事な方の手でユウヒの目元を優しく拭った。うん、と小さな声で返すユウヒを郷二は薄く笑って見つめていた。郷二は、彼女のための自分でいたいと思っていた。展望台での藤巻との会話を経て、その気持ちは確かなものになっていた。

 その時、寝室のドアが開かれ、楽之助が顔をのぞかせる。


「存外早く起きたな。いちゃついてる所悪いんだが、情報共有とこれからの予定組みをしたい。動けるか?無理そうなら全員こっちに呼んでくるが……」

「いや、右手以外はおおむね回復してる。そっちに行くからちょっと待っててくれ」


 彼女を守るため、やるべき事はまだあるのだ。こんな所で寝ている事なんてできやしない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「……オレらが集めた情報はこんくらいです。すんませんけど、役に立つ情報は殆ど……」

「いや、君らは俺にできない『極地』の対処ができるんだ。それだけでとても助けになっている。現に君らがいなかったら俺はあの展望台で焼け死んでただろう。本当に助かった」


 リビングの丸机を囲んで郷二達五人は情報共有を行っていた。普段ユウヒが座っている椅子には藤巻が座り、ユウヒ自身は一人だけ立ち、郷二の右に備えていた。本人の希望だ。


「これで私達の情報は全部だね。次は藤巻さん、あなたが調べた内容を教えてもらえますか?」


 灯美が問う。初対面のはずの二人だが、どうやら郷二が寝ている間に挨拶の類は済ませてしまったようだ。そんなことを考えていた郷二が一つ気になることを思い出す。


「あっ、少しいいですか?灯美が仕留めた蛞蝓、その死体は何処に?」

「ゴミ袋に五重に包んで床下に保管してある。この時期の床下はいつも冷え切ってるからな。腐んないだろ。死体の状況だけど、灯美の撃った弾丸は綺麗に頭をはじき飛ばしてた。藤巻さんの言ってた唯一の臓器である袋は傷ついてないと思うぜ」

「了解。右手が使えるようになったら剖検してみるよ。それじゃあ、藤巻さん。この一週間の調査結果を聞かせてもらえますか?」


 彼は『暴露』に長けた人間だ。何かしらの成果を期待してしまう。


「あぁ。手掛かりが殆どないから、取り敢えず警察に圧力をかけることのできる団体や組織をリストアップする方向で調査をしてみた。この一週間昔のコネを使ってかなり強引にやったんだが、その甲斐あって三つまで絞ることができた」

「マジっすか。何の手掛かりもなかったこれまでと比べたら雲泥の差じゃないですか」


 楽之助が驚きに声を上げる。郷二も内心同じように驚愕していた。まさかそこまでの成果を上げるているとは思ってもみなかった。


「そう言えば見栄えはいいが、情報を得るためになりふり構わなかった結果が、あの襲撃だ。奴らのことを嗅ぎまわっている事が何処かから洩れたんだろうな……だけど、あの襲撃で確信を持った。やっぱりこの三つの組織の中に敵はいる」


 神妙な顔つきで頷く藤巻。


「一つ目の候補は『一陰グループ』だ」

「ちょっと、待ってくれ」


 話の腰を折るように楽之助がストップをかける。片手で覆われた顔を伺うことはできないが、郷二と灯美には楽之助がどんな顔をしているか想像できてしまった。


「なんだ、この組織はかなり怪しんだぞ」

「……聞く。聞くよ、取り敢えず。続きを……頼む」


 煮え切らない返事に疑問顔の藤巻だが、情報共有を優先するべきだと判断して説明を続ける。


「一陰グループは今年六十八になる一陰会長が一代で作り上げた大企業、イチカゲ総流通業株式会社とその子会社の総称だ。本社があるのは東京だがN県内には多数の子会社が存在しているし、なにより会長の出身がこの落白市だ。俺が怪しいと睨んだのはこの子会社だ。調べてみると県内の公共機関の全てがこの一陰グループと取引を行っていた。全ての公共機関が、だぞ。一陰グループが圧力をかけているのなら、警察の捜査怠慢にも説明がつく」


 どうだ?目線で問いかける藤巻に、少しの沈黙の後、楽之助が答える。


「一陰会長はバリバリの現役で、末端に至るまで管理しねぇと気が済まねぇ、そんなジジイだ。一代で会社をデカくしたプライドがある。あんな化け物どもと手を組むなんて考えらんねぇよ」


 不機嫌そうにそう言った。


「……なんだ、楽之助。お前もしかして一陰氏と知り合いなのか?」


 腕を組み、不機嫌そうな楽之助は答えたくなさそうだ。話が進みそうにない。


「一陰楽之助なんです。そいつの名前」


 代わりに郷二が答える。その答えに藤巻が目を見張る。


「一陰氏の孫だったのか、お前。こんな場所に一人で住んでるって言うし、何か事情があるんだろうと思ってたが、まさか……隠し子とかなにかか?」


 藤巻の悪い所が出ている。隠された何かがあるのではないかと興奮している。


「息子ですよ。それとこいつがこんな所にいるのは、こいつが反抗期だからです」


 渋い顔の楽之助が、フンと鼻を鳴らし補足する。


「オレには八人の兄貴がいるが、そいつらは全員あのクソジジイの下で働いてんだぜ?……ハッ!ありえねぇ。そんな人生何が楽しいってんだか」

「私は一人っ子だからそんなにいっぱいお兄ちゃんがいるの楽しそうで羨ましいけどね」


 灯美が場の空気を読まず、そんな軽口を叩く。


「あいつらにとって兄弟ってのは敵なんだよ。将来あの会社を継ぐにあたってのな。あの家族については嫌って程クソな部分を見てきてんだ。まぁ……だからこそ、あの男は自分が頂点に立つことしか考えてねぇって知っている。オレらの敵はあの蛆虫の神を崇拝してんだぜ?ありえねぇ。あいつがそんなことを許す訳がねぇ。よって候補からは除外だ」


 天井を仰ぎ、そう捲し立てた楽之助は、つぎつぎと言わんばかりに手を動かしている。


「ぁあー…了解だ。取り敢えず他の候補を出すぞ。二つ目の候補は『碑結ひゆ家』だ」


 手元のタブレットを見ながらその項目を読み上げる。


「こいつらはいわゆる豪家って奴だ。三百年ほど前からこの落白市を中心としてN県全体に影響力を持っている。エリートの排出率が尋常じゃなくてな。至る所に碑結と名の付くお偉いさんがいるんだ。県議会議員の碑結剣崎が一番有名だが、他にもN地方裁判所長官や落白市立過鍵総合病院の院長、そしてなによりもN県警本部長碑結之貫。奴さんのトップに碑結はいる。捜査も全部思い通り、かは知らんが、それでも影響力はあるだろう」

「三つめは『Forest建業アライアンス』。こいつらは大手建設会社や不動産屋に対抗する形で作られた複数の中小企業からなる同盟組織だ。発足の経緯は大手への対抗にかられやむを得ずというものだったんだが、現在ではライバル会社の殆どを排斥するほどに力をつけていている。アライアンスに睨まれては仕事ができないと言われるほどにな。県営や市営の建物の多くはこいつらが建てたり貸し出してる物件だな。行き過ぎた癒着だとしてそこそこ問題にはなってる」


 だが、そう区切り、続ける。


「最近、こいつらと反社会的勢力との繋がりが指摘されているんだ。それに伴っていよいよN県警が同盟との癒着を解消し、捜査に乗り出すんじゃないかとも言われてる。もしそれが本当ならこの先数年、警察は大忙しになるだろうな」


 一気に話上げた藤巻が息をつく。いつの間にか人数分のお茶を用意していたユウヒが、どうぞと言いながら藤巻にお茶を渡す。会釈をして受け取り一服し、再度口を開く。


「容疑者は以上の三組織。まぁ、一陰は候補から外してもいいのかもしれねえがな」


 藤巻がまとめに入り、郷二が引き継ぐ。


「僕達の目標は連続失踪事件及びその証拠隠滅の為だと思われる連続不審火の解決。だがこれらの事件はあの邪の神の存在が軋轢となって表面化しているに過ぎない。つまり僕らの最終目標は神殺しだ」

「そして、その為の直近の目標は人間側にいる裏切者の発見と排除。人としての魂をうっ払い、姦悪に成り下がった逆徒に然るべき報いを」


 神妙な顔の楽之助が続く。

 その後の話し合いでは細々としたことが決められた。藤巻が落白市で予約したホテルはアライアンスの関与していない大手のものだ。そこまでは襲撃されないと判断した藤巻が、明日の朝にはそちらに移ると言った。藤巻と郷二達の繋がりを悟られない為にも行動を共にするのは危険だと判断したからだ。捜査については引き続き藤巻が担当する。既に素性がバレている者が矢面に立つことになる。合理的ではあるが危険度は郷二達の比ではない。

 その後はもう日付も替わる時間であったため、休息をとろうという事になった。一同は襲撃のあった日の夜だということもあり、中々眠りにつくことができなかったが溜まった疲労も手伝い二時を回るころには全員深い眠りに落ちていた。

 朝になり起床した各自は冷蔵庫の中のもので簡単な朝食をとり、帰路につく。少し遠い場所に家がある灯美は楽之助が送り、ホテルへ向かう藤巻には楽之助の車が貸し与えられた。車を破壊された藤巻の新たな足となり、捜査の助けとなってくれるだろう。

 郷二は、一緒に行くといって聞かなかったユウヒをなんとか説得し、一人帰路についていた。見上げる一戸建て。簡素なつくりの家。ポストに投げ入れのチラシが溜まっている。

 歩を進め、カバンの中から鍵を取り出そうとしたその時、玄関が内側から開けられた。

 驚きに硬直し、そこから出てきた人間と目が合う。

 スーツに包まれた大柄な体。アルミフレームの眼鏡をかけた不健康そうな鋭い目つき。その目が郷二を貫き、放さない。

 無言で見合う両者。郷二の父親がそこにいた。その目には何の感情も読み取れない。連絡もよこさずに朝帰りをした息子に対して、普通の親のとる態度ではなかった。


「……今月の生活費は足りているか」


 酷く事務的な声色。仕事人間のこの父親は毎月初めに生活費だけを子供に渡し、後は全て放任している。郷二が何時に帰ろうが知ったことではない、そんな口ぶりだった。


「……大丈夫です」


 父親は小さな声で返された郷二の返事に興味はないとでも言いたげな口調で、そうかと頷き足早に家を後にした。日曜だというのに仕事に行くようだ。

 父親の姿が見えなくなってゆうに十秒、ようやく体から力が抜ける。郷二は父親を苦手としていた。何年もの間、苦手だ。びくついていた自分に小さく溜息をつき、郷二は家の中へと入っていく。今日は着替えを取りに来たのだ。これから先、楽之助の家で過ごすことが多くなると予想して多めに服を持っていこうと思っていた。

 自室を目指し、二階へ上がる。目が合う。

 自室のドアを開け、外に出てこようとしていた妹と目が合った。まさか人がいるとは思っていなかったのだろう。目が合った瞬間、ビクッと肩を震わせ全身を硬直させた。


「……双生ふたう


 双生、郷二の妹、引きこもりの妹だ。だらしない服を着て、伸び切った髪には寝癖がついている。今年中学二年生であるはずの彼女だが、もう一年以上学校には行っていない。部屋に閉じこもって、日がな一日ゲームをしているようだった。


「…っくりしたぁ、……あーあ、朝帰りだなんて爛れてるなぁ。私の方が健全じゃん」


 茶化すような事を言って郷二の横をすり抜けようとする。

 その時、郷二の鼻腔をくすぐる刺激臭。


「煙草……」


 ポツリとこぼした郷二の言葉に、双生がばつの悪そうな顔をして視線を逸らす。


「双生……お前まだ吸ってるのか。煙草は止めろってあれ程」

「あー、うるさい。うるっさい。何も聞きたくない」


 耳をふさぎ、目を閉じる双生。彼女はいつもこうだ。不都合なことがあるとすぐにこうなって何も知ろうとしない。こうなったら無駄だ。何をやっても聞こうとしない。

 何なのだろう、この家族は。郷二はまた一つ、溜息をつく。

 仕事にしか関心をみせない父、何も知ろうとしない引きこもりの妹、そして好奇心でしか動くことを知らない郷二。誰一人としてまともな人間のいない、歯車の外れた家族。

 何なのだろう、本当に。郷二は帰りたかった。あの子の待つあの家に。あの子の所に帰りたい。子供のような郷二の中にあったのは、それだけ。

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