第8話
乾燥した室内、紙をめくる音だけが響く。郷二と楽之助がいるのは高校の図書室だ。本を読んでいた郷二の手が止まり、閉じられたそれが眼前の本の山に加えられた。
「……めぼしい情報はなかった」
その言葉を聞いた楽之助が、落胆を滲ませながら積まれた本に目を向ける。
本のタイトルには一貫して『落白市』や『郷土・風土』などの文字が散見された。
「まず、どの資料を見ても蛞蝓に関する記述はほぼなかった。もちろん白蛆に関してもだ。だけど、わかった事が三つある。一つ目は、この落白市で何百年と続く失踪の歴史。神隠しや天狗伝説、子捨て山。この落白市内には遥か昔から人がいなくなる、そういう話が多くある。あの邪な神は遥か以前から、この街の地下奥深くで、人を……食べ続けている」
いったいどれほどの人間が冷たい胃袋に落とされたのか、その数は考えるだけで不快になる。
「二つ目は、火の玉についてだ。狐火、天狗火、霊魂の火。こっちはたくさん出てきた」
そう言いながら郷二がある本を開く。市内の有名な仏像や史跡を紹介した書籍だ。
「薬師如来に阿弥陀如来。見ろ。光背に火焔のレリーフが彫られている。本来これらの仏像にこんな意匠は施されない。ははっ、これ見てみろよ。カトリック系の古い教会の地下から見つかったキリスト像だ。なんだよこの炎はよ。神の子は磔刑じゃなく火刑で死んだらしいぞ」
不審火、古くから存在する火の玉、ユウヒを捕らえていた紅の牢屋。情報が足りない。一つ一つのピースは出ているのに、その間を埋める部分が欠けているような、もどかしい気分だ。
「三つめは……これだ」
差し出されるは『近世・災禍の詩(現代語訳)』と題された本。その一文を読む。
「『紅雪ノ絡ホシ石ハナバシラ 獣ノハラト忌ムベキヲ覚フ』この短歌はN県内の古寺で見つかったもので、寛永の時代に書かれた作者不明のものだそうだ。意味は『紅雪(藻類によって赤く染まった雪)積る寒さの中でも(時代から見て『寛永の大飢饉』発生の諸因の一つとなった冷害の事と推測される)、干し米(石は当時の米量を測る単位)を頼りに負けん気(鼻っ柱)を持っていこう。野原に生きる理性無き獣こそを忌むべきものとし、そうならないように生きていこう』だと記されている。……だけど僕は、この詩の本意は別にあるんじゃないかと、思うんだ。楽、この高校の裏山、奴らの洞窟がある裏山の名前を知ってるか?」
「いや、しらねぇけど……なんて名前なんだ?」
「『
郷二が、自身の手帳にそれを書く。不快を表すように書き殴る。
『紅雪の絡む星石花柱 獣の腹と忌むべきを覚ふ』
「意味は、『紅色と雪でできた、二つの隕石が絡まるように花柱山に落ちた。獣の腹こそ忌むべきものだ』。獣の腹とは当時の双子を表す蔑称、つまりは対なす隕石のことだと思う。この、推測……僕の妄想だと思うか?」
「考えるのはてめぇの領分だ。任せるさ……え、てことはあれって宇宙人なのか?」
信頼なのか、投げやりなのかわからない楽之助の返事に、肩をすくめて返す。
「……『未知との遭遇』、好きだったんだけどな……」
マイペースな奴め。
「この位だな。今ここで調べられる限界だ。もっと詳しく知りたいなら……」
本をひっくり返し、著者名を指ではたく。
「直接話を聞きに行くか?」
「
「稲森大学で教鞭をとってるらしいが、僕らみたいな高校生が会いに行って時間をとってくれないだろうな。だから僕の話は終わりだ。次お前」
郷二が読書に励んでいる間、楽之助は昨日、藤巻から渡されたデータの細部までを確認していた。データの表示されたタブレットを卓上に置きながら口を開く。
表示されたのは中上波流の日記の一文。
『誰かにつけられている気がするけど、どうせ気のせいだ。心が弱ってる証拠だ』
波流が魔導書を見つけて四日目の記述だ。
「郷二……最近、視線とか自分を追う影だとか、見たりしたか?」
オレは見てない。そう付け加える楽之助に、郷二も同じように首を振って否定で返す。
「『魔導書』を見つけて既に二週間。だけど、オレ達はまだ見つかってないんだ。彼女と違ってな。オレ達と彼女の違い。少し考えてみたんだが、原因は恐らく……昏倒をしたか、どうか」
あの日、郷二が『魔導書』を見つけ『極地』に至った時、偶然駆け付けた楽之助によって読了は阻止された。楽之助が郷二から本を取り上げた後、郷二の意識は一瞬暗転したものの楽之助の介抱のおかげですぐに目を覚まし、誰にも見られることなく図書館を後にした。
楽之助が考えているのは、つまりそういう事。
図書館の魔導書は『撒き餌』だと波流は言った。ならそれを撒いたのは誰なのか。
「図書館の司書連中、怪しいと思うぜ。気絶した波流に最初に気づいたのは奴らのはずだ」
「……そう、だな」
「んだよ、歯切れが悪い返事しやがって。なんかあんのか?」
「いや、そういう訳じゃないんだが……なにか、引っ掛かって……」
何かを見落としているような気がするのは、只の気のせいなのだろうか。
「……まぁいいさ。それでここからが本題なんだが、現状奴らがどこに潜んでいるかわからない。オレ達を探し出す何かしらの手段を持っているかもしれない。最悪、オレ達は襲撃を受けてもなんとかなる。学校のある間は常に三人が同じ場所にいるんだ。対処の仕様がある」
「……あぁ」
「問題はユウヒだ」
ユウヒは日中、楽之助の家で一人留守番をしている。今頃は一足先に灯美が戻っていることだろう。だが、どうしても現状のままでは彼女を一人にする時間が多くなってしまう。
それは敵の存在のあるなしに関わらず、避けたい事態だった。
「そこで!オレに名案があるっ!」
楽しそうに笑って話す楽之助の顔はとても生き生きしていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「うちでバイトをさせる?この子を?」
喫茶店『branch』の店長、笹花が驚いた様子で目の前のユウヒと楽之助を見つめている。
「バイトじゃあないっす。お給料いらないんで」
楽之助の名案は郷二達が学校にいる間ユウヒを喫茶店にて働かせるというものだった。
「そ、そもそも何でこの子はうちで働きたいの?」
「笹花さん、それには語るも涙、聞くも涙のお話があるんですよ。実はですね……」
ペラペラと嘘を捲し立てるその姿は、彼のペテン師としての才能を感じさせるものだった。
情報量に圧倒された笹花の頭がパンクしそうになっている。頭から煙を出しながら「んー」と腕を組んで唸り続ける笹花。しかし流石に無理があるのではないかと、郷二が半ば諦めかけていた時、黙ったままじっと事の成り行きを見つめていたユウヒが笹花に近づき頭を下げる。
「お願いします、ササカ……さん。ここで働かせてください」
「うっ……」
ユウヒのまっすぐな目に笹花が思わず狼狽える。
「一人で家にいるのは、本を読めて楽しいんですけど、時々すごく寂しくなるんです……」
「…うぅ……」
「コーヒーの淹れ方とかとても気になるし、こんな素敵なお店で働けたらとても楽しいと思うんです。一生懸命働きますから、お願いします!」
「…………はい……一緒に、頑張りましょう……」
笹花、陥落。
楽之助が小さくガッツポーズをしている。ユウヒはとてもうれしそうに顔をほころばせ、振り返って郷二に手を振っている。小さく振り返す。
「なんだか……大人になって失ったキラキラしたものを見せつけられた気がする」
虚空を見つめてそんな言葉を漏らす笹花に郷二が首を傾げて尋ねる。
「あの、本当に大丈夫でしたか?」
「あー、大丈夫だよ。人手が欲しいと思ってたのは本当だしね」
手を左右に振って苦笑いする笹花に対し、楽之助が自信満々といった顔で続ける。
「ユウヒは有能ですし、何よりかわいいでしょ。客の伸びにも貢献しますようちの子は」
「良い子でかわいいのはわかるんだけど、楽之助に乗せられたみたいでなんか癪だなぁ」
じとー、と楽之助を睨む笹花。楽之助はそんな視線でさえも嬉しそうに笑っている。
「……所で、お家出る時から気になってたんですけど、何故トーミは来なかったんですか?」
ユウヒがそんなことを言った瞬間、笹花の目がピカーンと光る。
「え、なに?トーミちゃん?って誰?……楽之助、トーミちゃんって誰さ?」
「……友達、ですけど…」
笹花の顔がニヤニヤと歪んでいく。
「へー、楽之助って郷二以外に友達いたんだー。ふーん、あの楽之助が友達ねぇ、へぇー」
「……ただのダチっすよ」
笹花のニヤケ面が最高潮に高まり、反するように楽之助の顔が渋く歪む。
「あ、あの、聞いちゃダメな事でしたか?」
発端となったユウヒが若干あたふたしながら小声で郷二に質問する。
大したことじゃないと断ってから、ユウヒの耳に口を寄せ同じく小声で答える。
「灯美はコーヒーが飲めないんだけど本人はそれを隠したいみたいなんだ、昔見た映画の影響で警察官といえばコーヒーみたいなイメージがあるらしい。だからあいつはコーヒーを出すお店には基本的に入らない。それに、楽之助のやつが笹花さんの目を気にして、女の子と一緒にいる所を見られたくないんだよ」
郷二からしてみれば、二つともどうでもいい理由だ。しかし、その話を聞いたユウヒが目を輝かせ、再度郷二の耳に口を近づける。
「ラクノスケはササカに、ほの字ってことですか?」
「……ほの字ってことだね」
おかしな日本語を覚えている。だがそれ以上に、人の恋路に興奮気味のユウヒを見て、こんな年相応の反応初めて見たなとつい笑ってしまった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それからの数日間は、落ち着いた日々だった。
朝、ユウヒと伴って登校し、途中で『branch』に送り届け普段と変わらない日常を過ごす。学校が終われば毎日のように『branch』に向かい、働くユウヒを確認して、読書をしながらコーヒーを飲む。突然現れた幼い従業員に、年配のお客さん達はすぐに食いついた。ユウヒも彼ら彼女らとの話を楽しんでおり、「おばあちゃんの知恵袋って言うらしいんですけど、初めて聞くことばかりでとても楽しいんです」そう言って笑っていた。
「キョージはいつもそのコーヒーしか頼みませんね」
バイトを始めて数日目、『branch』の制服に身を包んだユウヒがそんなことを言った。
「色々あるのは知ってるけど、このコーヒー気に入ってるしね」
メニューに並ぶ飲み物。フラットホワイトやコンパナなどあまり見慣れないものも目立つが知識の塊である郷二はそれらが何を、どういう比率で混ぜられたものなのかを知っている。
「……コーヒー以外、頼んだことないんですか?」
「まぁ、知ってるし」
「そういうのは、知っているとは言いません。一度も飲まずに知っているだなんてササカさんに失礼です」
「……すいません」
最近気づいたことだが、郷二は言葉に詰まると敬語が出る。
「当店のオススメ持ってくるんで、待っててくださいね」
そういってキッチンに駆けていったユウヒが持ってきたのはココア。甘いものが得意ではない郷二は無言でそれを見つめていたが、目を輝かせて待つユウヒに根負けして一口すする。
「……うまい」
そのココアは甘くなかった。ココアが甘いと『知っていた』郷二が今まで試してこなかったその味は、コクの深い苦みの味は、郷二の趣味に合っていた。続けてもう一口。
「ササカさんに甘くないココアの作り方教えてもらったんです。ね?知らなかったでしょう?ココアっておいしいんですよ」
笑って、誇らしげに胸を張るユウヒ。
こういう時だった。郷二が、ユウヒと一緒に居て幸せを感じるのは。『知識』に囚われた郷二に、楽しいのは知ることだけじゃないんだよとなんでもないことのように告げる少女。
彼女と過ごすそんな時間が彼にとっては幸せだった。これが郷二の日常だ。ユウヒと過ごす新しい日常。『極地』という異物にまみれても、楽しいと言える郷二の手に入れたものだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その電話が掛かってきたのは、朝から雪の降るよく冷えた日だった。
土曜日なので全員で楽之助の家に集まり、一緒に映画などを観て過ごしていた。警察ものの有名な作品。夜は浩幸軒でご飯を食べた。夜も更け始めそろそろ灯美を送ろうかと楽之助が声に出した、丁度その時だった。リビングに響く携帯の呼び出し音。
その番号は藤巻のもので、何か捜査に進展があったのかと携帯に耳を当てた楽之助に聞こえてきたのは、切羽詰まった息の切れた声。一方的に捲し立てられるその言葉を楽之助は一言さえも聞き逃しまいと集中する。
尋常ではない状況が発生したのだ。周囲でその様子を見ていた郷二達にも緊張が走る。
数十秒の通話の後、楽之助が携帯を耳から離す。
「藤巻さんが奴らの襲撃にあっている。俺は足を持ってくるから、準備しろ。救出だ」
平穏な生活など、奴らがいる限り訪れる事はない。
郷二と灯美は楽之助に言われた通り壁際に置かれていた荷物を引っ掴んで必要なものを詰め、コートに袖を通しながら階段へ向かう。
しかし制止の言葉が上がった。ユウヒだ。
「キョージ、わたしも行きます」
「駄目だ」
にべもなく断る。行かせるつもりなど決してない。
「……わたしが一番魔術に長けています。『極地』に耐性のあるわたしは蛞蝓を見て足を止めることもありません。適任です」
ユウヒが郷二の前に立ちはだかる。引く気はないとその目は語る。
「君はまだ子供だ。荒事に巻き込むつもりはない」
「キョージ達だってまだ十七才です。子供じゃないですか」
わたしだって力になりたいんです。そう呟く拳は強く握られている。
藤巻と初めて対面した日、帰宅した郷二達は情報を共有した。そこには勿論ユウヒがいたし、彼女にも中上波流の日記は開示された。彼女もあの日記を見て思う所があったのだろう。握られた拳はその思いの表れだ。彼女は良い子過ぎる。
郷二が困ったように溜息をついて応える。
「だとしても、君の前では僕は年長者なんだ。かっこつけさせてくれないか?」
それに。反論に口を開きかけたユウヒを制するように、郷二は言う。
「帰って来た時に部屋が寒かったら嫌だろ。誰かが待ってくれてないと悲しいだろ?」
嘘ではない。どんなに傷ついても彼女が待っていてくれるのなら郷二は頑張ることができる。その言葉が嘘ではないとユウヒもわかったようで続く言葉は出てこない。
「……帰って来た時に暖かいものを用意して待っててくれないか?絶対に帰ってくるから」
「……うん…わかりました」
俯いてしまったユウヒの頭を軽く撫でてから階上へ向かう。待ってくれている彼女がいるのだ、郷二は負けない。
「……所でさ、楽が言ってた『足』って」
灯美がそんなことを言おうとして、道路にあったそれに気づき、口をつぐむ。
「灯美!心外だなぁ。オレは天下の楽之助様だぜ?同じ轍をそう何度も踏むと思うなよッ」
そこにいたのは楽之助。真っ黒な車の運転席に乗り込んだ楽之助だ。
「こんなこともあろうかと実家からちょろまかしといた!楽しいドライブと行こうやッ!」
朗らかな笑顔。楽之助、高校二年生、十七才。楽しい無免許運転のスタートだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
暗い森の中を走る。枝木によって天蓋は閉じられ僅かな光さえ差し込まない森の中を、藤巻は手に持つ小さなライトを頼りに走っていた。
車での移動中に並走するワゴン車から襲撃を受けた。退路を塞がれ森の中に逃げることしかできなかったのはあまりにも痛いが、何とか楽之助達に連絡を取ることはできた。今は森に入る直前に見えた展望台へ行き、救助が来ることを祈るしかない。
襲撃者はフードで顔を隠して運転席に座っていた。おそらく灯美を襲った白装束の人影と同一人物だろう。そいつの発動した『魔術』の氷が藤巻の車のタイヤを破裂させたのだ。
しかしそれと同時に、藤巻は目撃していた。止められた敵のワゴン、その中から沸きだす十匹ほどの蛞蝓の群れを。
無我夢中で木の間を潜り抜け、足を前へと進めていたその時、唐突に目の前が開けた。
眼前に広がるのは雪でぬかるんだ芝生、広い駐車場、そしてステンレス製の武骨な展望台。その広々とした場所に人影はない。この開けた場所でなら勝機がある。
藤巻はぬかるんだ芝生に足を取られながらも展望台へと走る。駆けこんだ展望台の柵を背にし森から体を隠す。そのまま背負っていたカバンからそれを取り出した。幾つかの部品に分解された鉄製のそれ、暴力の利器。猟銃だ。悴んだ手でなんとか組み立てる。
森に目を向ける。来ていない。焦る体を押さえつけやっとのことで猟銃を組み立てた。
銃口を振り上げた。いない。まだいない。奴らはいない。
落ち着けと跳ねる心臓に言い聞かせる。眼前には真っ暗な闇に塗りつぶされた深い森。自身の立つ展望台を照らすのは小さな電灯が二つだけ。
落ち着け。
頭の中で一喝する。弱り切った心にこれ以上罅が入っていかないように、胸の内で怒鳴る。理性で考えろと叫ぶ。ここは落白市を一望することができるように作られた展望台だ。
闇に覆われた森なんか見ずに、振り返ってその景観を見ればそこには夥しい数の車のライトや高層ビルの連なりがある筈だ。獣を遠ざける人口の光が見える筈だ。西部の住宅街にはたくさんの民家から洩れる無数の明かりがあって、そう、その場所には、あの子が、
「……ぁ」
声が漏れた。自分は大丈夫だと叫び続けた。振り返ればそこには変わらぬ日常の世界が存在していると、自分の心をなだめかせようとした。しかし、気づいてしまった。化け物どもに追い詰められ、もがき苦しむこの先には、なにも残されていないのだと。この先どれだけ耐えても、苦しんでも、走って行ってもそこにはあの子はいない。
なんのために、俺は、こんなことを。
気付いてしまった。その瞬間、
森から埒外が溢れた。無数の蛞蝓が展望台に向けて殺到した。心の折れ掛けた藤巻が引き金を引くことができたのは偶然だ。恐怖に侵された心のままに震える指で引き金を引いたのだ。
外れる弾丸。蛞蝓の後方、森の中の枝を数本折るだけに終わる。二発目は地面を抉る。残された弾丸は一発。目の前には無傷の邪知の化け物が十匹あまり。歯の根は合わず絶望が骨の髄まで染み出でる。手先は恐怖により尋常ではないほど震えている。
次を外せば終わる。自分は終わる、死ぬ。いや、一発だけ当てた所でどうにもならない。万に一つの確立で一匹を殺した所で残りが藤巻を殺す。何もできない。どうにもならない。死ぬ。死ぬ、死んでしまう……心が、折れ掛けて……
三発目。
その弾丸は発射された。恐怖に強張った指が勝手に撃鉄を叩き落したのだ。
特に意味のない偶然。しかし、偶然、その弾は当たった。化け物の先頭にいた一匹、その中心。弾丸は蛞蝓の体の中心を突き抜けるように穿った。
はじけ飛ぶ体。軟体の体が穿かれた孔を中心に波打ちながら吹き飛んでいく。放たれた弾丸の威力は凄まじく、蛞蝓の体組織を引きちぎりながらその中身を乾いた寒空の下にぶちまけた。
蛞蝓の中身、そこにあったのは白濁した流動物。波打つ皮の中はその液体とも個体ともつかぬものでいっぱいだった。内臓がなく、道理の欠片もない体。動物ではない。
しかし、そこに一つだけ異物があった。白濁の汚泥にまみれた袋のようなもの。放たれた弾丸は度重なる偶然の果て、その袋も貫いていた。中にあったそれをぶちまけていた。
赤い、液体。
血ではない、そんなものではない。それはもっと赤く、もっと黒かった。それは逸脱したモノ。この世の理から最も外れたモノ。その赤い液体こそが、『極地』の髄だった。藤巻の脳内に『極地』が流れ込む。精神を汚染された藤巻の悲鳴だけが寒空の下に響き渡った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
藤巻から連絡を受け三十分。郷二達は目的の展望台に到着しようとしていた。
「その道を曲がった所が展望台だ」
助手席の郷二が地図を確認しながら車のヘッドライトで照らされた先を指さす。悪路での運転に集中している楽之助は小さく返事をするだけだったが、後ろの席の灯美が言葉を引き継ぐ。
「敵との戦闘は極力避ける。藤巻さんをピックアップした後はひたすら逃げる。もしも藤巻さんが自力で動けないようだったら私と郷二が対処する。そして……予定外の事が起きた時の判断は郷二の担当……だったね」
「……あぁ」
予定外への判断。灯美は濁したがそれは藤巻救出を諦める時の判断についてだ。
「……私は郷二の判断に従うけど、それは全ての責任が郷二にあるって意味じゃないからね。郷二に全ての判断を託した私の責任もあるからね」
「……あぁ」
こんな時でも変わらない灯美につい苦笑いが漏れる。ここにいる三人の中で、唯一『極地』に耐性を持たない彼女が最も危険であるにも関わらず、彼女は本当に変わらない。
「……着くぞッ!気ぃ引き締めろ!」
楽之助の喝が響く。
その声に全員の目つきが変わり、一瞬で覚悟の決まった目になった。
突入。楽之助がアクセルを全開にし、トップスピードを保ったまま展望台のある広場へと車を突入させた。最初に見えたのは二つの電灯。爛々と光る白色。そしてその光に照らされた金属製のみすぼらしい展望台、そして無駄に大きな駐車場とぬかるんだ芝生だけだった。
それ以外にはなにもない。蛞蝓の姿はなく、なにより藤巻がいなかった。
「展望台の横に付けろ」
停車した灯美がドアに手をかけ、外を探索するかと郷二に向けて目配せをする。
しかし、郷二は展望台とは逆方向、芝生の方にその目を釘付けにされていた。
「……郷二?」
不思議に思った灯美が郷二の名前を呼び、その視線の先へと自分も目を向けようとした時、伸びてきた郷二の手によってその動きを制される。
「楽、お前……気づいたか?」
「……あぁ。あそこの地面、芝生の所に強烈な違和感を感じる。見なくとも気配で気づけるほどの強烈な奴だ……灯美ぃ、お前は見んなよ。あれは、『極地』のものだ。あまりにも純度の高いナニカだ。見んじゃねぇ」
二人の視線の先には変わったものは特にない。地面がほんのり濡れているような、赤いような、何かの光沢を放ってはいたが、いかんせん遠すぎた。ソレがあることしかわからない。
「予定通り僕と灯美で回りを探索する。楽はいつでも車を出せるように待機しといてくれ」
目配せをし灯美と同時にドアを開けた。冷え切った外気が身体を刺す。
二人はゆっくりと展望台へと足を進めていく。数段の階段を上り内部を見回す。展望台と言っても、所詮山の中にある小さなものだ。鉄板状の柵と屋根だけでできた簡素なもの。
一目見まわすだけでそれを見つけた。
人だ。人がうずくまって柵に寄りかかっている。体育座りのような恰好で膝を抱いた人が、藤巻がそこにいた。
最初郷二はそれが藤巻だと気づけなかった。その人影があまりにもちっぽけだったから。座り込んだその体はまるで存在感がなく、あの鋭い目を持つ藤巻だとはとても思えなかった。
「ふじ、まきさん」
近寄り声を掛ける。反応はない。周囲の警戒は灯美に任せ、ゆっくりと屈みその顔を覗き込んだ。涙が溢れていた。次から次へと湧いては地面に落ちていく涙の連なり。そこにはあの、絶望を乗り越えたはずの彼はいなかった。
「……俺は、もう……いい」
ゆっくりと口を開く。
「そこにある……銃と、カバンを持っていけ……調査結果が、入ってる、から」
淡々と告げられる言葉。藤巻の目は郷二を見ていない。
「もういいって、なんですか」
郷二が聞き返す。二人が話をしている間に灯美が地面に転がっていた猟銃とカバンを拾い上げる。中途半端に開いていたカバンのポケットから恐らく猟銃のものと思われる弾丸が零れ落ち、灯美が慌てて拾っていた。
「俺は、さっき折れた。ここで折れた……もう先には進めない」
「……意味が分かりません。藤巻さん、乗り越えたじゃないですか。あなたは『魔導書』を開いて納得した。あなたは、あの子の……波流さんの死を乗り越えたじゃないですか」
「乗り越えてる訳ッねぇだろうがァ!!」
絶叫が響く。寒空を超え、眼下の街へと落ちていく。
「俺が!納得したのは、俺にはあの子を救う事は…む、無理だったっつう事…だけだ…っ」「乗り越えるだ!?ふざけんじゃねぇぞ!何分かったように語ってんだクソがッ……出来る訳、ねえだろうが……」「そんな訳ェ、ねぇだろうがッ!」
涙に濡れた声が、喉から絞り出される。血の滴るような絶叫。血の滴る心からの絶叫だった。
「知っちまった……この先には何もねえって。どれだけ進もうが、この先にはないんだ。あの子の……波流の笑った顔はもう、ないんだ。死んでしまったんだ」
なにも言えない。だけど、何かを言いたい。伝えたいと、郷二は思った。
「……転がるような人生だった」
藤巻は語る。
「物心ついた時から、全てを、蔑ろにしてきた。ずっと『暴露』の人生だった。隠された事実が許せなかったんだ。唯一の家族だった母には何度も、もうやめてくれと言われた」「俺のせいで母親は周りから疎まれてたんだ。女手一つで息子を育て上げたにもかかわらず、その息子である俺は感謝なんて微塵もせず他人の秘密を嗅ぎまわるカスだった」「俺は、何も大切にしてこなかった。機械的に『暴露』を求める俺に、心なんてものはなかった」
語られる彼の人生に、郷二は「あぁ、そうか」と納得していた。
「そんな俺に、唯一……唯一大切だと思える存在ができたんだ。あの子が生きていてくれるなら、俺はあの時、東京になんて行かなかった。『暴露』を……やめても……よかったんだ」「機械だった俺にッ、命をくれたのは波流だ……っ!」
それは悲鳴だった。心をなくした、命を亡くした男の悲鳴だった。悲鳴を上げ終えた藤巻は再度うなだれ、言葉をなくす。
けれど郷二はその時、酷く納得していた。これまでの全てに、彼の気持ちに。
「『知識』が僕の全てなんです」
唐突な郷二の弁にも、藤巻は俯いたまま顔を上げない。
「家族である父と妹とは、もう一か月は顔を合わせていません。楽の家に入り浸って本を読んだり、『極地』の研究ばかりをしています」「僕を理解してくれるたった二人の友人についても一緒です。初めてあの本を見つけた時、一目でアレが危険なものだと理解しました。けど、僕はあの本を持ち帰り案の定こんな事態に彼らを巻き込んでいます。何が何でも、『知りたかった』からです」「僕も、全てを蔑ろにしてここまで来た」
彼らは同じだった。初めて藤巻と顔を合わせた時、郷二は言いようのない嫌悪感を藤巻に感じていた。それは同族嫌悪。似通った彼らだからこそ彼らは互いを嫌悪した。
郷二の『知識』と、藤巻の『暴露』。彼らは同じだった。
「そんな僕の前に現れたんです。彼女が。ユウヒが現れた。知ることが全てじゃないんだよって、教えてくれた彼女がここにいる」「あなたの言う通りだ。僕らは機械だった……『だったんだ』。だからこそ、あなたは立たなくちゃいけない。僕達は人間だって胸を張って言うために」
郷二は言い切った。僕らは一緒だと言った。だが、その言葉はあまりにも身勝手だ。
「……お前が、機械じゃないと証明するために……同じである俺に立てと、そう言うのか?
「違うッ!」
郷二が叫ぶ。
「なら、何のために」
「中上波流のために立て」
藤巻の肩が、ピクリと揺れる。
「あなたを人間にした、あなたの心だった、彼女のために立て」「彼女は機械のあなたを愛したんですか?違うでしょ……違うんだろ!?」「それを……あなたはッ!」
「……もうやめてくれッ!!」
両の目から涙を散らした藤巻が叫ぶ。悲痛な声がこだまする。
「もう、やめてくれ……無理だ。いないんだ、この先に彼女がいないんだ!波流はもういないのにっ、なんで頑張らないといけないんだ!?もう、つらいんだ……二度とあの子に会えないと知って、歩いてなんていけないんだ」
藤巻の足は震えている。力の抜けた、立てない足だ。
「お前だって、俺と同じ状況になったら分かる。立てないんだ、足に力が入らないんだ。見ろッ!この震える足を……この足で、どこに行けって…言うんだよ……」
蹲ったまま肩を抱く藤巻。辛いのだろう。生きていくことが苦痛で仕方がないのだ。
心を亡くす辛さなんて……ユウヒを亡くす辛さなんて郷二には想像さえできない。
「……わかりません。僕も、もしかしたらあなたと同じなのかもしれない。あなたと同じように、二度と最愛の人と会えないと知ったら蹲って動けなくなるのかもしれない……」
いや、恐らく郷二も立てない。彼の立場にいるのが郷二だったら、きっと同じように立てなかった。だから、郷二は言わなければならない……彼の気づけていないその事実を。
痛みに蹲る彼に代わって気づかなければならないのだ。
「だけど、中上波流は立った」
静かな声だった。しかしその言葉は、どの言葉よりも深く彼の心に突き刺さった。
「中上波流の遺した遺書は彼女が死を覚悟した後に、あなたと二度と会えないことを知った後に書かれたものじゃないんですか」「彼女は立ったぞ……あんたを人間にした、あんたを愛した彼女は立ったんだぞッ!」
なりふり構わず、郷二は思いの全てをぶちまけた。
郷二は思い出していたからだ。波流の遺書には自分宛ての言葉もあったということを。
『どうか、お兄ちゃんを支えてあげて下さい』
その言葉があったことを。少し強引で、荒っぽいものになってはしまったが彼女も納得してくれるだろう。臆病な兄を焚きつける大変さは彼女が一番知っているだろうから。
藤巻へと手を差し伸べる。
「あなたは、どうしますか」
繋がれた手は、もう震えてなんかいなかった。
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