第6話

 時刻は七時過ぎ、場所は浩幸軒の奥、入口から見えづらいカウンター席に郷二達は腰かけていた。それぞれの前には注文した料理が並び、既に手を付けている。ユウヒは料理名を見てもそれがどんなものかわからないので隣の郷二が代わりに注文した。

 半チャーハンとエビチリ。しかし当の本人はそれどころではなく……


「があいいいいぃぃぃっ!!!!!」


 絶叫しながら抱き着くユキさんに、目を白黒させていた。


「え?え?なん……え、かわいい……え?かわいい!」


 出前から帰るなりずっとこの調子だ。客に対してこの態度、食べさせる気がない。


「……ユキさん、僕ら大事な話があるんでユウヒから離れてもらっていいですか?」

「ユ、ユウヒちゃんっていうの?かわいい名前だね。あ、私ユキって名前なの。最初の文字一緒だね!言ってみ、呼んでみ!ユキって、ほら」

「……ユ、ユキ…」


 歓声が上がる。カウンターから出てきたハオに連れ戻されていくユキ。帰り際、じっとユウヒを見つめたハオが一言、サメル、料理を示しながらそう言い残して戻っていった。


「……嵐も過ぎたし、本題に入るぞ。まず電話の相手は成人男性。明後日の日曜日にN駅の目の前にあるカラオケ店で話し合いの場を設けることになった。場所の選定理由は人の目はあるが周りに話を聞かれないから……ということになってはいるがこのカラオケ店の店長と楽之助が顔見知りのため多少のおいたは許されるからっていうのが本当の理由だ。相手の言葉を信じるのなら、今回のことについては何も知らない。だけど……」

「『勇気と正義』……この言葉に一瞬息をのむような反応してたぜ。何か知ってんだろうよ。向こうさんもよ」


 じゃなけりゃ、非通知からかかってきた相手と会おうなんてしないわな。そう言って青椒肉絲の大盛を口にかっこむ楽之助。


「……そういうことだ。質問あるやつは?」

「それには、誰が、行くの?」


 灯美が同じように頬を膨らませながら聞く。


「僕が行く。情報を手に入れる当てがここ以外ないんだ。絶対に取りこぼせない。楽は外で待機。対話が決裂で終わった時のために尾行の準備をしといて欲しい」

「その間、私達はひま?」


 灯美が自分とユウヒを交互に指さしながら問う。指さされたユウヒは食べることに夢中で何も聞こえていない様子だった。そういえば、意識を取り戻してから食べたものと言えば郷二がお昼に買い与えたコンビニ弁当だけだ。悪い事をしたなと思いながら返事を返す。


「やってもらうことは特にない」

「ふーん、じゃあ駅ビルでショッピングしてるね。ユウヒも私のお古ばっかじゃ嫌だろうし」

「……は?ショッ、ピング?敵かもしれない奴が近くに来てる状況で……というか今、既に非常事態の真っただ中なんだけど……」


 その言葉を聞いた灯美がじっと郷二を見つめた後、手に持っていた箸をことりと置く。


「郷二……女の子はみんな、お洒落しないと死にます」

「いや、死なな」

「死にます!そして、女の子の恋とお洒落を邪魔する奴は全員死ね!」


 店内に灯美の大声が響き渡った。

 帰り際、とてもおいしかったといつもより高いテンションで手をパタパタと振りながら伝えるユウヒと黙ってそれを聞くハオの組み合わせは何とも奇妙なものだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 時間は進み二日後、十二月十四日日曜日、時刻は午後三時の五分ほど前。

 郷二は待ち合わせのカラオケ店の個室に入り既に待機していた。楽之助は店の出入り口が見える喫茶店に入り往来を監視している筈だ。灯美とユウヒは目と鼻の先にある駅ビルにてお買い物と洒落込んでいるのだろう。電車で到着した後、灯美に手を引かれて連れ去られていったユウヒの顔を思い出し、申し訳ないことをしたかなと少しだけ後悔する。

 ユウヒ……。郷二は昨日のことを思い出していた。これからの行動方針が決まりやることがなくなった丸一日。休日だったということもあり、郷二とユウヒはたくさんのことを語り合った。地頭がよく、その上知的好奇心の塊であるユウヒとの会話は郷二の生きてきた十七年間の中で最も楽しく盛り上がるものになった。会話は途切れることを知らず、延々と続けられる常人なら鬱陶しささえ感じる郷二の細かすぎる説明もユウヒは目を輝かせながら聞いていた。その時間は郷二にとっても素晴らしい輝くような時間だった。

 通知音が鳴る。郷二の携帯だ。取り出し確認すると郷二の意識が引き締まる。


『男、一人で来店』


 差出人は楽之助。外の喫茶店から見えた情報を伝えてくれたのだ。

 郷二は胸ポケットに入れてある新しく買いなおした手帳の感触と、着ているジャケットの裏、そこにある固い感触を再度確認し心を落ち着かせる。ここで確かな情報を手に入れる。その意思を固めた時、部屋の扉が静かに開けられた。そこにいたのは男性が一人。滲み付いた隈をこさえた鋭い目、百八十を超す長身の体躯と、恵まれた身長にもかかわらず非常に薄い胸板。針金のような男、それが郷二の持った最初の印象だった。


「待ち合わせ……なんだが、ここであってるか?」

「……あっています。どうぞ、そちらへ」


 するりと部屋に入ってきた男は周りを見回し、郷二以外の待ち人がいないかや、天井の隅の防犯カメラを確認する。先に述べたようにこの店の店長と楽之助は懇意の中だ。今頃、喫茶店から移動した楽之助がスタッフルームからこの部屋をカメラ越しに見ているだろう。

 主導権を握らせてはならない。郷二が先に話を切り出す。


「今日は突然の事にも関わらずお越しいただきありがとうございます」

「それは構わないんだが……」


 男が鋭い目を更に尖らせ訝しむように尋ねる。


「君、高校生くらいに見えるんだが……」

「童顔で、会う人みんなに言われるんですが成人してますよ。会社勤めのサラリーマンです。今日はこんな場所ですみません。ですがお互い人目のない場所の方がい」

「本題に入れ」


 男が郷二の話を遮る。不躾な、態度。おもむろに取り出した煙草に火を付けながら続ける。


「社会人なら時は金なりって知ってるだろ、さっさと本題……そっちの目的を話せ」


 吐かれる紫煙。舐められている。社会に出ていない郷二でもそのくらい分かった。相手はわざと挑発している。主導権を握ろうとした郷二と同じ思考回路。

 相手に呑まれてはならない。しかし、早く本題に入りたいと思っていたのはこちらも同じ。


「……生存です。僕達の最優先目標は無傷の生存、ただそれだけです」


 嘘だ。生存など最優先目標以前の話。あの夜、灯美が涙を流して誓った彼女の正義は全てを救うという誓い。そういうものだ。しかし、郷二達の敵対者はそのことを知らない。奴らからしてみれば郷二達は訳も分からず事件に巻き込まれた被害者であり、その弱者が、逃げたいと言い出しても何も疑問に思わず油断する。それが郷二の目論見だった。

 目の前にいる男が敵なら、納得する答え。なにも知らないのなら、当惑する答え。郷二の予想はおおむねその二つ。だが、その予想は覆される。


「……生存、が最優先?生き残ることさえ、担保されていない……そういうことか」


 怒気、そう形容するのが一番近い。部屋の中に、ピシリとひびが入ったように感じた。

 重苦しい空気に口をつぐまされる。口を開くことがこんなに難しいなど郷二にとって生まれて初めてのことだった。


「今年、十七になる少女を探している」


 男の言葉。その言葉の意味を理解した時、頭に浮かんだのは一人、唯一顔を見られた少女、十七才、高校二年生、灯美の姿が頭に浮かび……


「今、俺が言ったことを理解してから動揺したな」


 男の鋭い眼光が郷二に突き刺さり、一片の見逃しもないとその目が語る。


「お前は何かを知っている」「話せ。暴露は物事を簡潔にし、無駄を省いてくれる。十七の少女、これが俺の最優先目標、俺の暴露だ」「俺は悠長を嫌う。次の暴露はお前の番だ」


 捲し立てられる男の言葉。気圧され、主導権を握られた。しかし、郷二にここから引くという選択肢がない以上、言わない訳にはいかない。ある意味では男の言うことは正しい。時間がないのは郷二にも言えることなのだ。


「……そちらがあれをなんと呼称しているかわかりませんが……魔導書の末尾に書かれていました。あなたの電話番号が。俺は……『極地』を知る誰かに導かれてここに来た」


 郷二の暴露。男は郷二の目を見つめたまま動かない。そんな時間だけが流れ……


「……ふざけてんのか?」

「ふざけてなんかいない!全部、本当の事だ……っ」


 郷二は本当の事を話した。しかし、男は郷二の暴露を信じていない。いや、信じていない振りをしているだけの可能性もあったが、男の目に心の底からの落胆が、失意があった。


「……時間を無駄にした。ガキはさっさと帰れ」

「待て、ちゃんと説明をする。説明ができる」


 しかし、男は耳を傾けようとせず、卓上の煙草を乱暴にしまって席を立とうとした。


「動くな!」


 郷二の大声が響き渡った。今までの話し合いとは違う、明確な敵意を滲ませた怒声。

 立ち上がろうとしていた男の動きは止まり、郷二の方を伺うように視線を向ける。

 今、郷二には余裕がない。唯一の手掛かりであるこの男を逃してしまえば僕らは八方塞がりなのだ。どこにいるともしれない敵を警戒し、いたずらに精神を消耗する日々が始まるだろう。

 灯美救出という目標やユウヒの存在が郷二の心を支えてきた。

 しかし、このまま男を帰してしまえば、郷二には何もない。探るべき場所や、手掛かりが残されないのだ。やらなければならないことがある。その事がどれほど郷二の心の波を治めていたのか。郷二本人でさえも気付いていなかった。

 郷二は揺らめく心に鞭を打ち、やらねばならない事を決める。息を吐く。


「……正直に言うと、僕はあんたが味方だったらいいなと思ってた」「だけどこれ以上の建設的な話し合いは、無理だ。出来ない」「対等な話し合いじゃあ、互いに情報を出し渋ってちっとも話が進まない」「だから……」


 郷二の手がゆっくりと掲げられる。男の足元を示す。そこに何かがあるとでもいうように、恐ろしき何かがあるとでもいうように。


「だから今から………僕が上だッ!」


 郷二の絶叫。続けられたのは、呪いの言葉。


「『灰雪の轍が円を描く』」

「『連なる跪拝の白』『それは崇めるように、畏れるように』」

「『その先は、標の先は、瑞花のみ』」


 『極地』の花が、歪みの花弁が顕れる。それは郷二が指さす先、男の革靴の底に咲いた。ギチギチという耳障りな軋みを伴って顕れた氷が、男の両足をその場に縫い付ける。

 郷二の代替句を耳にし、邪知なる氷をその身をもって体験した男の頭がはじけるようにのけぞられ、左の掌で顔を覆った。隙間から除く男の目は血が滴らんほどに充血し、鼻や耳からは少なくない量の出血が見られた。喉の奥からは引き絞られるような悲鳴が漏れる。

 郷二は確信を持つ。この男は『極地』への耐性を持っていない。

 畳みかけるように立ち上がり、机の上に乗せた足を軸にして郷二は渾身の蹴りを男の腹にたたきつけた。受け身も取れずに、背中を背もたれにぶつける男。しかし手の隙間から除く男の目が、確かに、郷二と合った。

 男の右腕が胸の内ポケットに差し込まれる。ハッとした郷二が自身の内ポケットに手を入れ、二人は同時に互いの得物を取り出した。

 それらが空中でぶつかる。郷二の出したものはナイフ。楽之助の私物を、護身のために借りていた。だが、男の出したそれは郷二の予想を超えていた。拳銃だ。

 銃口が逸れるような形で受け止めることができたのは、完璧に偶然だった。刃物か警棒の類だろうと考えていた郷二は、突然現れた生々しい暴力の器物に一瞬ひるむ。

 その時、唐突に、郷二の視界が……ぶれた。一瞬で頭の中が霞み、力が抜ける。拮抗していた力が弱まったのを感じた男が郷二のナイフを弾き飛ばし、拳銃のグリップ部分で郷二の側頭部を振りぬいた。地面に倒れ伏す郷二。回る世界を何とか抑えようと、何が起きたのか知ろうとして、男の方に眼振の止まない目を向け、すぐさま何が起きたのかわかった。

 男は郷二の顎を蹴り上げたのだ。血まみれの足で立つ息を切らしたその様が全てを証明していた。氷によって地面に縫い付けられていたはずの足で、靴と足裏の皮を地面に残したまま、蹴り上げたのだ。

 足の痛みと、『極地』の汚染による耐えがたい頭痛、吐き気によって立っているのもやっとの男がゆっくりと銃口をこちらに向ける。

 鬼気迫る形相。覚悟を決めた男の顔。

 郷二が地面に手を付き体を持ち上げる。未だ焦点は定まらず、強く打った頭は脳震盪を起こし割れるように痛む。吐き気もひどい。顔を傾けた郷二の髪がはらりと垂れ、殴られた際にできた傷から血が滴る。血の雫が髪を伝い落ちていく。しかし、やらなければならない事があるのも、覚悟を決めたのも、郷二にだって言えることだった。


「…………『瑞花よ』……」


 室温が急激に下がる。郷二の視界にあった、髪を滴る血が凍る。凍結の際に飛んだ血の氷片が目に入るのも気にせず、郷二は男を睨み続けた。

 再度の魔術に頭を引き絞られるような苦痛に見舞われる男。警告として向けていた拳銃に思わず力が入り、拘縮した筋肉が意に反して引き金を引いた。しかし、その撃鉄は下ろされない。

 驚いた男が拳銃を見ると、そこには氷を噛み、途中で止まってしまった撃鉄があった。驚くのもつかの間、拳銃から凄まじい冷気が手に伝わり、皮膚がその冷たい金属にへばりつこうとし始めたため、男はすぐさま拳銃を投げ捨てた。

 郷二がやっとといった様子で立ち上がる。足元はおぼつかず、数度たたらを踏むもその目は男から反らさない。睨めつけながら、思いのたけをぶちまける。


「これが暴露だッ!これが……魔術だ、これが……僕らが直面している恐怖だ…ッ」


 『極地』と僕らの間を走る汚濁の繋がり。これを『魔術』と呼ばずになんというのか。


「なんなんだッ……一体、これはなんなんだ!?」


 痛みに霞んだ頭と、追い詰められた状況は郷二の心を大いに乱す。


「知ってるのか?お前は知っているのかッ!?この恐怖を!」「異質なもの、外れた理、冒涜的なあの神を」「怖いんだ。だけど、知りたいと思って何が悪い」「知りたいと、助かりたいと、助けたいと思って何が悪いッ!あんたは……何をしたいんだ。何を知りたいんだ……」


 場に静寂が漂う。両者は動かず、相手の出方を待つ。静寂にもかかわらず、場の緊張が高まっていくのを感じる。最高潮に達した互いの力が溢れ出しそうになったその時、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。


「おいおい、両方そこらへんにしとけよ。頭、冷やした方がいいぜ」


 きししと笑う性格の悪そうな男がそこにいた。楽之助がそこにいた。


「随分とまあ派手にやってくれてんなァ」


 楽之助が部屋の惨状を見回しながら溜息をつく。


「うちのが随分とご迷惑をおかけしたみたいで、いやぁ申し訳ねぇ。電話越しでは会話したことがあるけど、初めましてと言った方がいいかな?」


 その言葉に男も合点がいく。軽薄な声に相手を小馬鹿にした態度。先日の電話相手だ。


「オレが思うに、あんたは『極地』に耐性がなさすぎる。どれだけ相性が悪くとも、繰り返し見れば『極地』っつうのは多少は慣れが入る。魔術を見た程度でそこまでのダメージを受けるってのは流石にド素人もいいところだ」


 楽之助は、男が敵ではないと判断したようだ。しかし、脳震盪を起こしたままであり、直接的な暴力に対峙した郷二は未だ興奮冷めやらぬ様子で、楽之助に食って掛かる。


「『極地』を知る黒幕に雇われた一般人って可能性もある」

「オレ達に、そんな遠いもしもを選り好みする余裕なんてねぇよ。マジで頭冷やせ」


 郷二が舌打ちをしながら額の血を拭う。不服そうだが、一応の納得はしたようだ。


「そちらさんも、オレ達が冷やかしのガキじゃねえっつうことは、このクソみたいな氷で分かってもらえたと思うんすけどね」

「……先に手を出してきたのはそっちだ」

「つい最近、死を感じるような体験をしたばかりでな、気ぃ立ってるんだ。許してやってくれよ。……オレ達は瀬戸際に立たされている。少しでも情報が欲しい。けどよ、あんな電話一本でわざわざやってきてる所を見るに、それはそっちも同じだったりしねぇか?」


 静かに、楽之助の顔を見つめる男。


「オレの名前は楽之助だ。仲間内じゃあ楽って言われることが多いな」


 あんたの名前は?首をかしげて質問する。

 男の目線が数回、郷二と楽之助の間を行き来した後、観念したように溜息をつく。


「……藤巻だ。お前の言う通り、俺も情報を求めている。少しでも多くの情報をな……」

「じゃあ藤巻さん、あんたの目的、話してくれませんか。まぁこんなクソみたいな状況です。話が長くなるとは思いますが、安心してください。ココの代金はこっちもちです」

「……別に大して長くはならない。俺の目的は……」


 男の、藤巻の目が遠くを見る。


「三年前に失踪した俺の妹、中上なかがみ波流はるを見つけることだ」


 生きていれば十七になる。そう呟く彼の目は、そこにいない誰かに向けられていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 藤巻ふじまきとおるは雑誌記者だ。落白市に生まれた彼は高校を卒業後、地元の新聞社に就職した。藤巻がその職業に就いたと知った彼を知る者の多くが、彼はなるべくして新聞記者になったのだと思った。

 というのも、彼は幼い頃から秘密を暴くという行為に心酔していたからだ。陰湿ないじめを告発し、教師の不倫を学校全体に暴露した。それだけなら、正義感を持った子供のやることだと考えることもできた。しかしこれらの秘密を暴いた方法、そこに問題があった。

 藤巻がいじめに気づいた時、彼はいじめられていた少年の許に行き少年をいじめている犯人が誰なのか質問した。しかし、少年はいじめっ子からの報復を恐れ、その質問に答えなかった。何度質問しても怖がって頑なに答えようとしない少年に対し、藤巻は突如として暴行を加えたのだ。何度も殴打し、その度にいじめを行った者の名前を質問した。

 不倫に関しても彼はおよそ一か月に及ぶ張り込みや尾行を繰り返し、大量の証拠をそろえた上で告発に乗り出した。子供のやることでは説明がつかない執念。行き過ぎた執念だった。

 結果として彼に友達と呼べるような存在は一人もいなかった。近所付き合いに関してもそうだ。そんな子供がいる家と仲良くなって、なにを暴露されるか分かったものではない。

 藤巻は孤独だった。

 しかし、藤巻が新聞社に就職し実家を離れてすぐ、あることが起きた。母親の再婚だ。彼の父親は、彼が幼い時に交通事故で亡くなっている。そして、その母親の再婚相手には子供がいた。義理の父親の一人娘。藤巻の義理の妹になる中上波流だ。

 当時八才だった彼女は意外なことに藤巻に懐いた。人付き合いがお世辞にも良いとは言えない彼に子供と遊ぶ能力などあるはずもなく、むしろ藤巻は突然できた妹を邪険に扱っていた。

 しかし小学生であるにも関わらず電車に乗って藤巻のアパートにまでやって来るその行動力は、義理とはいえ藤巻の妹らしいものと言えた。アパートのドアの前に退屈そうに座る妹を見つけた時、帰宅した藤巻は思わず笑ってしまい、それ以来彼にとって波流は唯一、大切に思える存在になったのだ。

 事態が変わったのは彼が二十六才の時。彼の勤めていた新聞社が大規模なリストラを行った。傾いた会社を存続させるための苦肉の策。その中には藤巻の名前もあった。子供の頃よりも多少落ち着いてはいたが、藤巻の取材は強引な所が多々あり、会社にとっても藤巻は目の上のたんこぶのような存在だったのだ。こうして、彼は八年勤めた新聞社をやめた。しかし暴露を生きがいとする彼にとって会社は重要ではない。またどこかの新聞社や雑誌出版社に勤められればそれでいい、そう考えていた藤巻だったが思わぬ障害が現れる。どこの会社も彼を雇わなかったのだ。彼の悪評は落白市に留まらず、県内の出版業界に至るまで知れ渡っていた。

 数か月の就職活動の後、彼は上京を決意した。自分の悪評が知られていない東京でなら変わらずこの業界に残ることができると判断したからだ。

 藤巻徹は二十六才。中上波流は十三才、中学一年生の時だった。

 藤巻が上京する日、N駅には藤巻と波流の姿があった。最後まで藤巻が上京することに反対していた彼女だったが、最終的には、夏休みと正月には帰省することを藤巻に約束させ、渋々ながら納得し見送りに来たのだ。涙目の彼女に藤巻が苦笑いし、彼女の頭を乱暴に撫でまわす。髪が乱れたとわめく彼女だったが、その顔は恥ずかしそうにはにかんでおり、出発のベルが鳴る時には、いってらっしゃいと小さく手を振って笑顔で送り出してくれた。

 そして、その笑顔が藤巻の見た最後の彼女になった。

 上京後の藤巻は仕事に忙殺された。圧倒的な人口の多さ、混沌渦巻く人の闇。それらを暴くことは多忙を極めたが、それと同時にこれまで以上のやりがいを彼に与えていた。

 それは、約束していた夏の帰省をすっぽかす程。そもそも夏休みなど一日もなかった彼にとって帰省など夢のまた夢だったのだが、何度も電話を掛けてよこしていた波流は心底ご立腹でなだめるのに苦労した。数時間に及ぶ説得の末、お土産をたくさん買って帰ることを条件になんとか納得してもらった。かわいい妹に会うことはできないが、彼にとってその数か月は充実した日々だった。出先で見つけた珍しいものを集め、一つ、また一つとお土産を増やしていく。正月はちゃんと休みを取ろう、そんなことを考えていた矢先のことだった。

 警察からの連絡で実家の火事を知ったのは。

 深夜遅くの出火。放火による出火。焼け跡からは両親と妹の遺体が見つかった。

 藤巻は最初警察がなにを言っているのかわからず、淡々とその話を聞いていた。白く飛んだ頭が内容を理解した時、彼は駆けだしていた。駅に向けて、家に向けて、妹の所へ。

 落白市にたどり着き、彼の目に飛び込んできたのは全焼し、黒ずんだ灰になってしまったかつて住んだ家だったもの。震える足を抑え、警察に向かった藤巻に伝えられたのは、遺体への面会はできないというものだった。遺体の損傷が激しく、面会は家族であったとしてもはばかられる。そう伝える警察官に対して藤巻は怒鳴り声を上げた。一度も見ることなく彼女の死を受け入れることなど不可能だった。

 結果として面会は認められず、暴力を働こうとしたとしてその場に取り押さえられるまで、彼の怒号が警察署にこだまするだけだった。留置所を出た時、彼に渡されたのは三つの骨壺だけ。警察が言うには遺体は父方の親族に引き渡され、既に葬儀は執り行われたという。

 ぼろぼろに崩れた骨だけでは到底納得なんてできる筈もなく、藤巻は市内のホテルに宿をとり、寝る間も惜しんで捜査を行った。

 昔のコネをフルに使い、警察の捜査内容まで手に入れ掴んだ事実。それはあまりにも杜撰な捜査内容だった。ろくに行われていない現場検証、聞き取り調査。そしてなによりおかしかったのが、何処を探しても波流の検死結果が添付されていなかったことだ。

 警察の捜査内容、現場で作業した消防士への聞き取り、当時もっとも早く現場に駆け付けていた近隣住民、それらから推理された結論は、つまりはそういう事。

 中上波流は死んでいない。しかし彼女は忽然と何処かへ消えてしまった。

 この結果にたどり着いた時、藤巻は歓喜した。しかしそれと同時に手詰まりも感じていた。どれだけ探ってもそれ以上のことが分からない。波流のもとにたどり着けない。

 焦りの日々。

 パソコンに溜まったメールは三百を超え、職場からの電話はしばらく前に途絶えていた。無断欠勤が二週間になった時、彼の心は限界だった。どれだけ探しても波流はいない。どこにもいない。パソコンの前に座り、放心して数時間を過ごす。そんな状態が続いたある時、一件の未読メールが目に入る。

 仕事用のアカウントではない。プライベート用の数年使っていないアカウント。そんなアドレスを知っている者など限られている。かつての新聞社の同僚が数名、高校時代に必要にかられて連絡先を交換したクラスメイト、そして、波流。

 ハッとし手が動く。メールを開く。そこにあった差出人の名前、その名前を見た時、自然と涙が湧きだしていた。中上波流、妹の名前がそこにはあった。

 急いで中身を確認する。メールの受信日は二週間前、火事のおこった数時間前だった。

 焦る心を必死に抑え、メールの本文を確認した藤巻の背筋が凍り付いた。

 目に映る無機質な文字。そこにあった、冷たい文字。

『私を探さないで、調べないで。いつか現れる勇気と正義を持つ人達が現れるまで。』

 拒絶の言葉がそこにはあった。そしてその短い文章の下にある添付されたデータ群。しかし、それらを開こうとしてもパスワードを要求され開くことはできなかった。

 藤巻の拳が強く握られる。何らかの意思が見える警察の捜査怠慢、隠蔽。普通ではありえない手続きの数々に、藤巻もこの事件には相当な闇が隠れていると早い段階で気づいていた。しかし、妹を救うためリスクの全てをかなぐり捨てて藤巻は捜査を行っていた。そんなもの、あの笑顔をもう一度見るためなら、リスクになどなりえなかった。

 だけど。波流は聡い子だった。昔から物事をよく見ている賢い子。不出来な自分と違い、あの子はいつも大局を見てすべきことをする。そういう子だった。

 本当ならこのまま捜査を続けたい。今すぐあの子に会いたい。

 だけど、あの子が、一度として選択を間違えたことのないあの子が、引けというのだ。

 不出来な自分と、信じるあの子。

藤巻は握り締められた拳から血が滴っていることも気にせず、結論を出した。東京に戻ることを。引くことを。波流の言うことを聞くことを。

 それが正しい選択だったのかはわからない。しかし、東京に戻り、藤巻は普段の生活に戻った。事情を知った会社からは無断欠勤のお咎めはなく、今まで通り働くことができている。秘密を探し出してはそれを暴き、暴露する日々。藤巻は仕事に勤しんだ。休む間もなく仕事をした。余計な事を考えなくていいように、あの子のことを考えなくていいように。

 そして三年がたった。

 藤巻も三十才になり若手とは言えなくなってきた。相変わらず仕事に忙殺される日々を送る彼が久しぶりの休暇をもらい、けれど何もやることがなく、いたずらに味も分からぬ度数が高いだけの酒を煽っていた。

 その時、電話がなった。非通知。どこの誰ともわからぬ相手。しかし仕事柄こういった電話は多々あった。タレコミ、脅迫、そういった類のものだ。

 今回は何だ、そう思いながら出た相手の言葉は、彼の頭の霞みを吹き飛ばす。

『勇気と正義を持つ者』

 何百と読み返した一文。電話越しに伝えられたその言葉が今の彼が生きる理由の全てだった。

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