第5話

 誰かに頭を撫でられる感触で目を覚ます。場所は楽之助の寝室。地下にあるこの部屋には太陽の光は差し込まず、机の上の消し忘れていた電気スタンドだけが小さな光源となっていた。

 今何時だ?目元をこすりながら枕元にあるはずの目覚まし時計を見る。

 しかし、郷二は既に時間を確認しようとしていた事など忘れ、ある一点を呆けた顔で見つめていた。上体を起こし、なぜか左の手だけを所在なさげに持ち上げたままにしている少女がそこにはいたからだ。左手を左右に揺らした後、何かをごまかすように下ろし、


「お、はようございます」


 そう挨拶をした。


「…………おはよう…」


 なんと返事をすればいいのかと一瞬答えに窮した郷二だったが、最終的には半ば思考を放置してそのまま挨拶を返した。


「……あぁー…昨日の夜、ここに座って君と少し話をしたんだけど、どうやらそのまま寝てしまったみたいで……ごめん」


 少女としては見知らぬ場所で目を覚まして隣に知らない男が寝ていたら恐怖しかないだろう。回り始めた郷二の頭がそう判断し、まずは謝罪からはじめた。


「い、いえっ、昨夜のことはわたしも何となく覚……えて、ますんで……」


 首を振りながらそう返す少女の顔が、言葉を発するごとに俯いていき、赤くなっていった。自分が手を握っていて欲しいなどと言ったことを思い出したのだろう。


「……昨日の夜は君も不調だったろうし……そういう時は心細くなる、ものだし、別に気にしなくていいよ」


 少しでも少女を落ち着かせようと試みていたが、これまでの人生で年下の少女と話す機会など、妹と話す時を除いて殆どなかった郷二にとってそれは何よりも難しく感じた。

 少女の消え入るような、はい、という返事の後に続く沈黙。無言。


「……な、なまえっ。名前はなんていうん……いうのかな?」


 互いに自己紹介をしていないことに気づいた郷二が、話題の突破口にと質問する。話が途絶えないよう当たり障りのない話題をふった。

たり障りのない話題。そのつもりだった郷二に少女はきょとんとした顔で、こう返した。


「わたし……の、名前はなんていうんでしょうか?」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 記憶喪失。

 少女は記憶を持っていなかった。確認のため幾つか質問をしてみるも、彼女の記憶からは自身の名前や境遇、照明器具やボールペンなどといった一般常識までもが欠如していた。

 一体どういうことなのか。口元に手をやり、深い思案に沈もうとしたその時、少女の目が、記憶の確認のために使ったボールペンにチラチラと向けられている事に気づいた。

 郷二のよく知る好奇の目。

 郷二が、ボールペンと手帳を手に取り、インクを出しさらさらと筆を走らせる。

 彼の手元を覗き込んでいた少女が目を輝かせている。これまでの不安や困惑が張り付いていた顔と打ってかわって、とても楽しそうに笑っていた。


「こういうの、好き?」

「はいっ、実はさっきから部屋の中のものすごい気になってて……」


 どこか恥ずかしそうにそう語る少女は目をあちこちへ走らせ、好奇心いっぱいといった様子だった。その知識欲あふれるさまは自然と郷二の共感を呼ぶ。

 少女の輝くその瞳に、郷二は自身と同じものを感じていた。


「君……いいね。すごい、センスあるね」


 テンションの上がってしまった郷二が、誰目線なのかわからない発言をする。

 その時、少女の右手が目覚まし時計を抱えていることに気づいた。


「あ、その…目を覚まして最初に目に入ったのがこれで……すごく気になってしまって」

「いやいや、全然いいよ。気になったものは何でも質問していいからね。それは時計っていって三本の針で現在の時刻を、あら…わし……て…」


 午前八時四分。今日は、金曜日で……


「やばいっ、遅刻だっ!」


 郷二の飛び起きた反動で揺れる少女が青い顔になってあわあわする。


「ご、ごめんなさい!」

「あ、ぇ…いや君が悪いんじゃなくて、人間社会に裏切者がいることが分かった以上、僕らはなるべく普段通りの行動を心掛けなくちゃならないから……いや、そんな事君に言ってもしょうがなくて……ああー、その時計の短い針がてっぺんに着くくらいで一回帰ってくるから、待っててもらっていい?この部屋のものなんでも見ていいから」


 体を数回ぶつけながら、荷物をまとめてリビングにつながるドアに手をかけた郷二。


「待ってください!」


 大きな声に引き留められる。

 少女は、あの…と少し言い淀んだ後、小首をかしげて尋ねた。


「あなたのお名前は、なんていうんですか?」


 郷二は自分が彼女に質問をするばかりで、自分の名前を言っていないことに、その時初めて気づいた。おずおずといった様子で郷二の返事を待っている少女に向きなおる。


「空郷二。郷二が名前…です」

「キョージ……ソラ、キョージ」


 少女が郷二の名前を口の中で反復する。何回か小さく練習するようにその名前を唱えた後、パッと顔を上げ郷二の目をまっすぐに見た。


「いってらっしゃい……キョージ」


 郷二は息をのむ。優しく微笑む少女の笑顔が、その声が、郷二の心に響いていた。


「いってきます」


 ただ、そう返すことしかできなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 太陽が傾き始め、夕刻が迫り始めた時間帯。郷二と楽之助、そして珍しいことに灯美、三人は一日の勉学を終え、帰路についていた。不満顔の楽之助、気まずそうな郷二、ニヤニヤと笑う灯美、三者三様の顔を浮かべ浩幸軒へと歩を進めている。


「昨日洞窟の中に潜り込んだのが俺達だってバレねぇように、いつも通りの行動を心掛けないといけないっつったのは、お前ェだよな」

「……あぁ」

「お前らにベッド譲ってリビングで寝袋に潜って寝てたオレを、寝坊した自分を棚にあげて叩き起こしたのもお前だよな」

「……わるかった」

「昼、あの子にメシを持っていって、あの子が興味を示したものについて解説してたから六限終わるギリギリまで帰った来なかった奴は、誰だったかなぁ?」

「……しつけぇ……」

「あ?」

「にしても、ほんと珍しいこともあるもんだねー」


 機嫌の悪い二人に全く物おじせず切り出す灯美。

 一触即発の二人だったが、間に挟まる灯美の言葉にとりあえず停戦する。


「なにが?」

「だってさぁ、あの郷二が、人にそこまで興味を持つなんて。これが珍しいことじゃなかったらなんて言うのさ。しかも相手はちっちゃな女の子っ!」

「はッ!ほんとびっくりだよなァ、まさかこいつがロリコ」

「死ね」


 灯美は目の前で繰り広げられる友人達のケンカを、ケタケタ笑って見ていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「があいいいっ!」


 恐らく、かわいいと叫んでいる灯美がベットに腰掛ける少女に抱きつき頬ずりをしている。少女の方は困惑と羞恥を混ぜたような顔で両の手をわたわたと振り回していた。


「……離れろ、理性を取り戻せ」。

「え、え、でもかわいくない?かわいいよ?」

「いやお前昨日見てるだろ」

「えぇ……昨日この子衰弱しきってたじゃん。こんなことできるわけないでしょ。そういう発想になる所、犯罪者の素質あるよね、楽ってさ…痛い、痛いって!肩の肉もげそうっ!」


 どう考えたって灯美に非がある会話。

 関わらないでおこう、心の中でくわばらと唱えながら机の上に置かれた幾冊もの本の山を見る。郷二達が学校に行っている間に少女が読んだ本の山だ。合わせて十冊ほど。少女は日中の短い時間でその全てを読み切っていた。しかも、昼休みに少女の許を訪ねた時にされた質問は本の細部まで把握していなければ出てこないような質問ばかりだった。

 異常なまでの吸収速度、貪欲とさえ呼べる知的欲求。

 彼女のポテンシャルに気付いた郷二は、初めて対等に話せる相手を見つけたのだと知り、つい時間も忘れて語り合った。その結果が六限目までの大幅な遅刻なのだが。

 楽之助に肩を握り締められている灯美が悲鳴をあげている。おろおろとしていた少女が慌てた様子で止めに入る。


「あ、あの、びっくりしただけで、わたし大丈夫です。放してあげてもらえませんか?」

「言われてるよ、楽!放しなって、痛ったッ!抉れた、抉れたよ!」


 少女の言葉を聞いて手を放した楽之助だったが、わめき続ける灯美に苛立ったのか、彼女の肩を抉るように突き飛ばしていた。


「大丈夫ですか?」


 突き飛ばされた衝撃でベットに座り込んだ灯美の肩に手を置き、心配そうに見つめる少女。


「えー!可愛いうえにやさしいっ親切っ!大人!つまり、ちょーかわいい!!君名前は……わかんないんだっけ。私はねぇ、灯美っていうの。灯美でいいよ」

「……トーミ」


 少女がおずおずと灯美の名前を呼んだのを見て、灯美の手がわなわなと震え、再度抱き着こうとして楽之助に首根っこを掴まれている。郷二は三人の会話を横目に見ながら机の上の本を見ていた。昼に少女と語り合った時には時間が足りず話せなかった事がまだまだある。郷二は心を弾ませながらそれらをあさり、どれについて語ろうかと顔をほころばせながら思案していた。その時、机の上に置かれたものに目が留まる。開かれた、手帳。

 凍り付いた。驚愕に背筋が凍る。

 その手帳は、今朝、郷二がボールペンの説明のために使い、そのまま忘れてしまっていた手帳。郷二が普段から使っている手帳、昨夜から未完成の想起図の補完作業を進めていた手帳だ。

 郷二の見つめる先、手帳の中身。そこには未完成の想起図があるはずだった。

しかし、そこに描かれていたのは……


「…君……これ……」


 灯美達とじゃれあっていた少女が、はいと何気なく返事をして振りむき、郷二の手の中のそれを見る。つられて振り返った二人も少女の目線の先を追い、凍り付いた。


「これを……完成させたのは、君か?」


 郷二のひきつった顔と、凍り付いたまま動かない隣の二人。彼らの反応を見て、少女が落ち着きをなくしておずおずと答える。


「ぇ、は…はい。この部屋のものは勝手に見ていいって言ってくれたから、気になってしまって……勝手に描いたのはごめんなさい……でも、そっちの本を読んだらその手帳に描かれてる図のヌケてる部分がわかっちゃって……ごめんなさい」


 少女の声は段々と小さくなっていき最後は殆ど聞き取れなかった。

 しかし、郷二達は声の大きさなど関係なく、最後の言葉を聞いていなかった。

 『そっちの本』。彼女は確かにそう言ったからだ。『魔導書』を見つめて言ったからだ。


「これを……読んだって…言ったのか?」


 驚愕に目を見開いたまま、郷二が尋ねる。


「何ページまで、いや、気分は悪くなってないか?」


 自身が『極地』に訪れているからこそ、あの世界の汚濁ぶりを良く知っている郷二は真っ先にそう尋ねた。魔導書とは、知らずに踏み込んできたものを逃さない。読み手に『極地』とは何かを強制的に叩き込む最悪の情報媒体だ。

 しかし、少女は平然と、淡々と返した。


「全部、読みました。最後まで……えっと見開きで十九ページ……でした」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 上階へと伸びる薄暗い階段を上っている。踊り場に設置された窓は隣のビルによって殆ど塞がれており、隙間からこぼれる弱々しい夕暮れの光が地面を照らすだけだった。

 衝撃的な告白の後、驚いた三人は立て続けに質問をした。しかしどれほど質問をしても、分かった事は少女が『極地』に対してすさまじい耐性を持っている、ただそれだけ。

 最初、郷二達の少女に対する印象は、被害者のそれだった。

 氷の洞窟に幽閉され、炎の檻に囚われて、記憶喪失。三人の中で少女は守らねばならぬ庇護の対象でこそあれ、脅威になどなりえない。そう思っていたのだ。

 郷二達も、分けがわからないままこの事件に巻き込まれている。だからこそベットに腰掛けている少女も、巻き込まれた被害者なのだ。そういう前提条件で思考を回していた。

 しかしそうではない。彼女は誰よりも『極地』に近しい者、常識から外れた者。

 沈黙が、流れる。これまでのどれよりも重く、静かな沈黙だった。


「……屋上!行こうよっ。日が出てるうちにさ」


 唐突に灯美が切り出す。


「……あ、あぁ…そうだな、なるほど。この子の見覚えのあるものがあるかもしれないし、記憶喪失の範囲がどの程度なのかの指標にもなるしな」

「え、いや……こんな地下にずっといたら気が滅入っちゃうかなって…思って……」

「……ま、なんだっていいさ。行こうや」


 灯美に手伝いを受けて、お古のコートに袖を通す少女の顔は未だ沈んだままだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 そして今、四人は階段を上っている。楽之助の家が入るビルは地下が楽之助宅で一階が『浩幸軒』。二階がハオ夫妻の生活スペースとなっている。そしてその上、つまり屋上はこのビルに住む者共有の場所として解放されていた。しかし屋上は長らく誰にも利用されていないようで、そこへと続く扉は赤錆が浮き、留め金部分は固まってしまっていた。


「こんなもん、蹴っ飛ばせば開くだろ」


 どけどけ、そう言いながら一歩下がって扉に向かい合う楽之助。


「…おらッ!」


 品のない声とともに扉を蹴破る。挟まっていた錆が衝撃で崩れ、扉は勢いよく開け放たれた。郷二達のいる階段いっぱいに夕焼けの茜色が流れ込む。屋上へと続く扉は西向きに備えられていて落白市を取り囲む連峰に沈む西日をその正面にとらえていた。

 暖かな茜が彼らを包む。郷二達はその眩しい光に目を細めながら屋上へと出て行った。

 歓声を上げながら手すりに走っていく灯美を、手すりも錆びてるから体重かけんなよとたしなめる楽之助。彼らの後を郷二と少女が追随する。

 郷二も、燃えるような夕景に目を奪われていた。連峰が朱色に染まり、街を作るビル群や道路を走る車の群れ、連峰の雪解け水を送る河川でさえも一色の茜に塗りつぶされている。

 夕日は誰の心にも郷愁の念を呼び起こす。


「ここから見えるもので、何か記憶にある……」


 振り返りつつ少女に質問をしようとした郷二だったが、その声は途中でしぼみ、止められる。原因は少女の瞳。例にもれず少女もまた茜に染まっていた。彼女の夕闇の髪やそれより暗き真黒な瞳も、その全てが茜色に染まっている。その少女がじっと、暮れる夕日を見つめていた。

 少女がゆっくりと手すりの方へ歩いていく。はしゃいでいた灯美や楽之助も少女の様子に気づき、彼女の瞳を見る。他の三人と同じ、郷愁の瞳。


「……どれにも、この風景のどれにも思い出すことはないんです……だけど、だけど……あの夕日だけは、覚えてます。遠くの、連峰に沈んでいった夕日の茜は、確かに覚えています……」


 手すりを握り、彼方を見つめる少女はまるで一人さまよう迷子のよう。そう考えた所で、郷二は、いやと首を振る。少女は本当に迷子なのだ。見知らぬ土地と見知らぬ誰か、そして見知らぬ自分に囲まれて一人迷い続けるか弱き少女。

 郷二は先ほどまで彼女に得体のしれない恐怖を感じていた。『極地』の深部に迫り、何事もなかったかのように佇むその姿にうすら寒いものを感じていた。しかし、いま確信を持った。震える足で気丈に立ち、悴む手で手すりを握るその少女が、見た目通りの少女でしかないのだと。


「ユウヒ……っていうのはどうかな」

「……え?」


 少女は最初、自分が話しかけられているとは気づかなかった。


「『君』とか『あの子』としか呼べないのは不便だろう……だから、君の名前……取り敢えず、本当の名前を思い出すまでは……ユウヒっていうのは、駄目かな?」


 少女の隣に歩いていき、少しかがんで目線を合わせて尋ねる。


「目に映る全てが知らない物っていうのがどれほど心細いものなのかわからないけど、せめて自分の名前くらいは、知ってる物の方がいいかなって思ったんだけど、どうかな?」


 きょとんとしたまま、郷二の話を聞いていた少女。しかし段々とその意味を理解していって、自分の不安を分かってくれたのだと理解して、自然と両の目から涙が溢れ出した。

 涙は止まらない。頬を流れる涙の粒が、注ぐ茜にきらめきながら落ちていく。わたしでさえも知らないわたしを目の前の男の人は知ろうとしてくれた。

 それがどれだけ静かな孤独に蝕まれていた少女の支えになったか郷二は知らない。しかし、少女は郷二に抱きつき声をあげて泣いてしまう。両手を背中に回し郷二のコートを握り締める。

 迷子の子が、やっと見つけた親にしがみつき離さないように、泣き続けた。

 少女の幼き泣き姿に、楽之助と灯美も気付く。彼女がどれだけ大人びて喋ろうと、どれだけ落ち着いた態度で接してこようと、彼女は見た目通りの少女でしかないのだと。

 郷二達は彼女を匿うつもりでいた。警察に裏切者がいる現状、彼女を警察には引き渡せない。あの洞窟にさらわれる際に顔を見られたであろう少女は何処で奴らに見つかるかも分からない。そのため事件が終息するまではなるべく外には出さず、匿い続けよう。

 そう考えていた。しかし、それでは駄目だとわかった。何故なら少女は子供なのだ。何も知らない小さな子供を、傷つきやすい小さな子を、閉じ込め続けることなどあってはならない。

 嗚咽を漏らし泣きつづける少女。郷二はどうすればいいのかわからず、助け舟を求めて楽之助達の方を見ると、楽之助は郷二を睨みつけながらあごで少女を示し、灯美は郷二の目をまっすぐ見つめて力強く頷いた。

 彼らがなんと言っているのか、長い付き合いの郷二には分かった。しかし、郷二は一瞬それを躊躇して……泣き続ける少女の震えに気づいた。

 少女は泣いて、震えている。

 郷二はさっきまで躊躇していた事など忘れて少女を抱きしめた。身長差で不格好な形となったが優しく頭をなで続けた。子供をあやすように慰めるように、ユウヒをなで続けた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 太陽が連峰の向こうへと消え、コート越しでも肌寒さを感じるようになった時分。郷二達は部屋へと戻り、リビングにて机を囲んでいた。

 静かな室中で一人、郷二だけが思案に没頭している。思案。代替句についての思案だ。

 魔導書に描かれていた歯抜けの想起図、それ自体はユウヒが既に完成させている。しかし『極地』の想起と身近なものへの代替で完成する魔術において、未だ代替句が足りていなかった。最初は想起図を完成させたユウヒに引き続き代替句も考えてもらおう、そう考えていた。だが、いざやってみると致命的な問題が発生した。

 代替とは、異なる『極地』を既知のモノに置き換える。そういう過程だ。そのため記憶喪失であり、既知のモノが圧倒的に少ない彼女にとってこの作業は不可能だったのだ。

 郷二がおもむろに立ち上がる。

 机の中心には郷二の手帳、想起図の描かれたページが開かれ置かれている。その邪知の紋様を目に捕えると郷二の頭の中には、あの極寒の荒野、延々の雪原が想起され……


「『眼前を昇る悉くの白』『寒天に横たわる千里の嬰児の持つ、右側に連なる呼吸孔』」「『白き汚濁の表面に刻まれた絞殺の痕』」「『一〇〇七』『二三八』『六五二〇一』」


 室温が急激に下がる。世界が数度傾き、全てのものに薄い暗幕がかかったかのような錯覚。

 その場にいた誰もが気付いた。『極地』の近づきに、邪知の嘶きに。

 手帳を中心として、世界がそこに落ち窪んでいくような錯覚を受ける。凹んだ世界の窪みに冷たい泥が溜まっていく。きっかけは小さな氷片。卓上に小さな氷の欠片ができたかと思うとそれを中心として金属が析出するように氷の塊が形成されていった。青と白と黒でできた小枝のような氷が、競うように上へ上へと伸びていき、三十センチほど伸びた時点で止まる。出来上がったそれはさながら氷の低木。しかしそこにはそれ以上のものがあった。氷の枝が複雑に絡み合い、重なった樹枝が十桁ほどの数字の羅列を作っていたのだ。


「090……電話番号だな、これ」


 楽之助が呟く。その時、氷の低木から破砕音が響いた。正確には低木の下、手帳から。

 その音が響いた瞬間、郷二の発動していた氷が揺らぎ端から崩れ去っていった。残されたのは凄まじい速度で溶け、気化していく氷の破片とぐちゃぐちゃに破れた手帳だけ。


「あー、クソ……なるほど。想起図を描かれたキャンパスの方が『極地』の浸食に耐えられずに壊れるのか……チッ、事前に考えられることだったな……」


 魔術発動後の寒気と頭痛、郷二の必需品である手帳が壊されたことによる不快感で悪態をつき、乱暴に椅子に腰かける。


「数字覚えてるか?」

「あぁ、流石に電話番号くらいならオレでも覚えられるさ」

「その番号に掛けたらこの想起図を描いた本人につながる……そういう事か?」


 郷二は指先の冷えに手をさすりながら紫に染まった口を開く。椅子に座って事の成り行きを眺めていたユウヒが、あっ、と小さく漏らし台所の方へと小走りで駆けて行ったが、思考と寒さに頭を埋め尽くされた郷二は気づくことなく楽之助との話を続けた。


「そうとは限らねえが、他に選択肢がねえってのがオレ達の実情だろ……っし、やるか」


 首の骨を鳴らしながら携帯を掲げる楽之助。しかし、あわてて郷二が止めに入る。


「待て、何お前が電話を掛けようとしてるんだよ。僕が掛ける」

「いやいや、オレだろ。掛けるならよォ。イレギュラーの対応こそ、オレの十八番だぜ?」

「僕の方が小さな手掛かりから多くを引き出せる。知識に裏打ちされた事実を引き出せる」

「え、待ってよ。やるなら私じゃない?捜査においては場数が違うよ」


 三者三葉、ばらばらの意見。無言で互いの顔を見あう。譲る気はない、そういう顔。


「あの……これ、どうぞ」


 その冷えた空気の中、ユウヒが郷二にお茶を差し出してきた。湯気の昇る暖かなお茶。突然のことに驚き、何も考えずに受け取った郷二の手をゆっくりと暖める湯飲みの温度。

 郷二は、自分が思っていた以上に『極地』の冷気に体を冷やしていたことに気づく。


「……いつ、お茶の淹れ方なんて教わったんだ」

「さっき、キョージが代替句を考えてた時に、トーミとお話ししながら教えてもらったんです。おいしく、できてるといいんですけど……」


 はにかみながら、照れくさそうに小首を傾げるユウヒ。

 一口、口に含む。


「……おいしい」

「ふふ。よかったです」


 楽之助がニヤッと笑って携帯を掲げる。


「ユウヒ、お前はどうだ?この中だったら誰がこの電話番号に掛けるべきだと思う?あっ、電話っつうのは遠くの人と会話できるものだぜ」


 ユウヒは、わたしですか?という顔をした後、少しの間思案し、返す。


「ラクノスケが適任だと思います」


 ユウヒの思いの他はっきりとした返事に楽之助は意外そうに顔をほころばせる。


「おっ、見る目があんな!なんでそう思ったんだ?」

「キョージは震えてて万全の体調じゃないですし。さっき聞いたんですけどトーミは誘拐犯に何かをされて気を失ったんですよね。もしも電話の相手が同じような技術を持っていたら、電話越しでも危険かもしれないって思って……すみません、消去法になってしまって」


 ユウヒの意見は理にかなっていた。

 郷二達は口を閉じ、静かに驚いていた。ユウヒが頭のいい子だということには気づいていたけれど、この短時間でそこまで思考を回したのかと、感嘆に近しい感情を覚える。


「……うちのお姫さまもそう言ってんだ。オレがやる……異議あるやつは?」

「ユウヒちゃんかわいいから異議なし!」

「……同じく」


 その言葉にユウヒがチラと郷二の方を見たが、ぱっと台所の方へと振り返りお茶の準備を続けた。心なしかその後ろ姿は嬉しそう。

 携帯を掲げたままだった楽之助が素早く番号を打ち込み、間髪入れず発信ボタンを押した。その場に流れる微かなダイヤル音。楽之助が耳に当てる携帯から響くそれが五回を超えた時、相手が電話に出た。なんとか聞こえる小さな声はどうやら男性のよう。


「非通知で掛けてるのに出てもらってありがとうございます…………オレが誰かって?ははッ、それはオレが聞きたいことでもあるんだけどな。まっ、一言で言うなら……」


 楽之助がニヤッと笑って答える。


「勇気と正義を持つ者さ」

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