第4話

 灼熱の劫火が郷二の顔を照らしている。今の今まで郷二は氷の洞窟にいたはずだ。寒さに震え、恐怖に慄き、悴む手を握り締めて、灯美を探すため『極地』の洞窟を歩いていた。

 楽之助と別れて十分、灯美を見つけられず、焦りを抱えて歩いていた郷二の目の前にあかい光が現れた。

 極寒の『極地』の洞窟で存在するはずのない、燃えるような紅。

 重厚な紅炎。鎮座する紅。燃え盛る紅蓮の炎球。直径三メートルの熱の暴力。炎熱から逃れようと掲げている手も、紅炎の持つ強大な炎の威圧の前には意味をなしていない。

 そこにあったのは紅炎だけではない。炎球を取り囲む氷柱。四方から伸びる淡青の氷壁が炎を襲っていた。本来それらは隣り合うことなど叶わない、不可能の重なりだった。

 現に、炎と氷が隣接した場所では炎は萎え、氷は融解していた。しかし萎えた炎はすぐさま熱の勢いを取り戻し、融解した氷も瞬きをする間にはその歪んだ切っ先を再形成し元の姿を取り戻していた。あまりにも凄まじい力のぶつかり合い。純粋な力の本流がそこにはあった。ダムの放水を目撃した時などに感じる自分の矮小さを理解させられる、莫大な圧倒。それを百倍、千倍にしたような感覚だった。

 魅入られる。郷二は魅入られていた。炎に、氷に、その未知に。

 知りたい。

 その願望で郷二の頭の中はいっぱいで、一歩一歩と足を進めていく。進む度に顔は熱波に焼かれ、踏み出した足は凍り付く寸前まで冷やされる。見開かれた眼は網膜が焼かれるのも気にせず、炎の中心をただ見つめている。伸ばされた手は何かを掴むように空を切り……


  ……下で、

   洞窟の奥深くの深く、

     玉座にて、ナニカが、人を飲み込んだ、音がした。

   ゴクンッ、と確かに鳴った。


 急激に正気を取り戻す。その音は確かに聞こえた、郷二の人としての最も深い部分、そこに響き渡ったのだ。人が、化け物に飲み込まれる音が。熱を帯びていた眼は急速に冷え、背中には純然たる恐怖より来る冷や汗が流れていた。逃げなくては、恐怖で頭が支配される。郷二の立つ氷の地面の奥深く、そこには神がいる。人を餌としか思わない圧倒的超越者の存在に恐怖し、脇目も振らずに逃げ出そうとして、それは続けざまに起きた。

 炎の球がはじけ飛んだのだ。圧倒的な力を示していた炎球が、粉々に砕け散った。発散された炎の切れ端が周りの氷を巻き込んで方々に吹き飛んでいく。もしも郷二があと一歩右に、左に寄っていたら郷二の体はそのすべてを炭化させ、消し炭になっていた。

 それだけの熱量、エネルギー。しかし、文字通りの意味で一歩間違えていれば自分の命がここで終わっていたかもしれないのに、郷二の目線はただの一つに釘付けにされていた。

 少女。郷二の見つめていた先には真っ黒な髪の少女がいた。

飛び散る炎の残滓に照らされても、それでも真黒に染まった夕闇のような髪を湛えた少女。

 はじけ飛んだ炎球の中心に佇む、十を幾つか過ぎた齢の少女。この世の果てという言葉がふさわしいこの場所には余りにも場違いな彼女は、両の目を閉じたままで意識がそこにはないようだった。郷二は神への恐怖も忘れ、炎も氷も頭の中から吹き飛んで、ただ呆然とその少女を見つめていた。目を奪われ、心を奪われていた。

 その時、ふっ、と少女の体が揺れ、支えを失ったかのように落下を始めた。郷二は考えるよりも先に体が動いていた。少女と地面の間に体を滑り込ませ何とか落下の衝撃を抑え込む。地面には熱波で溶け出た水が溜まっていたため、滑り込んだ衝撃でそれらが跳ねる。

 透明な水が跳ね、二人を濡らす。

 郷二は腕の中の少女に目を奪われていた。胸に何かがこみ上げる。少女の閉じた目に、垂れた白皙の腕に、髪を滴る水滴の一粒にさえ言い表すことの出来ない何かを、感じていた。

 少女の夕闇の髪が一束、彼女の体からはらりと落ちる。その時になってようやくその少女が一糸まとわぬ姿であることに気付き、あわてて自分の着ていたコートを羽織らせた。

 半ば呆然としたまま動いていた郷二だったが、少女の姿に狼狽し、周りに気を遣う余裕を取り戻す。周りの景色は先程までとは様変わりしていた。炎と氷のせめぎあいをしていたその場所は、炎球の爆発によって氷の一切が吹き飛ばされ、炎自身もわずかな火の粉の残滓だけを残してその尽くが消え去っていた。

 その時、音がした。背後から近づいてくる音。一度聞いたあの音。這い寄る音がした。奴らが来る、蛞蝓どもがやってくる。

 胸の中の少女の暖かさは、郷二に、駆けだす一歩の勇気を与えた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 郷二は氷の通路を走っていた。死に物狂いで、前だけを見つめて走っていた。理由は単純、追われているからだ。郷二の走り抜けた通路の後を無数の蛞蝓が蠕動し、逃げる郷二を何とか捕えようと躍起になっている。走り始めて既に五分か十分か。正確な時間はわからない。進むごとに重たくなっていく足だけが、今の郷二の全てだった。


「郷二ッ!」


 はっ、と顔を上げる。楽之助、楽之助がいた。そこは洞窟の出口前、郷二達が『極地』を感じて膝を付き、二手に別れた地点だった。出口、自分を待つ仲間、自然と顔がほころび笑顔が浮かびそうになって、瞬間、見てしまう。気付いてしまう。楽之助の腕の中には灯美がいた。それ自体は喜ばしい事、最初の目的そのものだ。

 しかし、問題は郷二達がどうやってここに来たのか。

 バイクだ。郷二達はバイクでここにやってきた。灯美からの救難信号という郷二達にとってあり得ないものに動揺し、まずは灯美と合流することを優先しようとした郷二達の判断は決して間違っているとは言えない。小柄な灯美を含めた三人でなら、無理やりバイクに乗るという力技も可能だったのだ。そう三人だったなら。

 しかし、今ここには四人いる。郷二の抱えた少女がいる。このまま洞窟から逃げおおせたとして、奴らはそこで止まるのか?バイクが使えない現状、逃げることなど可能なのか?

 絶望が忍び寄り、歯を食いしばる。

 考えろ、考えろ。郷二の頭の中で幾つもの案が浮かび、消えていく。幾つも、幾つも浮かび、しかし郷二はそれらを振り払った。

 消極的な、楽観的な考えじゃダメだ。

 郷二は恐れていた。不確定なそれらに頼って全てを失う事を。自分を信じて待っていた楽之助を、憔悴しきった灯美を、そして郷二の胸の中のぬくもりを、失ってしまうことを。

 だから郷二は覚悟を決める。最大のリスクをとって、彼らを救う道を選ぶ。

 酷使され、今にもはち切れそうな肺を、さらに膨らませ限界まで息を吸い込み、


「……楽ぅッ!!そのままっ……逃げろっ!」


 叫ぶ。あらんかぎり叫ぶ。その叫びを聞いた楽之助は何かを叫び返そうとした。しかしその叫びは郷二の目を見て止められる。その目には諦めなどない。前だけを見つめる目。


「……クソっ、ぜってぇ追いかけて来いよ!」


 郷二の意思をくみ取り、言う通りに動いてくれた楽之助に安堵する。その時、楽之助の肩越しに灯美と目が合った。微かに震える指で郷二のことを指さす彼女。生き残れと、死んだら承知しないと、無言のままに伝わった。

 つい、苦笑が漏れる。疲労困憊の体、背後からは化け物の群れ。そんな状況でも変わらぬ友の姿に、元気づけられる。つけられてしまう。本人には絶対に言わないが。

 そして郷二は顔を上げ、やるべきことをやろうと決める。何としてでも生き残る。

 瞬間、急ブレーキを掛けた。その場に留まろうと全力で踏ん張る。アキレス腱がミチミチと悲鳴を上げるのが聞こえるがそれでもやめない。蛞蝓が迫る、恐怖が迫る。逃げようとする心を胸のぬくもりで何とか踏み留め、体中の悲鳴と引き換えに体を地面につなぎとめた。

 前を見据えた。敵を睨んだ。腕を突き出し、眼前の蛞蝓こそが敵だと示す。そして……


「『灰雪の轍が円を描く』」


 代替句を唱える。今日の夕方、郷二は言った。魔術とは『極地』を思い浮かべる想起と、この世界のもので置換する代替、その二つで構成されていると。

 今、郷二はあの世界を想起している。白き汚泥の世界を思い浮かべている。


「『連なる跪拝の白』『それは崇めるように、畏れるように』」


 郷二は言った。僕らは既に魔術を使えるのだと。

 彼の口から言葉が漏れる。言葉というにはあまりにも世界を冒涜しすぎている音の羅列。


「『その先は、標の先は、瑞花のみ』」


 掲げる手が震える。寒さの中、耐える小さな子供の手。だが確かにその手は何かに触れた。

 眼前の空間が、軋む。郷二の見つめる先、その一点で世界が捩じられた。捩じられ、皺が寄り亀裂が走る。そしてそこより漏れ出すのだ。冷気が、冷たい汚濁が。捩じられて、ひび割れて出来た世界の歪から邪知なる氷が漏れ出でて、氷の花を咲かせる。

 蛞蝓の先頭集団を巻き込み、細くなっていた通路の全てをふさぐほどの氷の花。

 瑞花は咲いた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 『浩幸軒』地下、楽之助の家。最高温度に設定された暖房、そのファンが回る音だけが響く室内に、郷二、楽之助そして灯美の三人がいた。各々、自身の椅子に腰かけている。

 暖房の温度とは裏腹にその場に漂う空気は酷く重たく、そして冷たい。

 魔術を発動した後、郷二は、悲鳴を上げる体に鞭打ってなんとか洞窟を脱出し大変な苦労ののち、こうして彼らの拠点に帰りついていた。

毛布にくるまったまま煎茶をすする灯美は、未だ本調子ではないようで、冷え切った両手を湯飲みに押し当て、少しでも温まろうとしていた。


「あの子は、寝室に?」

「あぁ。まだ目ぇ覚ましてねぇし、顔色も悪かったからベットに寝かせてる……あー、服はよ、後で灯美にでもやらせよう……で、何があったんだ。そっちはよ」


 郷二にあった事を説明しようとするも、余りに日常を超越した内容であったため説明に窮してしまう。その時、黙って話を聞いていた灯美が湯飲みから口を離して喋りだす。


「郷二……私から話すよ、時系列で話した方がいいでしょ」


 灯美は未だ何かを必死に耐えるような痛々しい顔をしていたが、口を開き語りだす。

 今日の放課後、灯美は警察の警戒範囲の隙間で郷二と楽之助が予想した地点を重点的に見回っていたらしい。しかし、一向に現れる様子のない誘拐犯とどっぷりと沈んだ夜の空を見て、そろそろ『浩幸軒』に向かおうかと考えたその時、それに出会った。


「最初は、『当たりだ』って思ったんだ。覗き込んだ路地に中学生くらいの女の子…と、その前に立ちはだかる白装束の人影を見たから。明らかにおかしかったんだ。女の子の顔は恐怖に歪んでたし、白いフードを被った人影も女の子の額を小突くような恰好をして動かなかった。すぐにこいつが誘拐犯だってわかった」


 急いで警察に連絡しようと思ったんだ。相手は大柄って感じではなかったけど私より上背があったし、私からの連絡なら警察もすぐに動いてくれるしさ。

 だけど。そう、忌々しそうに呟く。


「だけど、その時、アレが現れた。蛞蝓が路地の上から垂れてきたんだ。それを見てすぐに分かった。あれは郷二達が夢中になってるあの本……『極地』のものだって」


 一口、お茶をすする。お茶で、震える体を押さえつけるように。


「最初私は恐怖に目を逸らしてしまった。声も、出してしまってたのかも……女の子を助けなくちゃって思って気力を振り絞って前に向きなおったら、奴がいた。誘拐犯が、私の顔を覗き込んでた。目の前にいた。真っ暗で空っぽの冷たい目……顔はよく見えなかった」


 呼吸が荒く、早くなる。体が強張り、全身に力が入っているのが傍目にもわかった。


「そして奴は固まる私の頭を指で小突いて……女の子にしてたみたいにして、何かを唱えた。その瞬間、私の頭の中に冷たい……絶望を濃縮したような感情が、流れ込んできた。そして……私は気を失ったんだと思う」


 大きく息を吸って、吐く。後は、正直あんまり覚えてない。ポツリと呟くように続ける。


「車の荷台で目が覚めたけど、体は動かないし手は縛られてるしで何とか携帯でメッセージを送ったんだけど、それも殆ど朦朧とした中でやってたから……。そこから先で覚えてるのは真っ暗な森と氷の洞窟、後は、あの子の、助けを求める目、だけだから」


 呟いた口が、ゆっくり、ゆっくりと閉じられ唇をかむ。耐えるように食いしばる口と、対称的に見開かれた大きな眼から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。


「助けっ……られなかった。あの子を……ッ!私は何もできなかった……あの子っ、助けを求めてたのに!私がやったのは二人を危険に晒しただけ……それだけ……」


 流れ出る涙が頬を伝い、灯美の服を濡らす。ぐちゃぐちゃな顔で、ごめん、ごめんと嗚咽とともに謝っている。一番辛いのは、危険だったのは灯美本人だ。灯美は自分の信念に従って行動した。その灯美が涙に濡れ、謝り続けているその様は、二人に対し言い表しようのない怒りを、そう怒りを感じさせた。郷二の手にも思わず力が入る。怒りに任せて椅子を蹴って立ち上がり、感情のままに思ったことを捲し立てようとして……


「ぶっとばすぞテメェ!なに謝ってんだよ、なに……なにお前が間違ったみたいな言い方してんだよッ!違うだろ、そうじゃねぇだろお前が言うべき事はよォ!」


 楽之助が先にぶちギレた。自分より怒っている人間が周りにいると冷静になれるとはよく言ったもので、楽之助が声を張り上げた時点で郷二の怒りは既にしぼみ始めていた。

 目をぱちくりとさせ、楽之助を見つめる灯美の目には未だ涙が浮かんでいる。郷二はキレたままの楽之助を放置して自分のカバンの中からポケットティッシュを取り出した。


「お前が、言わなくちゃなんねぇのは!できなかったとか、ごめんとかじゃなくて、次は絶対助けるって言葉だろうがよッッ!一回ミスった位でへこたれてんじゃねえよ。そんなのお前らしく……オレ等らしくねえだろっ……この程度のことで、危険に晒してごめんだぁ?たかがちょっと死にかけた位でなんだよ。お前、オレ達を舐めてんのか!?」


 オレ達、その言葉に灯美は隣に立つ郷二の方に目を向ける。郷二はティッシュで灯美の顔を雑に拭く。痛そうに顔をゆがめるが、郷二はそんな事気にせずただ一言灯美に尋ねた。


「灯美は、これからどうしたい?」

「……っ!」


 郷二は怒っている。灯美のうじうじした姿は無性に郷二を苛立たせた。灯美は一瞬目をそらし、地面を見る。そして強く歯を食いしばった。今度は何かに耐えるようにではなく、何かを決意するように。灯美が勢いよく立ち上がる。真正面を睨みつけ声高らかに叫ぶ。宣言を叫ぶ。


「私は、あの神を許さない。この事件を解決してみせる。だから、二人とも絶対に死なないで」


 その言葉に、楽之助は左の掌に右の拳を打ち付けながら獰猛な笑みを浮かべる。郷二は鼻を鳴らしながら自分の椅子に腰を下ろし、横柄な態度で足を組み肘をつく。

 似ても似つかない二人だったが、


「当然ッ」


 発せられた言葉と、自信に満ち溢れたその顔は憎らしいほど瓜二つだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 郷二達がこれからの指針を定めた後、彼らは互いの情報を共有した。

 あの少女を見つけた経緯を話し、自身の行使した魔術を話した。おびただしい衣服の山を、痩せぎすの人影や本物の魔術を、最下層の神を聞いた。その後、三人は各々の意見や見解を出し合った。一つのミスやボタンの掛け違いが重大な欠陥になりうる。それを理解していたからだ。話し合いは一時間を超えて行われ、一つの推論が出された。


「やっぱりいるな……警察の中に、内通者が」


 郷二の出した答えに、灯美がうつむいたまま返す。


「……うん、奴は警察の巡回区域を知っていた。だからこそ、その外側を警戒していた私と遭遇したんだ。じゃなきゃあれだけの人数を誘拐なんてできないよ」


 灯美の志の源である警察の裏切り。その事実がどれほど彼女を傷つけているのか、二人は想像することしかできない。なんと言っていいか分からない。


「……ん?なーに、二人とも……大丈夫だよ。警察が市井を裏切ってるっていうのなら、それは私が立ち上がる理由にはなっても、挫ける理由にはならないよ」


 笑顔はぎこちないものだったが、二人は気づかない振りをし続ける。


「事態の全容に迫るため、オレ達に残された手掛かりは一つだ」


 楽之助が大仰に立ち上がり、手に持つそれを掲げる。

 白く燻んだ異なる本。そこに書き込まれた複数の記号や紋様、そして一つの文章。

『勇気と正義を持つ者へ』


「勇気は全員持っていて、正義は灯美が持っている。つまりこれはオレら宛ってこった。この紋様も、今ならわかる。魔術とは想起と代替の術。これは『極地』を抽象的に描きだし、魔術の補助として組み立てられた紋様だ」

「『想起図』と名付けた」


 腕を組んで、口を挟む郷二。


「……まぁ、なんでもいいけど……話を戻すが、この…えー、想起……図を使って魔術を起こす。それが何かの手掛かりになる。恐らくこれはそういうもの、そういう手掛かりだ」


 しかし


「郷二、この想起図は未完成。そうなんだろ」


 描かれた図を示しながら、確認するように尋ねる楽之助。郷二が肯定に首を傾ける。


「そうだ。その想起図は故意につくられたヌケがある。そのままではまともな効果は望めないだろう。恐らく、これを描いた人物は読み手を厳選しようとしている。『極地』の深部まで理解できた者だけが図に散りばめられたヒントからヌケを補完し、本当のメッセージを読めるよう」


 黙って話を聞いていた灯美が首を傾げながら口を開く。


「『極地』どうこうはよくわかんないんだけどさ……郷二はできそうなの?」

「ははっ、舐めてるのか?灯美。僕は『極地』を既に知った。三日もあれば解いてみせるさ」

「え、三日?結構かかんだね」

「あ?」

「えー、だってさぁ自信満々なキメ顔しといてさぁ……」

「はい!終わりだ、この話終わり!終わりつってんだろ郷二、立ち上がんな!キレんな!灯美もその腹立つ顔止めろっ、はい、終わり!今日はこれ以上できることないから解散っ。灯美送ってやっから行くぞ、早く来い!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 枕元に置かれた目覚まし時計は既に日にちが変わってしまったことを表していた。

 郷二は一人、机に向かっている。卓上には手帳、それと魔導書が置かれていた。郷二の顔色は優れない。それもそのはず。楽之助達が家を離れてから幾度となく魔導書を開き、欠けた想起図のヒントを探しているからだ。

 場所は寝室。卓上の電気スタンドだけに光を灯し部屋の明かりは落としていた。理由はベッドで眠る少女がいるから。あの子のそばに居てあげて欲しい、灯美が家を離れる時にそう伝えてきたからだ。あの洞窟にて、一人囚われる恐怖を知っている彼女には、少女の置かれていた状況に思うものがあったのだろう。

 その時、少女が小さな呻き声を漏らす。目を覚ましたのかと思い、ペンを置いて少女の許に近づくが少女はまだ目を覚ましておらず、呻き声は何かに耐えるように食いしばった小さな口から洩れていた。額には汗が流れ、前髪が張り付いてしまっている。両手は布団の上に出されていたが、その手は苦しみにもがくように握り締められ、酷く震えていた。

 震える少女を前にして何をすればいいのかわからない。苦しみにうめく少女の顔を見た瞬間、心が焦るばかりですぐに動くことができなかった。結果、何かをしなければと焦った末の行動は、彼女の震える手を握るというものだった。手を握ってすぐに、こんなこと役に立たない、考えなしに自分はなにをしてるんだと、周りには誰もいないのに無性に恥ずかしくなる。

 早く手を放して部屋の設定温度をあげたり、すべきことをしなければ、そう思って立ち上がろうとした時、悪夢にゆがんでいた少女の顔がどこか落ち着いたものになって瞼が少し動いた。

 その後、その目がゆっくりと開かれた。

 長いまつ毛に隠されていた瞳は彼女の夕闇の髪に同じく真っ黒た。その瞳が郷二を捉えて離さない。視線が交わる間郷二はただ茫然と彼女を見つめる事しかできなかった。

 先に動いたのは少女。郷二の握っている手とは反対、震える右の手をゆっくりと持ち上げ郷二の頭を優しく、撫でたのだ。慈愛に満ちた母の手、子供をあやす母の手だった。


「な……にを、してるんだ……?」


 突然のことで混乱が頭をまわり、その手を振り払うことも避けることもできなかった。少女は郷二の言葉に反応せず、頭に触れていた手を下げ、郷二の頬に、まなじりに指を這わせる。


「すごい……隈……」


 はじめ、少女が何を言っているのかわからなかった。しかし少女の細い指がさする自分の目元が、度重なる埒外との遭遇でうっすらと隈ができていたことを思い出し、愕然とする。


「顔色も、あまり……よくないように、見えます。どこか、悪いの……ですか?」


 少女は、寒さと恐怖に身を震わせる少女は、郷二の心配をしているのだ。自分がどれほど酷い顔をしているのか、少女はわかっていない。


「血色が悪いのもっ、体が悪いのも君の方だろうッ」


 つい大声を出してしまう。少女の献身が、痛々しい自傷のような慈愛が郷二の心を締め付けた。しかし、自分が病床の少女に大声を出してしまった事に気づき、ばつが悪くなる。


「あぁー、部屋の温度を上げてこよう。あ…とは……白湯とか作ってくるから、ちょっと待っててくれ」


 郷二はその場に居づらくなり、理由を見つけ離れようとした。しかしその時、右手が軽く引かれる。少女の手を握っていた郷二の手、その指先を少女が弱々しい力で握り返していた。一分足らずのこの会話でも彼女にとっては相当な負担になったようで少女の目はうつらうつらと閉じかけていた。朦朧とする意識の中で少女が呟く。


「火も、お水も……今はいい、ので……もう少しだけ、隣で……」


 その言葉を最後に少女は目を閉じる。けれど呼吸は安定し、先程までのような苦しんでいる様子は見られなかった。その落ち着いた表情を見て、彼女の最後の言葉もあり郷二はその場を離れるのをやめて、少女の隣に腰掛ける。

 改めて、郷二は少女の顔を見る。やはり年の頃は中学一年生かそこら。

 郷二は氷の洞窟でこの少女に心を奪われた。知ることに人生を捧げてきた郷二が初めてそれ以外のものに心を動かされた。いや、それ以上のものを少女のぬくもりに感じていた。あのぬくもりを、胸の高鳴りを郷二は知らない。

 けれど、今もつないだ少女の小さな手にはあの時と変わらない郷二を暖めるなにかがあった。そのぬくもりは日なたで温まる正午のまどろみに似ている。

 度重なる非常識との遭遇で疲労にまみれていた郷二は、ゆっくりと、ゆっくりと少女と同じまどろみの中に落ちていった。

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