第3話

 郷二達の通う高校、落白市立駆保高等学校は平野部の多い落白市の端に位置しており、高校より奥は鬱蒼とした山々がその先何キロにも渡って続いている。高校と森の狭間に当たる場所にはもう使われていない焼却炉があるだけで、もっぱら人の立ち入るような場所ではなかった。

 灯美が最後に寄越したメッセージはこの焼却炉周辺の位置情報だった。メッセージを受け取ってまだ十五分かそこら。灯美から追加の言葉はない。焼却炉周辺やその中まで確認したが灯美自身や怪しいものを見つける事はできなかった。


「……だとするなら」


 二人の視線は、鬱蒼とした夜の森の方へと向けられる。時刻は午後八時前。空は昼同様に雲に覆われているため僅かな月明かりさえもない。深く沈んだ夜の森。

 森と焼却炉の境をライトで照らしていた郷二の呟きが途中で止まる。視線の先にはライトに照らされて光る何か。屈んで手で取り上げる。

 郷二の手にはボタンが一つ。金色に光る駆保高校の制服のボタンが握られていた。


「……灯美のか?」

「恐らく。草の上にあったし、土や泥で汚れてない。少なくともつい最近落とされたんだ」

「あいつが残した手がかり……か」


 楽之助が山の方にライトを向ける。光は森の深い闇に絡め取られ、数メートル先を照らすのがやっとといった有様だった。しかし、その闇は彼らが止まる理由にはならない。


「ハッ、情けねぇあいつをさっさと助けて、一週間くらい飯奢らせようぜ」

「そうだな。この恩で、いつもは見せてくれない捜査資料とかゆすりとってやろうかな」


 二人は互いの顔をニヤリと見やり、深い森の中へと歩を進めた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 地面は思っていたより歩きやすい。草に跡がつき枝が幾つか折れている。先にここを通った人間が獣道を利用したのか、もしくは通った跡が残る程頻繁にここに来ているのか。どちらかはわからないが結果として郷二達は迷う事なくそこに辿り着くことができた。

 そこにあったのは小さな洞穴。周りに生えている草で覆われていて一見わかりにくいが、そこには人ひとりが屈まなければ入れないほどの小さな穴があった。


「郷二、そこ見ろ。ボタンだ」

「ビンゴだな。ここにも落ちてるってのは偶然じゃ片付けられないだろ」


 楽之助が穴を覗き込むがその先は何も見えない。ただ背筋の凍る冷気が漏れるだけだ。


「……突入で、いいんだよな?」

「あぁ。それしかないだろ」


 郷二の返答を聞き、よしっと声を上げて洞穴の中に入って行く。入り口付近の地面や壁は外から流れ込んだ泥で覆われており、乾いた砂利混じりのそれらは二人が足を進める度に小さな音を響かせた。進むこと数メートル。狭かったのは入り口のあたりだけのようで次第に天井は高くなっていった。横幅は人がぎりぎりすれ違える程度。圧迫感は感じれど、動きに制限はなさそうだ。今が十二月ということもあり寒さを感じてはいたが進むごとに体感温度が下がって行くように感じた。吐く息がライトの光にかかり真っ白な影をつくる。


「……郷二……なんだか、えらく寒く……」


 楽之助も同じ事を感じていたのか、寒さについて言及しようとして、言葉を詰まらせた。


「どうした?」

「……別れ道だ」


 楽之助が体を傾け、後ろの郷二に前方を見せながら答える。そこは十字路になっていた。進んできた道と直行する形で新しい道があるようだ。左右の道を伺いながら十字路に足を踏み入れたその時、突如として楽之助が膝から崩れ落ちた。


「……ッ!」


 即座に口を覆い楽之助に駆け寄る。ガス、もしくは高濃度の二酸化炭素を吸ったと判断したのだ。急いで楽之助を後退させなくては。そう思い、郷二自身もその十字路に足を踏み入れる。

 その瞬間、郷二の全身を強烈な嫌悪感が貫いた。身体中の血が凍てつくような寒さに晒され、その場にいる事に凄まじい抵抗感を抱く。頭の芯に幾つも針を刺されたかのような痛みと、それに伴う強い吐き気。尋常のものでは無いと即座にわかった。

しかし、同時に理解する。初めてでは無いと、この尋常を超えた狂気を自分は知っていると。

 『極地』、ここには『極地』に関わる何かがある。全身の震えがそれを証明していた。

 二人が『極地』の暴力に耐え、どちらともなく口を開こうとしたその時、ジャリ、と小さな音がした。瞬間、二人は言うことを聞かない体に鞭を打ち左右の道に飛び込んで、ライトを切った。その音は郷二達が来た方向とは真反対、進行方向から聞こえた。

 左右の道に体を隠し、二人は少しだけ顔を覗かせる。『極地』の匂いを強く発するこの場所に誰かがいる。ただその一点で二人は人生において最も強い警戒を抱いていた。

 道を挟んだ楽之助が、どうするんだと目で問いかける。郷二としても彼の本能の全てが脱兎の如く逃げるべきだと警告している中、ここに留まりたくはなかった。しかし、ここで逃げ帰ってしまえば恐らく灯美は助からない。額に冷や汗をかきつつ、今は待てと通路の先を目で示す。取り敢えず今から現れる誰かを確認しようと決めた。楽之助も郷二の意見に同意し、小さく頷くといつでも逃げ出せるような格好で通路の先を覗き込む。

 待つ事数十秒。

 そしてそれは現れた。最初に見えたのは白い紐のような物。ゆらりと揺れる白い紐。

 しかし、その後ろから続けて現れた体を見てその紐が、触覚であった事を知り、全身が総毛立った。体が凍りついた。それは『蛞蝓なめくじ』だった。大きさが五十センチはある巨大な蛞蝓。しかしその体はただ巨大なだけでは無い。見た瞬間、蛞蝓だと思うと同時に違うと思った。気付かされた。その化け物が蛞蝓に似ているだけであり、その本質がこの地球上の生物などでは無いことを。この化け物が『極地』より来るものであるという事を。

 硬直する二人。固まった視線は嫌でもその動きを見続けて、その嫌悪すべき対象が一匹ではなかったことを知る。先頭の蛞蝓の後ろから二匹目が現れた。触覚の付け根にある赤い目は複数付いており正確な数はわからない。

 三匹目、四匹目が現れた所で郷二はゆっくりと体を通路に引き戻した。全身が恐怖に震えている。理性の全てが今見たものを否定する。異形の異物を否定する。

 ふと左手が痛む事に気付いた。地面についていた手が恐怖によって握りしめられ、地面を抉っていたのだ。落ち着けと唱えながら泥を落とそうとした時、抉られた地面に違和感を覚えた。

 郷二はその違和感が気になり、現実逃避ということもあったのだろう、ゆっくりと地面に積もった泥を剥ぎ始めた。爪をかけて、剥ぐ。凍った泥は簡単にポロポロと剥げていく。爪の間に泥が入るのも気にせず、剥がして、剥がして、気付いた。見てしまった。

 氷。

 泥に覆われたその下は、分厚い氷の地面だった。平にならされた明らかに自然のものでは無い氷。よく見ればそれは薄らと光っているようにも見える。

 ここは氷の中。氷で作られた城の中に郷二はいる。

 呆然とする。自分がどれだけ日常とかけ離れた場所にいるのか、気付いてしまった。世界全てが郷二の敵になってしまったかのような疎外感に、底のない恐怖に。

 体が芯から震え出す。足が動かず、手が動かず。体がすくむ。

 深呼吸をする。深く、息をする。横目で楽之助を見ると、彼も同じように目を瞑り心を落ち着かせていた。開かれた目には未だ理性が残っており、前へと進むことのできる目をしていた。こちらに目線を向けた楽之助に、腕時計を指ではたき右手を三本立て最後に地面を指さした。

 今、郷二達は通路によって分断されている。もし、この通路を横切って二人が合流すれば眼前の蛞蝓どもに捕捉されてしまうだろう。

 つまりここからは別行動だ。

 『三十分後に、ココで、集合』

 郷二と楽之助の付き合いは短くない。そのジェスチャーだけで充分通じる。

 楽之助は真剣な顔付きで頷き、最後にニヤリと笑って人差し指と中指をクロスさせる。幸運を示すジェスチャーだ。そしてそのまま郷二の反応も見ずに背中を向けて駆けて行った。

 郷二も心の内で楽之助の幸運を祈りつつ、踵を返す。地の底へ、氷の奥へと、進んで行った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 郷二と別れて既に十分。楽之助は未だ灯美を見つけられずにいた。

 しかし、それでも分かった事が幾つかあった。この洞窟はどこまで行っても横幅と天井の高さが同じであり、誰かの手が加えられて作られた物であるという事だ。

 縦横無尽に交差し、合流と分岐を繰り返している道を歩く楽之助は、灯美を発見できない現状に静かな焦りを感じていた。

 幾ら進んでも一面の氷しか見えていなかった楽之助の目にあるものが飛び込んできた。それは階段。氷の壁に穴が空き、人ひとりが通れる程の大きさの階段が下へと続いていた。階下を警戒しつつその階段に近づいた時、地面に違和感を覚えた。じっとその違和感の正体を見極める。ハッとして跪き、壁の発光ではよく見えなかったそれを確認する。

 血が、一滴、その場に落ちていた。


「……」


 灯美のものだと決まったわけではない。しかし、その可能性が一番高いことは確かだ。

 階下を睨め付ける、血の続く階下を。その先へと進まない理由はなかった。

 一歩、一歩と降りていく。その度に、大きな化け物の口の中に入っていくような錯覚を覚える。しかし、点々と伸びる赤い標は続いており、引き返す訳には行かなかった。恐怖と寒さから来る息苦しさを感じながら降りていくと、唐突に階段の終わりが見えた。

 氷以外の何かが見える。一段降りるごとにそれらは鮮明になっていく。初めに見えたのは鞄。薄暗くて分かりにくいが、藍色の学生鞄。そして、それらが目に入った時、楽之助の目は驚きによって見開かれた。そこにあったのは大量の鞄や服、散らばった靴。数人の荷物ではない。十数人、いや数十人分はあろうかというそれらはただただ異質で気味が悪かった。

 魔導書、蛞蝓。立て続けに異物を見続けていた楽之助だが、ここにあったのは日常に強く結びつくそれらの残骸。ある意味では慣れ始めていた『異質』さとは毛色の違う恐怖だった。

 階段を降りきり、最大の警戒を抱きながら周りを見渡す。そこは今まで通って来た通路や階段と比べ、比較的開けた空間だった。楽之助が降りて来た階段とは反対方向に通路が続いている。

 その時、何かが、動いた。視界の端で何かが動いた。

 瞬間、後ろに大きく跳躍しその何かから距離を取る。しかしすぐさま気付く。積み上げられた服や鞄に埋もれたそれが紛れもなく探し続けていた灯美である事に。

 灯美は両手足を縛られ、積まれた荷物に体を半ばまで埋める形で倒れていた。


「灯美ッ!」


 声を抑えなければならないとは分かっているがどうしても声が大きくなってしまう。

 走りより、声をかけても体を起こそうとしない灯美を不審に思って背中を揺する。


「おい、どう……」


 震えていた。背中に当てた手から伝わる震え。それは寒さから来るものではないと何故かわかる。それは恐怖だ。恐怖より来る震え。純然たる人としての、動物としての本能。

 ゆっくりと、震える肩を引き、灯美の顔を見やる。

 両目からは絶えず涙が溢れ続け、歯の根は合わず、顔は恐怖に支配されている。鼻からは血が滴り、顔の下の衣服は既に真っ赤に染まってしまっていた。

 楽之助はその顔に見覚えがあった。

 十一月の終わりに図書館で魔導書を見つけた後、灯美も他の二人と同じように魔導書を開いている。しかしその直後、彼女はその場に崩れ落ちたのだ。魔導書を足元に落とし、虚空を見つめたまま「ぁ……」と小さな声を発したかと思うと、全身から血を垂れ流しながら気絶した。

 何故かはわからない。しかし、あの魔導書の中身に耐えられる人間と、耐えられない人間がいる。そして灯美は耐えられない人間だった。

 灯美は、あの時と同じ顔をしている。埒外の異物に触れた顔。『極地』を覗いた顔だった。『正義』を目指し、常に前を見つめる灯美の目が、今はただただ涙を流し続けている。

 その事実が、何故だか、本当に何故だかわからないが、楽之助の心を無性に掻き立てる。無二の友のその顔が、許せなかった。

 楽之助は、気づいた時には灯美の頭を胸の中に抱き寄せていた。強く、強く抱きしめる。痛いほど抱きしめる。ここには、お前の友が居るんだと知って欲しくて。数秒か、数十秒か。無音の中、楽之助は灯美を抱きしめ続けた。何も言わずにただ抱きしめた。周りの警戒なんて忘れて、抱きしめることしか出来なかった。


「…………ぃたい」


 潰れた声が響く。

 暖かな体温、鳴り続ける心臓の音、自分の事を思ってくれている友がそこにいるという事実。それがどれだけ彼女の心を温めたか、彼は知らない。

 知らないけれど……


「…………ありがと……」


 楽之助の顔を見上げ、真っ赤な、けれど涙なんてもう一滴も湛えていない目で、優しく微笑んでいる彼女を見れば、そんな事、知らなくたってどうでもいい事だった。


「……どーいたしまして。何があったかは後で聞く、取り敢えず逃げるぞ」

「……ごめん、私行かなきゃ」

「は?」


 灯美の言葉に驚いて視線を下げるが、灯美は楽之助の胸に顔を埋め、心を落ち着かせる為に呼吸を整えているようだった。


「メッセージ送ったでしょ。私と一緒に連れてこられた子がいるんだ」


 助けなきゃ、そう呟く。


「……灯美……無理だ。これは、無理だ……お前も見たんだろ、あの蛞蝓どもを、埒外の化け物どもを。周りを見てみろ、この夥しい服や靴。お前が追ってる失踪事件は、もう一人を助けてどうこうなるような問題じゃねぇんだッ」


 震える体を必死に抑えようとする彼女を、これ以上先へと進ませたくなかった。


「……だから、だからこそ、私だけは一人を救うために行かなきゃならない。ここは……ここだけは譲れない」


 譲れない、その言葉に息を詰まらせる。


「……どうしても?」

「どーしても」


 楽之助もわかっている。譲れないものは譲れない。オレらは全員譲れない物を持っている。


「……お前が死ぬかもしれない、そうなったら、どんな事をしてでも止めるぞ」

「はーい。そうならないように……っと」


 灯美が勢いをつけて楽之助から離れ、立ち上がる。


「気をつけるよ」


 手を差し伸べてきた。笑みを浮かべ、早く立てとでも言うように。さっきまでガタガタ震えていたくせに、妙に自信に溢れた目をしていた。そんな灯美がおかしくて、楽之助も釣られて笑ってしまう。笑みを湛え、差し出された手を取った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 灯美と合流してから、既に二度階段を降った。空気が冷たくなっていく。息苦しさを感じる。

 楽之助でさえそうなのだ。楽之助の手を握りしめて、隣を歩く灯美の顔は蒼白に染まっており、今にも倒れてしまいそうだ。

 やはり無理なのではないか、そう思い、口を開こうとした時、何かが聞こえた。

 それは、何かの『声』。

 二人は同時にそれに気付き、ハッと前を向く。灯美がよりいっそう強く手を握りしめ、足を前へと進めだす。歩き出した灯美を見て、楽之助も続く。しかし、本当にこのまま進んでいいのか。わからない。一歩、一歩と歩を進める度に冷気が、嫌悪感が、『極地』が、強くなっていく。この先へ進む事を全身の細胞が拒否している。

 近づく程、その声は大きくなっていった。しかし、その声は幾ら近づいても何を言っているのかわからない。声量の問題ではない。しゃがれたその声はおおよそ意味のある音を出していなかったのだ。しかし、一つだけわかる事がある。

 歓声だ。

 延々と続く歓喜の声。近づく。その内、周りが段々と明るくなっていることに気づいた。窓だ。通路の側面に開いた縦長の窓。

声は、そこから。

……見たくない。

心が覗き込むことを拒否する。わかるのだ。そこにあるものが、ソレが、この世で最も悪なるものであると。邪智であり、異物であり、不潔の象徴であると、何故かわかる。

 隣の灯美がよろめいた。体を支える。灯美を見れば彼女はまたも自分の顔を涙と血で濡らしていた。それでも、膝が震えてまともに歩けなくなっても、灯美は前へ進もうとしていた。

 見せてはいけない。灯美に、ソレを見せてはいけない。

 咄嗟に、けれど絶対的な確信を持って判断し、楽之助はすぐさま彼女を抱き寄せた。

 既に全身の筋肉は痙攣し力が入らず、気力だけで歩いていた灯美は突然抱きしめられたことによって足を取られ、楽之助もろとも転倒した。

 光漏れる窓の枠を背にするように尻をつき、灯美がその上にしな垂れるような形で倒れる。

 窓の外。窓から覗く下の方。そこにソレはいる。

 原初の恐怖。全ての人間に刻まれた、最初の恐怖、絶対的な上位者、自身の捕食者がそこにいる。幸い、いや、不幸なことに縦長の窓は地面近くまで続いており、窓に背を向けて寄りかかっている楽之助は、振り返って下を向けばソレを見ることができる。

 楽之助は、何も考えていなかった。既に極限まで達した『極地』のせいで頭は回らず、半ば反射のように振り返った。振り返った。見た。ソレを。

 『極地』の神、邪な神。

 全身を青白い皮で覆われた四、五メートルほどの醜悪な肉の塊。等間隔で体に節を持ち、尾の先に行く程、節の間隔は短く、尾自体も細くなっている。時折、全身の皮膚が波打ち、表皮の不快な柔らかさを主張する。丸々と太った蛆を連想させるその体には丸い円盤状の醜く肥大した頭がついていた。頭の先には裂けるように口があり、頭の殆どがその口で作られていた。

 そして、そして最も目を引く、赤い双眸。

 いや、二つの小さな目自体は赤くない。目、それ自体は落ち窪み眼球そのものが無いように見える。しかし、そこから湧き出しているのだ。赤い液体とゲルを混ぜたような何か。血のように赤いその汚泥は涙のように目から溢れ、閉じられた口と震える体を伝って、下へと落ちていく。

 絶えず滴る赤い涙のせいで、その巨大な蛆の周りには赤い泥沼ができていた。自身の巨体を底に沈め、体の下部二割程をその沼に浸けている。時折震える体のせいで、赤き泥沼も同時に波打ち、生まれる波紋の一つ一つがこの世全てを冒涜しているかのようだった。

 下層、氷の洞窟の中心。そこにいるのは紛れもない神だった。

 その姿は生命の冒涜、無雑なる汚濁。ソレを見た瞬間、ソレこそが恐怖なのだと知る。自分の存在が、生きている自分が怖くて仕方がない。全てを捨てて、命を捨てて、逃げようとする。心が自殺をする。心が、自ら砕け散ろうとして、

 手の中の暖かさに気付いた。

 凍りついた体を無理やり動かし、目線を下に向ける。

 灯美がいた。震える体で楽之助の服を掴み、恐怖に打ちひしがれていながらに、それでも確かな意志の篭った目で楽之助を見上げる灯美。

 自分が、此処で死んだら、灯美は死ぬ。

 『極地』に順応していない彼女は、今、此処にいるだけで耐え難い苦痛の中に居るはずだ。凍りついた心と体は彼女に不動を強いている。それでも、そんな地獄の底でさえ、楽之助の服を掴み、燃えるような意思を持ち続けている彼女が、此処で死ぬ。

 そんな事は許されない。許されてなるものか。

 振り返り、下を見る。眼下の神をその目に捉える。そして気づく。泥沼を取り囲むように群れを作る数十の蛞蝓に。そこにある二人の人影に。自分の狭窄具合が嫌になる。あの糞蛆を恐れ、何も目に入っていなかった自分の不甲斐なさに腹が立つ。

 蛞蝓どもは中心の蛆に向けて触覚を震わせ、口と思しき穴からおぞましい歓喜の声を上げている。その姿はまるで有名人に群がる狂信的ファンのよう、いや事実、狂信しているのだろう。蛞蝓にとってあの醜い蛆こそが狂うほど信じる神であり、信仰の対象なのだ。

 その跪拝の輪に入っていく人影があった。正確には、幾匹かの蛞蝓によって髪を掴まれ、引きずられるままに伏す黒い髪の少女。セーラー服を着た十代前半の見た目の少女。彼女の目に正気は無く、既に心はそこを飛び立ってしまったようだった。

 恐らく彼女が灯美と一緒に連れてこられた少女。

 手遅れだった。楽之助の口に苦いものが広がる。

 視線をその少女から外し、壁際のもう一人に目を向ける。

 蛞蝓の群れから外れて立つその姿は、ボロボロのローブに包まれており詳しくは伺い知れない。フードを目深く被った顔も影になっており見る事は叶わなかった。しかし、比較対象がないためなのかはわからないが上背は小さいように見えた。ローブの端から垂れる腕は栄養失調の子供のように細く、枯れ枝のようだ。

 他に何かないかと周りを見回していた時、少女を引きずる蛞蝓共が赤い泥沼に身を投げた。

 しかし、予想は覆される。その体が赤い泥に着く直前、周りの蛞蝓の数匹が魔術を発動したのだ。その魔術は泥沼の岸から、白蛆へと伸びる氷の橋となって、化け物共の道となった。

 あまりにも醜く、あまりにも狂っており、あまりにも魔導書の見せる『極地』のまま。氷の破片、その一片に至るまで冒涜的な結晶の塊。生命を愚弄し、尊厳を許さない。

 これこそが魔術、魔の術。

 少女を引き摺り、氷の橋の先へと、白蛆の眼前へと迫った。

 その瞬間、神が動いた。皮膚をひくつかせ、眼前の人間に呼応する様に口をゆっくりと開く。

 楽之助の背中におぞましい寒気が走る。

 食おうとしている。この蛆虫は、ヒトを食べる。

 その時、楽之助の胸で彼女が動いた。助けると決めた少女を、助けようと、灯美が動いた。

 『極地』に満たされたこの場所で灯美は体を動かせない筈だ。しかしその手を、力入らぬ震える手を、握りしめ、地面を引っ掻き、体を起こそうともがいていた。爪が禿げ、血が滲む。

 少女のために立ち上がろうとする灯美に、楽之助は驚愕とともに畏敬の念を抱く。尊敬する。

 どんな時でも他人の為に立ち上がり戦う彼女が、本当に誇らしくて堪らない。

 だから、だからこそ……

 楽之助は灯美を抱えて走り出した。逆へ、階段へ、出口へと。灯美の目が驚愕に見開かれ、その後絶望に染まる。口が小さく動き、何かを訴えるように動くが、声は出ない。

 分かっている、分かっているんだ。灯美が、どんな思いで立ち上がろうとしていたか、立ち向かおうとしていたか。だけど、それでも、楽之助は灯美に生きていて欲しかった。

 彼女の誇り高き魂を無為にしてでも、生きていて欲しかった。

 楽之助は抱きかかえた灯美の耳に顔を近づけ、


「……頼む」


 ただそれだけを言った。灯美の目から涙が溢れる。楽之助の言葉を聞いて、静かに泣いた。

 逃げている。助けると決めた少女に背を向けて、自分が生きる為に、助かる為に。

 涙を流して逃げる二人の後ろで、何かを噛み砕く音だけが、響いていた。

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