第2話

「チューモンは?」


 仏頂面の店主が怪しい日本語で話す。


「……あったけぇもんなら何でも」

「……同じく」


 暖房のファンが大きな音を立てて回っている。温かな店内であるにもかかわらず、郷二と楽之助の二人はコートを羽織り悴む手をすり合わせていた。

はっきりしない注文の仕方にハオが眉を顰めるが無言のまま調理に取り掛かる。


「ふたりとも顔色悪くない?暖房つけなかったの?」

「つけてたんすけど、このクソ寒い中を学校から歩いてきたんで芯から冷えてるんですよ」


 あの本は郷二と楽之助、それとまだ姿を見せないもう一人の友人、三人の秘密だ。他の誰にも話してはいない。ユキは壁につけられた暖房を弄りながら、あっそうだと話を続ける。


「らっくんの部屋の暖房、家を開ける時はちゃんと電源切ってる?最近、多いんだよー、火事。ここらへんでさー。あと火の玉とかもねぇ」


 ひのっよーじん、と即興で音頭をとるユキに、火の玉?と楽之助が呆けた顔で聞き返す。


「この町には狐火や天狗火って言われる火の玉の昔話が散見されるんだ。火事はよく知りませんけど、それに関連する事ですか?」

「最近市内のいろんな所で火事があってね、火事の直後に火の玉が飛んでたって言う人がいるんだって。お客さんの何人かがそんな話をしてたんだよね」

「……火事の原因が、その火の玉のせいだって言うんですか?流石にそれは……」

「いや、別に、そこまで言うつもりは……ないんだけどさ」


 ユキはキョロキョロと周りを見回した後、声を潜めて顔を近づけた。


「その火事、どーにも放火らしんだよね。火の元のない場所から出火して、不自然なくらいの早さで火の手が回ってるって。常連さんが言ってるの聞いちゃって」


 怖いよね。そう言い残してユキは注文を頼もうとした他の客の元へとかけて行った。


「楽。火事の話、灯美から聞いてる?」

「いや、聞いてねぇな。あの『正義馬鹿』が放火なんて放っとく分けねぇから、多分一人でやってんだろ。何も言ってこねぇ所を見るに、あいつだけで対処できるってこったろ」

「僕もそう思う。まぁ、今そんな話を持ってこられても僕達はやる事があるからな」


 困る。その言葉が続く前に店の扉が勢いよく開け放たれた。

 噂をすればなんとやら。


「寒いっ!今日寒すぎない?あー、お店の中はあったかいなぁ……でもまだ寒いぃ……」


 こちらに歩いてきながら大きすぎる独り言を呟き、通りがかりに暖房の温度を2℃ほど上げる。勝手にやっている。怒られろと思った。


「はー、よいしょー。疲れたぁ。ユキちゃんっ、お湯もらうよー!」


 郷二の隣に腰を掛けながら勝手気ままに振る舞う。ユキさんは離れた場所からニコニコと手を振っている。それでいいのか。


「……随分とお疲れだな、灯美」


 横目で尋ねる郷二に、まぁね。と呟きながら口に含んだ白湯にあちちと舌を出す。


「だって、郷二達はアレにご執心で最近はちっとも私の手伝いをしてくんないんだもん。コートと青っちい唇を見るに、今日も『読書』してたんでしょ?」

「まぁな。だけどオレたちゃそういう関係だ。だろ?」


 意地の悪い楽之助の言葉に、ふんっ、とそっぽを向く灯美。


「それでそっちはどうなんだ、『ミス正義』さんよ。教えろよ。さっきユキさんから聞いたぜ?」

「うっ……もうそんなに噂が広まってるの?警察でも捜査始めの段階なんだけどなぁ。私もそこまで詳しくはないよ?」

「……毎回思うけど、この街の警察はなんでただの高校生に捜査内容を開示してるんだ」


 呆れ顔の郷二に向けて、手にしたタブレットに機密であろう警察の捜査資料を表示しながら「実績っ!」と満面の笑みでダブルピースを決めるこいつ、摩々元灯美は郷二たちと同じ駆保高校に通う正真正銘の高校二年生だ。しかし高校生活のその裏で、こいつは様々な事件に首を突っ込んではその尽くを解決に導いている。その数なんと九件、捕まえた犯人は十七人に登る。

 彼女は事件を解決する事に喜びを見出さない。彼女はパトロールや悩み相談、落とし物探しなどを日常的に行なっている。つまるところ警察官ごっこだ。彼女の『正義』を追い求める姿は人々に勇気を与え、見るものによっては狂気を感じるほど鬼気迫るものがある。彼女の行動を良しとしない者も沢山いる。しかし彼女は止まらない。『正義』を貫く、貫き続ける。感謝の言葉や笑顔の為に……などではない事を郷二と楽之助はよく知っている。

 こいつは唯の『正義ジャンキー』なのだ。誰かの為にではなく自分の為に生きている。利己的な善。独りよがりな善。その彼女がタブレットを操作しこちらに渡してくる。


「先生方のご意見をお聞かせくだしゃあ」


 そう言って渡されたタブレットに表示されていたのは……


「……行方不明者名簿?」


 そこに表示されていたのは数名の行方不明者の名前と行方不明になる直前の行動、目撃情報などだった。放火に関する記述などは一つも見られない。


「あ?……なんだコレ?灯美、お前放火犯を探してるんじゃねぇのか?」


 楽之助もその内容を見て困惑した表情を浮かべ、灯美に問う。


「放火?なにそれ。今取り掛かってるのは、最近発生してる連続失踪事件だけど……」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 タブレットの画面を素早くスクロールさせる。流れる調査報告書。速読。情報確認終了。


「まとめると、放火について灯美は何も知らず、失踪事件については先々月あたりから発生していて失踪者は七人。いずれも中学生から二十代と若い女性が大半である事。コレだけの人数が居なくなって大きな話題になっていないのは居なくなった者は共通してここ最近精神的に不安定になっていたという証言があったため事件性は低いと考えられていたから……こんな所か」


 郷二はタブレットを灯美に返しながらそうまとめる。


「……たしかに、こらぁ何かあるな」

「ある。これは偶然家出が重なったなんて話じゃないよ。明確な犯人がいる。身代金の要求もない。どうして若い女性ばかりを誘拐するのか。どうやって七人もの誘拐を周りに気取られる事なく行ったのか。どう?興味出てこない?」


 灯美が大げさな身振りを混じえて必死に語る。熱心に、そして強かに。


「……灯美、僕達に手伝わせたくて僕達のツボを押そうと必死にプレゼンしてるみたいだけど、流石にダメだ。今はダメだ。そんな事に付き合ってる暇は断じてない」

「だな。例えこの事件に壮大な裏があったとしても所詮は誘拐、ただの誘拐だ。オレ達がやってんのは人智を超えた探究。まさに俺の求める『未踏』でこいつの求める『知識』だ」


 灯美は、わちゃわちゃと動かしていた手をピタリと止めて口をすぼませる。


「ちぇっ、まぁわかってたけどさぁー。あんな気色悪いものに執着する気持ちはちっともわかんないけどね。はぁー、じゃあ今できる助言だけしてよー。明日から警察も巡回を強化するんだけど、市内全部をカバーなんてできないし。最近手詰まりなんだよぉー」


 弱音を吐く事など滅多にない灯美が机に突っ伏し大きな溜息を吐く。本当に手詰まりを感じているのだろう。見かねた楽之助が小さく溜息をつき灯美のタブレットに手を向ける。


「おら、それ貸してみろ。……あー、ココとココ……あとココも候補から外していい。そこは俺の馴染みの連中が良く溜まり場にしてる所だから、何かあったら俺に連絡がくる」

「ふんふん。馴染みの不良連中のだね!私もお話してみたいから連絡先教えてくれない?」

「バーカ。なにどさくさに紛れてオレの知り合い捕まえようとしてんだよ」


 楽之助が灯美の方へと、中指でタブレットを押し戻す。郷二がそのタブレットを途中で取り上げ、先程流し読みした箇所を今度はしっかりと頭に入れていく。


「次の犯行はこの七ヵ所のどこかの可能性が高い。四ヵ所は警察の警戒区域か。三択だな」

「えっ…それはどういう根拠?勘?」

「……バカだな。そんなわけないだろ。昔読んだ犯罪心理学やプロファイリングの本に乗ってた捜査方法を使ってみた。いいか灯美、前々から言い続けているけどお前の足だけを使った捜査は非効率の極みだ。知識を使え。価値ある知識を蓄えろ。紙、粘土板、壁画。世界中に残された知識の総和を甘受できるのが今を生きる僕らの特権だ。どうしてそれを使わない?第一、」

「なるほど!よく分かんないけど、よくわかった。私が三分の一を当てればいいって事だね!ほんっと助かるよ。絶対に捕まえてみせるから。二人も一緒に警察で表彰受けようね!」


 絶対に嫌だ。楽之助の顔も嫌そうに歪んでいる。しかしそんな二人の事などお構いなしに満足げな顔で、うん。と力強く頷く灯美。なんだそれは。

 そこに注文を取り終わったユキがトコトコと近づいてきた。


「とーみちゃん、おかえんなさぁい」

「たっだいまぁーっ。ユキちゃん今日もめちゃカワだね!」

「えぇー、とーみちゃんの方が可愛いよぉ」


 きゃっきゃっと非生産的な会話。自分には理解できない物だなと横目でそれを見る。


「それにしても、ほんと三人とも仲良いよね。いつも一緒の仲良しグループだね」

「仲良しグループ?ハッ、まさか。オレたちゃ互いの利益の為に一緒にいるだけですよ」

「利益?」

「そう。利益!」


 予想と違った返事にユキが首を傾げ、楽之助が大仰な手振りを交えてそれに返す。舞台上の役者のような口上で、嬉々として語り出す。


「高潔には救いを、悪徳には罰を。そんな馬鹿げた『正義』を盲信し、猪突するコイツは、悪を挫く為にオレの経験を、郷二の知識を利用してるだけだ」


 『正義』の盲信とまで言われた灯美だが、変わらず涼しい顔で湯呑みを傾けている。気にしていない……のではない。ただわからないのだ。己が信じる『正義』を理解できない周りの人間がわからない。空気や水と同じように、そこにある。彼女にとっての『正義』とはそういうもの。故に、盲信。故に猪突。それが彼女、摩々元ままもと灯美とうみ


「未知を既知へ、それだけの人生。『わからない』その言葉を何よりも嫌悪し、そして何よりも渇望する矛盾。だから俺らの隣にいる。何故ならオレらは未知だから。社会の爪弾き者の歩みは未知に溢れているから」


 郷二は特段否定しない、あたっているからだ。既知の蓄積とは尊ぶべきもの。未知の這い寄りは身震いの象徴。故に彼はページをめくる、目を巡らす。それが彼、そら郷二きょうじ


「予定調和が何より嫌いだ。暗中を進むことが楽しくて仕方ない。万人に使い古されたありきたりな人生なんて何になる。人は、歩く道くらい自分で作ってようやく人だ」


 一寸先の闇は彼にとって玩具箱でしかない。目を見開き、暗中を走る。壁を恐れず、躓きを恐れず、ふと現れる未踏の場所に足跡を刻む。けれど止まらない。走り続ける。いつか壊れてしまうまでその足は止まる事を知らない。それが彼、一陰いちかげ楽之助らくのすけ


 端的に言って社会不適合者。ゴミが部屋の隅に溜まるのと同じ。それが僕達だった。


「……んー、つまり……みんなは仲良しだけど仲良くないってこと?えー?仲いーとおもうけどなぁー、気が合うから一緒にいるんだよ、きっと、絶対!」

「……まぁ、別になんでもいいですけどね。僕は」


 仲良しかどうかの水掛け論なんていう不毛すぎる事はしたくない。楽之助も同じ事を思ったのか、へっ。と自嘲気味に一息漏らし湯呑みに口をつける。

 その時、ドンっ!と郷二と楽之助の前に料理が叩きつけられた。坦々麺と麻婆豆腐。凄まじい湯気の中でゴポゴポと音を立てる赤黒いそれは明らかに普通の辛さではない。そもそも粘度がおかしい。湯気が、目や鼻に入り込み、ズキズキとその存在を主張する。

 注文の仕方が……悪かったかもしれない。


「バッカだぁ!なんでそんな辛そうなの頼んだの?うわっ、やっばいね。それ食べ物?」


 灯美が他人事だと思ってきゃっきゃっと弾む声で茶々を入れる。対面するハオの顔は大量の湯気に隠れて見えないがきっといつもと変わらない仏頂面だろう。


「トーミ。チューモンは?」


 ひとしきり笑った灯美が、んー……と壁のメニューを眺めて考え込んだ後、


「なんかあったかいやつくださいな!」


 数分後、ユキは突っ伏する灯美を見て「ほらー仲良しじゃん!」と大きな声で叫んでいた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 郷二たちの高校、駆保高校の校門を出て百メートル足らずにある脇道、そこを進むと小さな喫茶店がある。民家を改装して作られたその店は昼間は近所のご老人の、夕方からは駆保校生の溜まり場となる。


「これは中三の冬、十二月の頭あたりに郷二と二人で屋久島に行った時の話なんすけど」

「ほうほう。……ん?十二月の頭……学校は?」

「まあ、それは置いといて。その時俺らは縄文杉よりでかい杉を探しにいってたんすよ」

「置くな置くな、不良ども。……え、ていうか何その目的?バカなの?」


 楽之助が楽しげに談笑しているのは喫茶店『branch』の店主。首から下げた手書きの名札には可愛らしくも達筆な文字で笹花ささかと書かれている。二人の談笑は続く。

 しかしひとしきり話して笑った後、でもさ、と優しい笑顔の笹花が諭すような声で言う。


「あんま面白がってるだけじゃダメだよ。みんながしてない事をするのは楽之助の心を豊かにしてくれるけど、それはみんながやってる事をしなくていい理由にはならないんだよ」

「で、でも……つまんないんすよ。みんながやってる事をやっても、楽しくないんです……」


 楽之助は他の誰かにこんな事を言われても笑って曖昧に同意したり、はぐらかすだけだろう。しかし笹花の言葉は楽之助に届いているようだった。


「みんな楽しい事は好きだよ。人生を楽しくする為に、人は生きてるんだと思う。だから楽しい事をもっとしたいっていう楽之助は正しいし、行動できるのもすごいと思う」


 それができない人も沢山いるから、そう呟く笹花の顔はただ上辺だけではない、積み重ねてきたものを感じさせる大人の顔だった。


「楽しい事がいっぱいある人生は楽しい……だけどね、全部が全部楽しい事しかなかったら、本当に楽しいと思える事がどれだかわかんなくなっちゃうんじゃないかな……それはきっと悲しい事だと思うんだ」


 そう話す笹花の言葉はただただ優しいもので、コポコポと沸くサイフォンの音だけが甘やかにその場に満ちていった。何かを考えるように静かになってしまった楽之助を見て、困ったように笑い、茶化すような口調になる。


「つまり!世の高校生がやるようにバイトに精を出してみるとかさ!ちなみに当店はいつでも働き者の店員さんを募集してますっ」

「……うちの学校、バイト禁止っすよ」

「うぇえっ!?こんなに近いのに誰もバイトしてくれなかったのは、それが原因!?」


 昔はよかったんだけどなー、とぶつぶつ呟く笹花を見て楽之助はつい顔を綻ばせる。


「……考えて……みます」


 俯いたままそう溢す楽之助。新たなバイトをどうするか、そんな事を考えていた笹花は、楽之助の言葉に一瞬キョトンとした顔になるが次の瞬間には満面の笑みになり、わしゃわしゃと楽之助と郷二、二人の頭を乱暴に撫でた。

 俯く楽之助の顔は、薄らと頬を上気させ、まるで恋する乙女のよう。

 そんな中、本が読みにくいから揺らさないで欲しい。郷二はただそんな事を考えていた。

 機嫌を良くした笹花が楽之助と郷二にお代わりの一杯をご馳走した後、郷二が楽之助に、帰って『読書』をしようと催促した為に早めの帰路につく事となった。ドアベルの音を響かせながら閉まる扉の向こうで、笹花が楽之助達に手を振っている。楽之助もそれに小さく振り返し、郷二は小さく頭を下げる。バタン、と音を立てて閉まった扉の前で、楽之助は小さく息を吐く。

 動こうとしない楽之助。先を急ごうとしていた郷二が振り返りどうしたと目で問いかける。曇天に覆われた空を見上げる楽之助は郷二の疑問に答えるでもなく、一言ポツリと呟いた。


「俺……笹花さんのこと、好きなんだと思う」

「……知ってるよ」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 明かりの灯った地下室。いつもの楽之助の部屋に不機嫌そうな声が響く。


「昨日読んだページで終わりだって、お前が言ったと思うんだけどよぉ」


 もう少し『branch』で笹花と駄弁りたかったのだろう、露骨に機嫌が悪い。


「だとしても、確認しないわけにはいかないだろう。まだ巻末までページをめくったわけじゃないんだから」「明らかな一点物の書物だから、装丁の関係で余白のページが余ってしまったのかもしれない」「現にこの本には見返しの後に化粧扉と総扉の他、空白の三ページが挟まっていた」「つまり今の装丁の常識で作られていない可能性が高くて……」

「早口できめェんだよ、読書ビブリオ性愛フィリア

「……悪かったよ、お前の艶事を邪魔する気は無かっ」


 郷二の顔目掛けて飛んできた空のマグカップを叩き落とす。金属製のカップが、無言で睨み合う郷二と楽之助を尻目に派手な音を立てて郷二の足元に転がった。


「……まぁいい。残ったページが白紙か確認するから、『読書』が始まったら後処理頼む」


 そう言って、足元のマグカップを拾い上げ目の前の机に置く。


「……は?ちょっと待て。なんで俺のマグカップを目の前に置いたんだ?」


 深呼吸をして心を落ち着かせる。嘔吐した時用のも用意した。歯を食いしばり、『魔導書』に手をかけ、『読書』の準備を整えた。


 『魔導書』は『書』と付く名前とは裏腹に文字の類は書かれていない。そこに書かれているのは、それを目にした者の脳内に問答無用で『極地』の情報を流し込むためのナニか。

 ある意味では決して本とは言えず、ある意味では本に勝る情報伝達性を有する。

 『魔導書』を読むとはそう言う事だ。だからページを開き、目を向けた瞬間、郷二は『極地』へ至りあの極寒の大地をさまようか白紙のページを見るか、そのどちらか一つになる筈だった。


「チッ、クソがよ」


 目を見張り、無言になった郷二を見て楽之助は悪態をつく。どうやら郷二は『極地』へ向かったと、まだ本には続きがあったと理解したからだ。一刻も早くマグカップをどけ、ゲロ用のバケツを用意しなければ。面倒だがやらなければ被害を被るのは自分だ。そう思い、本の中身を見ないようにして郷二に近づく。しかし、そこで郷二の顔がえらくまともで余裕がある事に気付いた。『極地』へと至った者の顔は酷く歪む。常識の外側にある物を見せられて平静を保てる者などいない。何かがおかしい。そう思って、もう一歩郷二に近づくと、


「……楽」


郷二が楽之助の名前を読んだ。突然の事にギョッとし体が止まる。郷二の意識はここにある。『極地』へ至っていない。では……では何故、郷二は目を見張り声を失っていたのか。

 困惑に絡まった楽之助の思考に、割り込むように郷二が言う。


「本を、見ろ」


 逡巡の後、楽之助は郷二の目線の先、『魔導書』へと目を向けた。そこにあったのは、記号と紋様の羅列。それはこれまで読んできた『魔導書』の内容とは違う。頭の中に『極地』が流れ込まない。だが、そこには異常があった。それは、理解ができた事。今まで一度も見たことがない筈のそれらの記号や紋様が楽之助には理解できたのだ。しかし最も目を引いたものはその周り。紋様の隣に沿うように書かれていた言葉。日本語で書かれたその言葉。


   『勇気と正義を持つ者へ』


 力強い、意志を感じる文字だった。

 言葉とは、これほどまでに力を持つものなのか。そう思うほどに。


「……郷二……それは」


 楽之助が声を発する。ハッとして目を向けると、そこには困惑した表情を浮かべた顔。きっと自分も同じような顔をしているのだろう。何もわからない。この文字を書いたのは誰なのか、どう言うつもりでこのメッセージを伝えたかったのか、何もわからない。だから唯一分かっていることだけを楽之助に伝えた。


「……これは、魔術だ」


 あの日、本を見つけたあの日に郷二が無意識で出した氷。あの邪智なる氷。『極地』をこの世界に落とし込む忌避すべき異端の術。魔の術だと、それだけは、確かに分かった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 コーヒーを啜る郷二と楽之助。彼らの前にあるのは白く燻んだ本、魔導書だ。


「魔術ねぇ……いよいよマジでファンタジーだと思うぜ」


 ハリポタじゃあるまいしよぉ。楽之助が辟易したように呟く。


「疑問に思っていた事があった。魔導書を見つけたあの日、偶然の『読書』の後、僕の掌に氷の塊が現れた。ただ魔導書を読んだだけ。お前に肩を揺さぶられるまでに七ページを読み進めてはいたけれど……」

「ここ数日の『読書』と変わんねェのに、それ以降は氷が現れてないっつうことだな?」


 郷二は無言で肯定を返す。


「同じ事をして同じ結果にならないのは、何処かで間違えているからだ」「知って知って、知ってそして考える。そうすれば全ての事はわかる筈なんだ」「だって僕はそうだと知っていて、僕はそういう風に生きてきた」「一つ、仮説を立てた。聞いてくれるか?」


 思考を捲し立てる郷二。頼れる相棒はどうやら絶好調のようだ。ニヤリと笑う。


「おうおう、聞かせてくれよ。それはオレでも、灯美でもねェ、お前の領分だ。存分にな」


 下卑た笑い。だが郷二はそんな笑い方が嫌いではなかった。全幅の信頼を感じるからだ。郷二に対しての、ではない。郷二の知識に対してだ。郷二の能力を信頼している。

 案外、こういう所なのかもしれない。爪弾き者の三人が、変わらず一緒に居られるのは。


「必要なのは、手本となる『極地』と、身近に落とし込んだ現実。つまり想起と代替だ」

「ハハッ……オレにはさっぱりだ。だが、それが良い。早く続きを聞かせてくれ」


 楽之助がプレゼントを待ち切れない子供のような顔でせがむ。


「あの日、僕は肩を揺さぶられて倒れた後、自然と口をついて出た言葉があった」

「灰雪、瑞花、跪拝。耳にこびりついて離れねェよ。思い出す度に寒気がする」

「それが一つ目。おかしいだろ。灰雪も瑞花も跪拝も普通の一般名詞だ。どうしてそこまでの嫌悪感を抱くのか、現に今だってこの単語を羅列してもどうにもなっていない。それでも、あの図書館での『読書』とこの数日の『読書』、違いはその言葉しかない」


 言葉に、何か理由がある筈だ。そこまで思案して、一息つくためにテーブルに置かれたコーヒーに手をつける。


「僕達は『魔導書』を読了した。『極地』への造詣を深めた。そしてふと思ったんだ……あの氷は、『魔術』は、『極地』から来たものではないんじゃないか、と」

「は……はぁ?『魔術』と『極地』が関係ないって?んなわけねェだろうが。おめェがあの本を読んで、そんで『魔術』は現れた。それは疑いようのねェ事実だ」

「関係がないとは言ってない。楽、お前、初めて『極地』に至った時何を思った」

「この世のものじゃねェ……地獄があるならきっとここに似ている……こんな所だな」


 その時に吐いた吐瀉物の味と口の端を滴る冷たい感触を思い出し、顔を歪ませながら答える。


「そう、それだ。読了したからこそわかる。『極地』は明らかにこの世界とは別のものだ。異世界、みたいなものだ。唯の人間があの世界の片鱗さえも顕現させることなど叶わない。ただの感覚的なものだけど……お前にもわかるんじゃないか」

「だけどよ、現にお前は『魔術』を使っただろ。……郷二、オレはよぉ、未踏を行くのは大好きだ。だけど、別に回り道が好きなわけじゃねェんだわ。結論を話せ、結論をよぉ」


 進まない話に業を煮やした楽之助が露骨に苛立ちを見せ、急かすように机を叩く。一つ一つの疑問を丁寧に潰していこうとしていた郷二は鼻白ませる。つまり、と結論を言う。


「『魔術』とは『極地』を模倣しようとしてこの世界に元々ある既存の概念で代替したもの、そうじゃないかと考える」「『極地』を想起し、この世界のもので代替する、これが全て」「『極地』をほんの少しでも引っ張り出せたのなら『魔術』が掌に氷を張るなんてチャチなもので終わる筈がない。だからあれは唯の偽物、紛い物……物真似なんだ」「極寒の雪国の風景画を見て、寒そうだと感じるようなもの……そう、共感覚が近いのかもしれない」

「……じゃあ、ハッキリとしたイメージを補完すれば、それこそ、詠唱とでも言うべきものを行えば、誰でも使えると?ウィンガーディアムって感じで?」

「詠唱ね……正確に言うなら『代替句』とでも呼ぶべきかな……そしてその質問への答えはノーだよ、楽。『極地』への深い造詣が必要になる。それがなければ唯の妄想に過ぎない……言っておくけど、自分の発言が荒唐無稽で突飛な主張だということはわかってる。だけどこの話の論拠は『魔術』を自分の身で体験した、その事実に基づいているんだ」


 別に荒唐無稽とまでは言わないけどよ、そう呟き自分の掌を感慨深く見つめる楽之助。


「その理屈で言えばよ、オレも『魔術』を使えるって事か?」

「仮説に、従えば」


 静寂が部屋に満ちる。

 どこまでいくのだろうと、ふと思ってしまったのだ。

魔導書、『極地』、魔術。彼らの日常が凄まじい速度で汚染されていく。歩き慣れたその道が、ふとした時に汚泥に塗れていたことに気づく。人の心を揺さぶるには十分な事実だ。

 その時、静寂が唐突に破られた。電子音。郷二と楽之助、二人の携帯が同時に鳴った。

 重苦しい空気から逃れようと、二人は同時に携帯を取り出し確認した。画面に映るのはLINEの通知。二件続けて届いたそのメッセージの発信者は唯一この場にいない彼女。

 メッセージの一つは位置情報。そしてもう一つは……


「郷二ィッ!俺はバイクを持ってくるっ。てめぇはヘルメット取ってこいッ!」


 二人は急ぐ、最短を目指す。二人に届いた灯美からのメッセージ。その内容は、


『おんなのこひとり、まどうしょ、なめくじ、たすけて』


 灯美からの救難要請だった。

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