極地の春

尾中ノオト

第1話

 水の沸騰する音がする。教室の後ろに置かれた石油ストーブがヤカンの水を沸かしている。

 月日の流れを感じさせる黒光りした小さな教室を暖め、室内を潤そうと躍起になっているストーブもここ数日続く寒空と古びた校舎を前にすれば気休めにもなっていなかった。

 教科書とは明らかに大きさが異なる本に目を落す少年、郷二きょうじの心は静かに沈んでいた。

文字を追う目が滑る。理由はよくわかっている。机にかけているリュックサック、どうしてもそちらの方が気になってしまう。心を乱されている。

 チョークをコトリと置き、教室を見回した初老の教師がチラと郷二の方を見て小さく溜息を吐いた。何かを言おうかと口を開いたが、口籠もり、ついで鳴った授業の終わりを告げるチャイムにまた一つ溜息を吐く。その時、教室の後ろの扉が勢いよく開かれた。


「おーっす、郷二きょうじ。授業終わったし帰ろうや」

「……まだ先生がいるし、なんなら授業の終わりの挨拶もしてないよ、らく

「お前がこの前、チャイムが鳴ったら入って来いっつったんだろ……にしても、まーた難しそうな本読んでんなぁ。ギャ…ギャノ……何それ?」

「『ギャノング生理学原書24版』、古本屋で買った生理学のテキストだ。それと僕が言ったのは『チャイムが鳴る前に入ってくるな』だ。都合のいいように解釈をするなよ」


 他クラスに入り込み、先生を鼻白ませているこいつは郷二の友人である楽之助だ。


「はーん、だけどお前、あんま集中してなかっただろ。珍しい」

「……なんで?」

「なんでって……知らねぇよ……あぁ、いや、そうか。が原因か」

「そうじゃなく、どうして僕が集中してなかったと思ったのかって聞いてるんだ」


 たった今教室に入ってきたのにどうしてそんな事がわかるのか。


「だってお前、本読んでる時に話しかけると、一回無視した後にクッソ不機嫌そうにこっち見てくんじゃん。あれやめた方がいいぜ。オトモダチが減っちまうぞ」


 相手の神経を逆なでることに特化した声色での発言の後、アメリカンのようなわざとらしい仕草で首を竦め、「やれやれ」とでも言いたげな顔を向けてきた。

……クソが。

 郷二にオトモダチなんてものが自分を含めてもたったの二人しかいない事をよく知った上で、その言葉を発しているのだ。悪態の一つも吐きたくなる。吐かないが。


「吐けよ、吐いちまえ。どうせ心の中で口汚く罵ってんだろ?お前クールぶってるけど案外顔に出てんぜ?ナイスガイさんよォ」

「死ね」

「ハッハァーッ!いいねっ!そうやってもっと感情出してこうぜ。おいっ!ココに自分の心に素直で純粋なやついんだけど。誰か友達に名乗り出る奴、いねェか!?」


 馬鹿みたいにでかい声が、開放感に包まれようとしていた明るい教室を水を打ったように静かにする。もちろん、こんなヤツだ。コイツにもオトモダチはいない。


「黙れよ、そんなんだから問題児って影で言われてるんだ」

「言わせとけよ。コソコソ言ってるヤツなんかにビビってんのか?俺は気にしネェし、俺のダチもそんなのにビビる玉じゃねえハズなんだがなぁ?どうよ?問題児ナンバー2様よ」

「……ったく、このクラスに僕のオトモダチはいないみたいだからな。さっさと行こう」

「ハッ!みてぇだなァ。灯美とうみのヤツはいつも通りの『パトロール』だ。いつも通りの時間に来るだろうよ」


 オーケー、そう返事をしつつリュックに荷物を詰め始める。その時、幾つもの本の合間から覗く底の方、そこにあったモノに目が止まる。布に包まれたソレに。

 目が惹きつけられそうになるのを振り切り、急いでチャックを閉め、背負った。


「ヤァヤァ、早く帰って『読書』と洒落込もうや」


 そう言って歩き始めた楽之助の後に続く。歩みを進める。寒さに縮こまってしまったような酷く窮屈な教室、つまらない授業、有象無象のクラスメイト。そして、友人たち。これが郷二の日常だ。退屈な事ばかりだがそれでも時に楽しいと思える、護りたいと思える日常だ。その日常の中に、唯一感じる背中からの違和感、『非日常』のそれ。


「あぁ、早く帰って、早く『読もう』」


 今、終わろうとしている。日常が、彼らの日常が終わる。安寧と諦観の入り混じった、手放し難きそれが終わる。けれど同時に始まるのだ。血湧き肉躍る『非日常』。切望し、手を伸ばしても容易くその手を断ち切り、跳ね除けようとも纏わりついてくる『非日常』が。

今始まる、血と嫌悪と冒涜的なナニカによって彩られた彼らの物語。

 あかく滴る愛の物語が。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 高校を出て既に二十分。歩く彼らの間に会話はない。ただ黙々と足を動かしている。数週間前から続く異例の寒波の影響で耳と鼻は赤く染まり、今にも千切れ飛びそうだった。


「郷二ィ、なんか愉快であったまる話してくれよ。爆笑必至のやつ」

「ない」

「……つまんねぇ奴だァ。んなだからお前には女が寄ってこねぇんだよ。一流の男なら女性を楽しませるために話題の一つや二つは常に用意しとくべきだぜ」


無視しよう。

郷二は、馬鹿に返事をしてしまった自分の失態を戒め、前を向いた。そろそろ目的地だ。


「おいおい、無視すん……ちょっと見てろよ。お手本を見せてやるよ」


 楽之助が何かに気づき、にやけヅラを浮かべて歩を速める。向かう先は郷二たちの目的地、下町の情緒を残した小さな中華料理店。そこから出てきたおかもちを持つ女性だった。


「ユキさん」


 楽之助の声に振り返り優しげな笑顔を湛えるその人が、赤い電飾で作られた『浩幸軒こうこうけん』の文字に照らされている。後ろで軽くまとめられた濡れ烏色の髪に赤がさす。


「あぁーっ、らっくんときょうくん。おかえりぃ」

「ただいまでーす」

「こんにちは」


 浩幸軒のお客の半分は彼女の笑顔のために足を運んでいると言われており、楽之助もその例に漏れないようでだらしない顔を晒していた。


「いやぁ、ユキさんは今日もお綺麗ですね。これから出前ですか?」

「そだよー。お向かいで麻雀大会やってるからいっぱい持ってかなくちゃならないの」


 後ろを振り向けば、デカデカと『麻雀』の文字を掲げるビルの中からしゃがれて不健康そうなオヤジどもの歓声と悲鳴が上がっていた。


「それはそれは、お疲れ様です」


 しかし、おっさんどもに興味はないと言わんばかりに無視し、労いの言葉を伴ってユキに近づいた楽之助がコートのポケットから何かを取り出し、彼女の手をとり握らせた。


「ん……?ハッ、これは!」

「知っているとはお目が高い。商店街一の繁盛店『邦伊代精肉店』の半額クーポンですよ」

「だけど……いいの?これ滅多に手に入らない幻のクーポン券だよね」


 ゴクリっ…そんな音が聞こえてきそうな顔。


「えぇ、いいんです。貴女のために手に入れたんですから」

「らっくんッ!」


 調子のいい事を言ってユキの手を握ろうとしたその時、ダンッ!と、店の中から凄まじい音が響いた。楽之助がやれやれとでも言うように顔を向けるとそこには仏頂面の店主、ハオが中華包丁を持って佇んでいた。ハオの手元には叩き切られた豚の背骨。因みにハオとユキは夫婦であり、彼の本場の中華料理は非常に好評でここを訪れる客の半分は彼の料理が目当てである。

 互いに睨み合う二人を見て小さく溜息をついた郷二は楽之助の首根っこを掴み歩き出す。お店に入る玄関とは別のアルミ扉を開き、地下へと続く階段を降りていく。


「きょ、きょうくんッ!今日も三人でご飯食べに来るんでしょーっ?」


 後ろからユキが階段下を覗き込み、聞いてくる。はい、後ほど。そう言って階段の突き当たりにある扉を開けた。少し埃っぽい淀んだ空気が鼻腔を通る。しかしどこか落ち着く匂い。目的地、『浩幸軒』の地下、楽之助の家、郷二たちの溜まり場。その場所に到着した。


「上の階で一日中暖房付いてっけど、やっぱ少し冷えるな。暖房に火入れといてくんね?」

「あぁ、わかった」


 郷二の手からいつの間にか抜け出した楽之助が、文句を言いながら勝手知ったる我が家へと入っていく。郷二は暖房をつけ、定位置である自分の椅子に腰かけ一息つく。


「ほら」


 待つこと数分。電気ケトルで沸かしたお湯で作ったインスタントのコーヒーを渡された。


「どうも」


 会話が止まる。部屋の中にはただコーヒーを啜る音とその匂いだけが漂っている。落ち着くひととき……ではない。楽之助は一口飲む度に残りの量を気にしてカップの底を覗き込む。郷二もしきりにカップを指でさすり、落ち着かない様子だった。

 空気が少しずつ重く、ぎこちなく、冷たくなっていく。

 楽之助が勢いよく立ち上がった。


「あー…コーヒー……コーヒーをもういっぱ


               「を読むぞ」

 

空気が凍った。帳が落ちる。日常という劇に、白く凍った『非日常』という名の帳が落ちる。


「あぁ……わかってる。やるさ、ヤルに決まってらァ」


 一瞬、郷二の言葉に気圧されたが一息でその全てを飲み込むと、郷二のカップを奪うように受け取ってシンクに放り投げ、かわりに錆びたバケツを持ってきた。


「ほらよ。今日もテメェからやんだろ?」


 そう、僕がやると決めたんだ。これを見つけたあの日に、僕が。

 カバンから布に包まれたソレを出す。机の上に置いて、布を少しずつめくる。めくるたびに指先から血の気は引き、冷たくなっていくのを感じた。悴む手で最後の一枚をめくる。背中には嫌な汗が流れている。

 白くくすんだ本、所々に黒い染みがある汚い本。大きめの上製本のように見えるそれは、ただの本ではない。


「……ッ!」


 頭の中を何かが這い回るような強烈な嫌悪感と頭痛、そして体の芯から響く確かな寒気。


「……郷二」

「……大丈夫だ。これ……くらいで根をあげる訳ないだろ。あと少しで読み終えるんだ」


 そうだ、あと少しなんだ。呼吸を整える。大丈夫だと、やれると、自分に言い聞かせる。

 本に手をかけ、その手触りに一層吐き気を強める。目を開き、ページを開き、

 『極地』に至った。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「……ッァアッ……あ、うッ!クソッ!クソがアッ」


 何処だ?どこだ?ここは、僕はちゃんとここにいるのか?寒い。震えが止まらない。肺が痙攣する。全身の筋肉が硬直し、喉の奥から内臓という内臓が迫り出しそうになる。


「郷二!」


 誰かが大きな声を出し、目の前にバケツを差し出して背中をさする。


「……うっ…」


 嘔吐した。喉の奥が引き絞られ、口の端から胃液が垂れる。バケツの中に吐瀉物が溜まる。


「……だ、ぅ…大…丈夫だ」

「今回は、これまたキツイやつだったみてぇだな」


 楽之助が郷二を椅子に座らせ、震える体に毛布を掛ける。


「……今、読んだページ。もしかしたら……これで最後かもしれない」


 確かな驚きと共に楽之助が目を見張る。


「マジか。これで読了ってことか?」

「そんな、気がしたんだ……もう落ち着いてきたから。お前も覚悟が出来たら行ってこい」


 投げやりにそう言って痛む目をつむる。脳裏に浮かぶのはあの日の事。一ヶ月前のあの日に全てが始まった。思い出す。日常が崩れ去った日を。『魔導書』を見つけた日、初めて『極地』に赴いたあの日のことを。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 コツリ、コツリと床を叩く靴の音だけが静寂の中に響く。窓の外には木枯らしが吹き荒び、落葉が空へと舞っていく。時は十一月の終わり、今は日課としている図書館での読書の時間だった。読み終えた本を元の場所に戻す為、棚の間を歩いている少年、郷二はガラス越しに見える外の景色に辟易していた。

 母が家を出ていったのもこんな寒空に覆われた日だったのだ。

 優しかった母が幼い郷二と妹を捨てたのが、こんな日だった。

 一瞬で様々な記憶が思い出され、足元が覚束なくなる。ふらつく体を棚に手をつけなんとか持ち堪える。過ぎ去ってしまった思い出に何故か泣き出しそうなほど心を揺さぶられる。

……どうでもいいだろ…過去なんて。

 郷二は自分が感傷なんてものに囚われそうになっている事に酷い嫌悪感を覚えた。凄まじい屈辱感にほぞを噛み、それらの感情が抜けるまで、必死に目をつぶり耐えようとして、棚を掴む手に違和感を覚えた。ハッとして目を向けると、ソレはそこにあった。

 白く燻んだ本。黒い染みがある本。背表紙に何も書かれていない本の形をした何か。

 思考全てが吹き飛ぶほどの何かがその本から漏れている。今まで気づかなかった事が信じらないほどの違和感。人混みに混じって談笑する化け物を見つけてしまったかのような恐怖。形容できない複雑な感情が、脆くなった郷二の心から噴き出す。目が離せない。本に伸びる手を止められない。触るべきでないと本能の全てが警告する。

 けれど郷二は手を伸ばした。恐怖で思考が止まる中、郷二は思ったのだ。

その、化け物のような本を、読みたいと思ってしまったのだ。

そして、僕は本を開く。全ての終わりへと……『極地』へと赴くために。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 図書館の自動ドアが開き一人の高校生が外の寒さから逃げるようにかけ込んでくる。


「いらっしゃい、郷二君なら今日は二階の窓際に座ってたわよ」

「上っすか。ありがとうござーます、行ってきますわ」

「はいはい……君もたまには本を読んでいったらどう?」


 司書からかけられたその言葉に楽之助は、あーと抜けた声を出した後、行儀良く並んでる文字見てると気分悪くなるんすよねぇと言ってカラカラと笑った。


『建築』『土木』『工学』

 通路を歩く楽之助。この図書館は落白市が管理、運営しているものだが、蔵書数は百万冊を超えており、その規模はかなり大きい。

『数学』『物理学』『化学』

 司書に言われた窓際の席に行ってみたが郷二は既にそこを離れた後だった。

 郷二の行きそうな棚を探しているのだが、なかなか見つからない。

『倫理』『哲学』そして……


「いた」


 通路のど真ん中で本を見ながら直立している郷二がいた。本に熱中して立ったまま読み続けているようだ。いつもいつもそんなに何が面白いのか。友として、少しは彼らのことを理解しているつもりだが、あの奇怪な友人達の根底にある物はきっと本人にしかわからない。まぁ、それはあいつらも同じように思っているんだろうがなと一人で苦笑する。


「きょーじ、そろそろ閉館時間だ。帰ろうぜ」


 郷二の横に立ち、いつものように声をかける。返事はなし。そんなに何に熱中しているのかと、上を見上げ棚に書かれた区分を示す文字を見る。そこに書かれていたのは……


「『宗教』……ねぇ」


 別段否定する気も無いが興味は微塵もわかないジャンルだ。


「おい、郷二。行くっつってんだ……あ?」


 郷二の肩に手を触れようとした時、何かを踏んだ。棚の区分表ばかり見ていて気づかなかったが、本が散乱していたのだ。紙が折れ、痛んでしまった状態で放置されている本。そんな事を、この友人がする訳がない。そして気づく。郷二の目が見開かれ全身が震えている事に。


「郷二ッ!」


 肩を勢いよく掴む。郷二の目が本から離れた。瞬間、脱力しそのまま倒れ込む。


「おいッおい!郷二!」


 郷二の耳元で名前を叫ぶ。顔は項垂れていて見えない。急いで救急車を呼ぶため携帯を取り出そうとして、何かが、何かの声が聞こえた気がした。小さな声が郷二の口から洩れていた。


「きょ、郷二?」


 名前を呼ぶ声も何故か上擦ったものになる。こんな状況だ。大切な事かもしれない。にもかかわらず楽之助はそれを聞くのを躊躇った。しかし、友人が倒れたという状況が、ゆっくりと楽之助の耳をその口へと引き寄せる。ゆっくりと、ゆっくりと近づけて……


「……………『灰雪の』……『瑞花』…『跪拝の……」


 飛び退いていた。総毛立つ肌、吹き出る汗。呼吸が浅く、早くなる。理外の理がそこにあった。言葉というには余りにも冒涜的なその音が楽之助の心を削りとる。それはこの世ならざるものを表す記号のようなもの。精一杯言葉に近づけようとした成れの果て。

 小刻みに震えていた郷二の手がゆっくりと自身の顔に近づいていく。俯くその顔から血が滴っている事にその時になってようやく気付いた。目や口、鼻といった至る所から出血しており、滴る血は、涙や唾液と混ざって郷二の制服を汚している。顔に近づけていた手にもそれらはかかり、掌を汚して腕をつたい袖の中へと落ちていく。


 そして『凝結』した。

 血が凍った。

 血液が、赤い氷となって郷二の右手にへばりつく。人の常識を軽く飛び越える邪智なる氷。人智を超えた光景の中で、その中心にいた郷二がおもむろにこちらを向いて……笑顔だった。いつも見ている笑顔。新しい未知を見つけた、あの笑顔。


「…ははっ。なんだ、これ。知らない、新しい知識が、ここに………ッ」


 郷二は、その言葉とともに糸が切れたかのように脱力した。その場に残されたのは気絶した郷二と、動揺のために動けない楽之助。そして、異形の本のみだった。その後、図書館の隅で郷二の介抱をしたのち、司書や他の利用者に見つからないうちに逃げるように退散した。

白く燻んだ本は、未だに郷二が持っている。

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