【随】

「やってしもうたけぇ……」


 駿府城と町を密かに繋ぐ真っ暗な抜け道の中、冷静を取り戻した知枝は頭を抱えて集団の後ろを歩いていた。余計な事を言うなとオフィーリアに忠告しておきながら、自分は思いっきり喧嘩腰になってしまって後悔が頭の中で転げ回る。また、生きた心地がしないままなのは前で松明を持つ武士達もそうだった。


「正直、己は大阪の陣で刀を交えた時より命の危機を感じたぞ……」

「拙者らの所業は皆殺しも致し方無き事。然りながら、追っ手一人寄越さぬとは」

「大丈夫です……この抜け道は、上様でも存じません。今宵の事も、大人しく見逃す事でしょう」


 長勝院が暗闇を諸共しない笑顔と声を振り撒く。彼女の言う通り、秀忠がイギリス商館の後を追わないのも家康が絡む理由があっての事、今夜はこのまま駿府城から離れる事が出来るだろう。不安な道の中心を歩いているオフィーリアは、後ろで未だ自分の行動を悔いる知枝に呆れて話しかける。


「チエ、いい加減にしないか。言ってしまった事は仕方ないだろう?」

「けんどなぁハッさん! オラ達が平戸で飯作るんは秀忠に知られてもうたけん、こんなん表出た瞬間に潰されるっぺさ!」

「潰すには惜しいと御公儀に思われるくらい、利益を出せば問題ない」

「はァン⁉︎ ハッさんば、徳川家ェ怖さなぁんも分かっちょらんなぁ!」

「ならば、徳川家に直接喧嘩を売るな大馬鹿者が!」

「だぁあもうぉぉお! ……ほんと、そうや」


 勢いが落ちて、がっくしと肩を落とす。しょんぼりとした姿にオフィーリアも調子が狂って出口はまだかと足が急ぐ後ろ、ふと知枝はある事を思い付く。


「ハッさん、オラ……飯作んば、別に平戸じゃなくてええよ」

「ん? どういう意味だそれは」

「お師匠様も、世界巡って薬膳の腕上げただ。貿易やって日本じゃねくても出来るっぺ、もし追われる身になったら一緒に国さ出ようや」

「なるほど……確かにその手もあるか。私は、色々な国の人にもチエの食事を食べて貰いたいからな」

「なんなら、ハッさんの故郷イギリスでもええで」


 これなら徳川家に怯えなくていいじゃ〜ん。と楽観的になる知枝。目の前にいるオフィーリアは彼女の呑気な顔を思い浮かべながら、変わる事の無い決心を暗い通路に響かせる。


「チエ。私は平戸にレストランを作る事を、諦めるつもりはないぞ」

「……彦慈っちゃんみてぇな死に方するで」

「貴様の口振りはいつも遠慮が無いな。だからこそ、正しい生き方が出来ているのだろう」

「徳川家に目ェ付けられただけじゃねぇ、功績も他人に譲らないかん立場や。きっと日本じゃ奪われてばかりの人生やけん、耐えられると?」

「耐えられるかどうかなんて分からない、後悔だってするかもしれない。それでも私は、この日本で挑戦してみたい」

「なして、そこまで日本に入れ込むんや」

「——各国の文化を導き、集約出来る国だと確信しているからだ」


 オフィーリアが言っているのは、文化的多様性ダイバーシティの事だろう。平戸を経て、若き彼女が日本に見出したのが発展の【融合】だ。薬膳レストランを作る理由がそうであるように、他の追随は許してしまうだろうが、擦り合わせの面なら良い方向に作用するはず。しかし早過ぎる先見の明も、江戸時代に正しく阻まれる運命にある事を予感してか、知枝は納得しつつもそれ以上尋ねる事をしなかった。


「それにしても、あっさり終わってしまったな」

「ん。徳川家康の事け?」

「なんというかこう……。人生の転機のようにわぁああと構えていたのだが、少し話して、さっさと帰って、拍子抜けというか……」

「まぁ、こんなもんじゃオラ達の人生なんて。何事も地味ぃ〜に終わってくんや」


 少女達が徳川家の印象について話す後ろで、ローガンはとても静かに歩いていた。彼が今思い返すのは十五年前、日本に漂着した時の事。それは決して歓迎されたものでは無く、多くの仲間も船旅で失った。今となっては徳川家康と奇妙な友情を確立させた三浦按針はイギリス商館の最後尾で足を止め、何も見えない背後に語りかけた。その切ない顔には苦悩と納得が無邪気に追っかけ回しているが、その遊興も終わりが近い。


「殺すかと思えば、今度は生かしてきて。昔から君は読めない狸親父だね。次は、海でも陸でもない所で——ゆっくり話そう……、イエヤス」


 徳川家康の考えが分からない人物はもう一人いた。駿府城の天守閣から姿の見えないイギリス商館一行を追いかけるのは現征夷大将軍、徳川秀忠。どこから忍び込んだのか分からない薄気味悪い感情を抱えたまま、暗闇に包まれた主郭を見下げている。


「何をなさりたいのだ、父上は」


 家老を使って鉛御殿に呼び付けたのはイギリス商館に手出しをさせない為のはずだが、後は好きにしろと引っ掻き回されている事に秀忠も腹が立っていた。家康の影に隠れた武将と冷ややかな評価を受けても江戸幕府を存続させる為、二代目として先頭に立たなければならない。

 心労と劣等感を多く抱える背後に、右筆の守元が荷物を抱えて天守閣に上がってきた。ふうと、汗を拭きながら月明かりに照らされる秀忠に話しかける。


「上様。奴等、献上物をと残されていきましたが……」

「貴様の好きにしろ」


 えっ、と守元は困惑する。城の敷地内を見渡せる天守閣の室内には幼き家光が正座しているが、子供には眠い時間帯でウトウトして半分起きていない。すると秀忠は振り返り、薄暗い中でイギリス商館からの献上品を一旦避ける守元の胸元に紙束がある事に気が付く。


「それは、先程の事を記したものか」

「左様で御座いますが……」

「身共に見せてみよ」


 秀忠が手を伸ばして記録を欲してきたので、着物の内側から紙束を差し出す。しかし月明かりがあっても殆ど手元が見えない暗さで、読めるのだろうかと守元が疑問の顔を覗かせた瞬間だった。秀忠は内容に目を通さぬまま、今晩の事が細かく記された紙束をビリビリと破き始める。


「なあぁ! わぬの書付がぁ⁉︎」


 何十枚もあった紙は修復不可能な程に細かく裂けてしまった。それでも直そうと守元はかき集めるが、秀忠は月光を背にすると静寂しじまの顔で見下げる。


「守元よ、身共が最もじるは何か、申してみよ」

「……。何も心得ず、面目ありませぬ」

「肝に銘じるが良い、いぶかしきこゑだ」

「訝し、で御座いますか」

「小さしものでも、人と時代を狂わせる。虚仮こけか、正真しょうしんかは物ならず」


 秀忠から放たれる【疑問】への敵視に、守元の手が止まった。冬と夏、大阪の陣では総大将だったにも関わらず武功が当て嵌まらない慧眼けいがんは不甲斐ない。だからこそよく見えるのだろう、人間が起こす事象の本質を。


「今宵の事は、全て忘れよ」

「……。ははあ」


 多く語らずも、跪くしかない説得力に守元は貴重な記録を手放す。破けた和紙を見ていれば言葉の意味が読めてしまう、嘘か本当かは関係無しに素朴な疑問一つで時代が生まれ変わってしまう程の運命を招く事もある。江戸の安泰を崩されない為にも、不測を恐れる秀忠は再び高欄こうらんに両手を添え、国を見下ろす。


「…………」


 これからの事を大人しく考えていると、記憶が小言を吐いてきた。自分の失敗が、他人の嫉妬心が、他所の脅威が、囲む様に迫ってくる。何からも逃げていないと、銃創が痛みだして柵を飛び越えそうなほど身体が前のめっていく。


ずいな……、者共め」


 沈黙が剥がれ落ち、まろび出た文句に守元の冷や汗が流れた。高欄をギリギリ締め付ける音に、不安が先走る。


「上様、どうなされました?」


 心配を向けられた事にハッとした秀忠は、深く息を吐いた。冷静を失うとは不芳なりと、心を落ち着かせる為にゆっくり時間をかけて————自身の間違いを認める。


「聞け竹千代。徳川家の男子おのこたるもの、女子にょしに出し抜かれてはならぬ。過ちは許されん、誰よりも正しく在るのだ。よいな?」


 殷鑑遠からず。失態ばかり重ねた自分のようにならないで欲しい、血を分けた子に対して秀忠は穏やかに諭した。男が優位であれと強調してしまうのは、正室であり家光を産んだ崇源院すうげんいんことおごうの存在が頭を過ったからだ。この侵入思考に突如陥ったのも、女の身で自己主張したオフィーリアの印象があまりにも強かった所以だろう。

 感情と経験を束ねた言葉。だが、一分待ち侘びても聞きたい返事が無く、秀忠が振り返ると家光は正座したまま眠っている。親心が云う、本来なら寝かし付けられている時間だ。この幼さでは起きていられないもの。ガッと腹正しさが喉元に噛み付いた。


「竹千代……聞いて、おらんのかあぁあッ!」


 秀忠は家光の肩に迫った。目覚めて飛び込んできた父親の形相に恐怖以外の全てが縮こまり、太い指に鎖骨を圧迫され、痛いと言い返せない。応えようとしない家光の頬を秀忠は引っ叩く。更にもう一発入れようとした所で、守元が間に入ったが子に手を上げることは止めようとしない。


「上様ッ、おやめくだされ!」

「父上と身共の跡を! 継ぐ身でありながら、しとげなき顔をしおって!」

「……ッい、あぁ……」

もだしておれば、他の随を許す!」

「ち、ちう……ッ」

「我々が正さねば……正すしかないのだ!」


 鬼気迫る言葉と力が生熟れな精神に叩き込まれる。秀忠の時とは違って、家光は約束された徳川家の跡目だ。長い長い戦国の果てに切り開かれた江戸幕府に絡む大名と朝廷、そこに割り込む外国の動向。過密な焦りに飲み込まれた秀忠の脳裏にオフィーリアの声が自由に響く。平戸にレストランを作りたい、それは世界を束ねる、細やかな少女達の夢。


「認めぬ……ずいは何一つ認めぬ。新たらしきは……、徳川だけで良いのだぁあぁッ!」


 不意への叫びと共に家光と守元を突き飛ばした。荒々しく和室を湿らせる呼吸は吐く事を強要されて息苦しく、外気を求めて秀忠は月光が差す廻り縁にゆらりと向かった。畳に転がされた二人は、呆然と見ている事しか出来ない。

 高欄に手が届いた秀忠は空気を吸った。胸を掻き乱していた怒りも、苦痛も、恐怖も、全て楽になっていく。感覚が結論付けた、これこそ安寧あんねいだと。


「……知ろ、しめす……!」


 息で意味が乱れてしまった一言だが、家光と守元は分からせられてしまう。闇夜の駿府城は地上と地下の未来を二つ知る、日の目を見るのはいつだろうかと呟くかのように物見櫓は寂寞に佇んでいた。

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