れすたうらん
家康に呼ばれたオフィーリアが一呼吸入れて腰を上げた瞬間、存在に気付いた幼き家光と目が合う。すると秀忠の背に隠れて、恐る恐る顔を覗かせ始めた。社会を知らない子供が安全圏から様子を伺う反応そのものだが、眼差しからは臆病と苦手意識が
外国人を見慣れている平戸の藤吉には綺麗だと言って貰えた金髪碧眼も、世界が狭い家光には安直な偏見がにじり寄っているのだろう。不安な視線を浴びつつ、家康の前に行こうとした瞬間だった。秀忠に睨まれたオフィーリアは立ち上がれない。
「……ッ」
腰が畳に落ちた。瞬きした瞬間にでも斬首される予感で身体は強張り、目が蒸発するのに背筋が凍り付く。家康が知らぬ所で、緋櫻を利用して邪魔な外国人を始末するよう糸を引いているのは徳川秀忠。見ているだけだが、沈黙からは大喝一声が
「し、失礼致しまする……!」
慌ただしく襖を開けたのは、筆と紙、愛用の文机を持った守元だった。誰も近付けないという事付けは家老に全て押し付けてきたのか、頭が記録で埋まっている年寄りは鉛御殿の隅で墨を摺り始める。目の前で起きている状況を余す事なく筆に乗せようとする先でオフィーリアは動き出し、徳川家康の前に正座した。
「……」
「……」
真横から追い詰める秀忠の沈黙が、家光の沈黙が、
「恐れ入ります大御所様。お先に一つ、申し上げても宜しいでしょうか」
「ふむ、申してみよ」
家康の返事を得て、オフィーリアは口を少し開けたが一旦止まった。伝えたい事は決まっている、だが言葉を選んでいるせいか複雑に絡まって理想の形にならない。英語にしたら簡単なのに、日本語を飾る丁寧語が、謙譲語が、相対敬語がもどかしい。歯痒い。冗長だ。そして彼女は思い出す、礼儀なんていらない。もう無礼でいい。何故ならこれは、死ぬまで通すべき【口答え】なのだ。
「私は平戸に、レストランを作りたいんです」
「れすたうらん、とな?」
立場を弁えていない若者の口振りに、家康と傾聴している秀忠は不快な眼差しを向ける。想定外の図々しさに後ろの武士達が冷や冷や見守る横でローガンはやれやれと腕を組み、知枝はフフンと信頼と嘲笑の息で主人の背中を押す。
「レストランというのは、私の故郷イギリスから海峡を超えた先にあるフランスという国の言葉で『回復する食事』という意味なんですよ。そちらでは、旅人に栄養のあるスープ……日本で言う所の汁物が——」
オフィーリアは身振り手振りで、レストランについて淡々と語っていく。最初こそは礼儀の無い言葉遣いに家康も眉を顰めたが、興味深い話に耳を傾けながらヨーロッパ文化について尋ねていく。そんな父親の姿を見た秀忠は顔を俯かせて唇を震わせ、見開く目に力が入る。
「ちちうえ?」
あまりの大人しさに後ろにいる家光が着物を引っ張るが、秀忠は返事をせずその場に正座しているだけだ。畳を睨む顔は不快感の影に覆われ、小鳥に自慢の庭園を荒らされるような、野鼠に和室を駆け回られるような、忌々しさが舌の裏に溜まる。見る事、聞く事、全てが知らない、分からない。幕府の頂点に立つ男が今この時だけ、どこの国かも知らない少女に出し抜かれている。だから手元に戻ってくるのだ、合戦に置いてきたはずの
「夢物語のような、話だよね」
屈辱を握り潰す秀忠の横で、ローガンは呑気な笑顔を家康に向けていた。相変わらず目は諦めているようで、口元だけは期待を寄せている。外国文化が受け入れられなくなってきているのは、この場に居れば誰でも予見できる事であるが、これはオフィーリアの
「伊達政宗と近しい事を申しておるが……儂の膳奉行は気苦労が絶えず、一筋縄ではいかぬ。然りとて、そこの女中が衆庶共に腕を振るうと?」
「はい。彼女には世界の舌を納得させる食事を作れます」
「ほう……?」
「味は確かだっただろう、イエヤス」
「うむ、認めざるを得ぬ。実に美味であった」
「なんと……。他所が持ち込みしものを安易に口にされたのですか、父上!
毒味役が手離せない立場でありながら、知枝の作った菓子や料理を食べた事に困惑する秀忠。そもそも数百石規模の旗本が膳奉行を任されていた時代、調理は男の世界である認識を持っている人間なら至極当然の反応である。
「儂も後先長く無いのじゃ。今更、毒など気にならぬわ」
「冗談で済む話ではありませぬぞ! 美味などと、下らぬ事を……!」
「そう何度も声を上げるようでは、話にならんじゃろう。三浦、ここで全員引き上げさせよ」
「……。仕方ない、か」
ローガンは家康の意図を汲んで、腰を上げた。このまま埒が明かない口論が続けば、更に城の者を寄せ付けてしまうかもしれない。そうなると徳川親子とイギリス商館どちらにとっても面倒な事になる、冷静がまだ残る内に立ち退くしかないのだ。
「皆、ここまでだ。帰ろう」
「おっちゃん⁉︎ まだハッさんの話は終わっとらんがなぁ!」
「知枝殿、もう潮時ですよ! 大人しく従えって」
「そもそもなァ、女が作った飯が穢らわしいってんのは百歩譲るけぇ……、食材の好き嫌いも、味の良し悪しも人によって違うけんど、美味ェって口にしてくれた人のん言葉否定すんのだけは許さへんぞ!」
「身共に、……申しておるのか?」
「オラが朝餉作ったるわぁ! 夜ォ明けるまで待っちょれい!」
「よせって、無礼にも程がありますよぉ!」
腕を捲り、怪我を抱えてもオラオラ行く知枝を稲葉と高墨は押さえ付けて口を塞いで運び出す。この場を去らなければならない状況に、オフィーリアも身を任せるしかないが徳川家康と対面して正確な時間でいえば十三分、対話なら四分。レストランを作るという宣言をしただけで、食文化の発展と貿易港に出店する利点と経済効果などの説明が出来ていない——もう二度と話せないと思うと、話したりないが足を根っこにする。
「
しっくりしない顔をしたオフィーリアに家康が話しかけた。だが、退散を急ぐローガンが肩叩きをしてきて足が動く。知枝が最後に感情を爆発させてしまったので、もう長居は出来ない。城の誰かがもう直ぐ来ると、誰もが予感しているからだ。
「江戸作り上げたのは、武功とは限らぬ。行動してみせよ、時代に芽吹く者として」
敷居を出た瞬間、背中越しに家康の声が聞こえてきた。試されている一言にオフィーリアは行灯に照らされる最後の徳川家康を見た。まるでひっそりと人生を終えるかのように、尊厳が影に沈みゆく。その寂しき姿が最後の最後に晒すのは、失った分だけ手に入れた人間、好き嫌いが別れそうな人間。偉大な人物であるにも関わらず地味と派手が混ざり合う印象が英国少女に焼き付いていくが、頭を下げる暇もないままイギリス商館は鉛御殿から逃げるように去っていった。
「どういうおつもりか、父上」
「秀忠の時代じゃ、後は好きにするが良い」
部屋に残された秀忠が開いた襖を厄介な目で見て言うと、家康は脱力した口調でそれ以上は何も言わなかった。バタバタと複数の足音が近付いていく中、右筆の守元は掠れた崩し文字でこう綴る。
【黄毛女人 駿府城推参 怪しか策謀りし】
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