「父上」

 徳川家康との静かな時間は、絶句の一呼吸により慌ただしさが押し寄せる。行灯の光が迷う薄暗さの中でもオフィーリアには徳川秀忠の顔がよく見えた。年齢は三十六歳だが、日本を取り纏める圧がかかっているのか目元口元には、疲労と透徹が浮き沈みしている。家康に似た輪郭と瞼は、有力武家の書き付けといってもいいだろう。

 そんな貫禄を呆然とさせる、侵入者の存在。イギリス商館の江戸参府は徳川家康と長勝院、そして時茂しか知り得ない事。家老の裏切りかと武士達が息を加速させる中、現実を目の当たりにする秀忠の歯が我慢を支えきれず、言葉が粉砕した。


「またしても父上をたぶらかすか、三浦按針みうらあんじん!」

「そういうつもりないけど……、抵抗しないでおこうかな」


 正座していたローガンはやれやれ顔で腰を上げると、睨む秀忠の前に立った。聞く耳を逆に持たされてしまった事によって、腹から血が突き上げて跳ね飛ばされた声は鉛御殿を雑に穿つ。


「誰か、誰からんかぁ! 曲者じゃあぁッ!」

「騒ぐでない、長松ひでただ!」


 徳川家康の子を叱る父親の圧にしんと辺りは静まり返ったが、流石に近くの部屋まで声は届いていたようで、老人が慌てて鉛御殿に駆け寄ってきた。


「ど、どうされました……ッ、な……⁉︎」


 部外者が何人も家康の寝室にいる現状を見て、腰から狼狽うろたる老人。彼は徳川秀忠の右筆ゆうひつである守元もりもと。所謂、記録係である。歴史を綴る者と、歴史を組み立てる者の目があってはならない現実を斬り刻む。


「何故、大御所様の御前にこの様な者共が⁉︎」

「身共も今し方知り、肝を消した。三浦按針よ、貴様が此処へ来駕する事が関所も知らぬ事ならば、どうなるか分かっておろうな!」

「そうだね、獄門……磔は固いかなあ。だけど——この大人数を連れ回したのも、人目を掻い潜ろうとしたのは我だ。後ろの人達に罪は問わないで欲しい」

「ぬけぬけとれ言を申すでない! 貴様の身内が起こした伊東での所業も、身共は忘れておらんぞ……!」


 秀忠の鋭い声にローガンは何も言い返せない。部下が起こした不祥事、それによって多くの漁民が巻き込まれた、幸せを奪われた緋櫻は異国人殺しの道を歩むしかなくなった。日本政治の実権を握る男からすれば、三浦按針は泰平の世を掻き乱す脅威でしかない。


「よさぬか、儂を差し置くな」


 この場を収めるのは、やはり日本を統一した男であった。起き上がる体力が乏しい家康は死線を掻い潜りし瞳で、調和出来ないローガンと秀忠の間に入った。


「秀忠は、儂が呼ばせたのじゃ」

「なんでそんな事したのか、イエヤスの意図が全然見えないなあ」

「儂はもう長くない。直接釘を刺すには、此度しかなかろうて」

「……なるほどね。でもこれが良い判断かは、微妙な所だけどさぁ」

「何故なのです父上! 異国人共が駿府城の敷居を跨いでいるなど、あってはならぬ事ではありませぬか!」

「儂の大切な客人じゃ、声を荒げるな」

「三浦按針だけでなく、何処の者かも分からぬ者まで……。これは関所破りと見て当然、余所者を安易に招き入れた事が知られれば、徳川家の名折れになりかねん!」


 家康が介入しても、息子の苛烈を止められない。何より秀忠が許せないのはイギリス商館の存在。武家の勝手を許さぬ法令を立てたのも、関所で女性の出入りを厳しく取り締まっているのも、全ては徳川幕府を崩されないようにする為だ。戦国時代——武将として成果を上げられなかった秀忠だが、征夷大将軍を継いでからは【武家諸法度】や【禁中並公家諸法度】といった統制の土台を盤石なものとしていく人物である、今の秀忠は何も間違っていない。


「父上は、常に正しくあった」


 文句を全て追い越して、秀忠はふとその言葉を静かに手渡した。親の死に目だが。遠い所から足を伸ばして言いたい事があるのは、せがれである彼も同じ。秀忠は鉛御殿で身体を起こすだけの徳川家康の前まで行くと、見下げて礼儀を言い放つ。


「全て正しいと信じ、身共は父上の全てを受け入れて参りました」

「話さんで良い、秀忠」

「聞いてくだされ父上!」

「静かにせよと言うのが、分からぬのか!」

「父上は……ッ父上は、如何なる時も子の話に耳を傾けませぬなぁッッ!」

「ちちうえ?」


 反抗の声を幼い声が静かに掴んだ。秀忠が後ろを向くと目を擦る小さな男の子が開いた襖の前に立っていた。卸立おろしたての小袖、未だ結われている芥子けし坊主からは世話焼きの香りがしている、秀忠は鼻で息を吐くと眠そうにする子供の目線に合わせようと腰を下ろす。


「竹千代。何故此処に来られた?」

「ちちうえの、声が……」

「臥所に居らぬと、お福が身を案ずるが」


 秀忠を父と呼び、眠たそうにする九歳の少年は後に徳川家三代目となる徳川家光。そして【鎖国】を完成させる張本人でもあるが、将軍となるのはイギリス商館が消滅する時期と同じ八年後の話だ。

 すると秀忠は幼い家光の手を引き、寝室に戻す事はせず家康の前に正座させてその隣に並ぶ。流石に子供の前では怒れないのか、あり得ない現実を経験させる為か、その意図は曖昧に見える。家光すら巻き込み、大人しくなる秀忠に守元は慌てた。


「う、上様……⁉︎」

「この場に誰も近付けるな、守元」

「……承知、仕る」


 思う事があっても従うしかない守元は、頭を下げて一旦引き上げる。兎に角、記録係としてこの現状を書き残さねばと命令よりも紙と筆を取りに行くことが足を急がせた。家老の時茂も秀忠の指示を聞くと鉛御殿の襖を静かに閉め、この場に誰も踏み入れないよう周辺の警備に努める。傍観者だったイギリス商館一同も、これで徳川三代の記憶から逃げる事は出来ない。


「話をお聞かせ願います、父上」

「……。良かろう、続きを頼もう異国の娘よ」


 どうなってしまうのだろうと隅で傍観していたオフィーリアだが、家康に呼ばれて前に出るしかなくなった。徳川家康、徳川秀忠、徳川家光。そして、歴史に残らぬ英国少女が江戸時代に並ぶ。

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