ススキ。タヌキ。

 駿府城にある鉛御殿。四つの行灯に囲まれて横になる徳川家康の前に、ローガンはよっこらせと腰を下ろした。ここがイギリス商館江戸参府の終着点、なんとも淋しくて穏やか。そして、不思議といつも通り。落ち着いた雰囲気の中心にいる家康は後ろにいる家老の時茂に目で何かを合図をすると、時茂は頭を下げて襖を閉めずに退出した。


「髭が、前より濃ゆくなったか。三浦よ……」

「調子はどうだ、イエヤス」

「この様だ……、寝たきりが続いておる」


 近い距離感で話す二人を、オフィーリアは知枝と肩を並べて静かに見守る。今、そこにいるのは天下統一を果たしたあの徳川家康。これから二百年以上続く江戸幕府を開いた、偉大な人物。会う事すら本来あり得ない少女達がこの場に居て思うのは、想像より息苦しくも恐れ多くも無いという事。


「寝てばかりだと、退屈だろうね」

「今の儂は、毎日がこんなにも狭くてのう」

「寝床なんて、無駄に広くない方がいいさ」

「長らく寝ておるせいか……頭に句が浮かぶのだ」

「イエヤス」

「嬉しやと……二度ふたたびさめて一眠り……うき世の夢は、暁の空——」

「イエヤス、君に会わせたい娘達を連れてきた」


 辞世の句を詠ませまいと、ローガンは話を無理矢理捩じ込んできた。声色に引っ張られるように、徳川家康は後ろにいる少女達を見る。流石に視線を受けると緊張で知枝もオフィーリアも背筋が伸びるが、御老体では偉そうにする気力も出ないのだろう、若者に優しく微笑みかけた。


「顔を……よく見せてくれぬか」


 そう家康が言うと、ローガンは少女達に場所を譲る。要望に従い、まずはオフィーリアが少し前に出て瞽女ごぜに変装するために隠していた短い髪をシュルリと晒した。金髪碧眼の女性を間近に見るのは家康ですら初めてなのか、ジッと彼女の容姿を目に焼き付ける。晴れた秋宵、天井の先にある月を探して思うのは十五夜、そして供えた団子と——。


ススキのような、麗しき髪じゃ……」


 実りある美しさに、家康は素直な感想を添える。言葉を受けたオフィーリアはぺこりと頭を下げるが、何と言ったら良いか迷ってしまっていた。話したい事は多く用意したが、礼儀と上申で脳内の整頓が追い付かず緊張が麻痺させているのだろう、黙る主人に対して、横にいた知枝が柴鶴姫として見本となる。痛む背中の矢傷を必死に隠す。


「此度、大御所様とこうしてお会い出来まして、誠に光栄で御座います——」

「敬畏などいらぬ……楽にするが良い」

「そういうわけには……」

「いいんだよ。今のイエヤスは、ただの狸親父だから」


 こやつめと家康は視線でローガンを小突く。利口な事はしなくていいと年老いた男達の友情を感じ取った知枝は、御言葉に甘えて口を飾らずに目的を早急に果たしていく。


「オラはイギリス商館の女中で包丁師じゃ、大御所様の身体によう効く薬膳を作って持ってきよったで」

「ほう……それは、食うてみたい」


 健康食にこだわりがあるというのは本当なようで、家康は身体を起こして興味を示した。知枝は早速背負っていた風呂敷を下ろして広げると、二重の赤い重箱が出てきた。既に一番上から、甘酸っぱい香りが差し招いている。


「御賞味下さいませ、大御所様」


 気軽に話せと言われても、食事となれば礼儀を持ち込むのが日本の心というもの。丁寧な言葉と共に蓋を開くと、まず出てきたのは【桃の砂糖煮】であった。体調不良の原因が暑気中しょきあたりである事を踏んでいるのか、身体が受け付けやすい果実を用意してきた知枝。


「桃か、久しいのう」


 家康の注目を浴びながら、知枝は桃を黒文字で菓子切りのようにサクサク一口の大きさに分けていく。イギリス商館が仕入れた砂糖で煮られた桃は、産毛が綺麗に除去されていて表面はまるで天女の肌。そんな浅紅の果実と共に艶を出しているのは香母酢かぼすの輪切り。知枝はその二つを皿に乗せて手渡すと、雑食狸親父は彩りを少し楽しんでから口にスッと運んだ。


 弱まった顎でも煮えた桃はじゅわあと口の中で弾ける。舌に広がる優しい甘酸っぱさは、桃源郷に舞い散る恋文の如く喉をするりと抜けた。暑さで参った身体に果実の酸味が染み渡る。


「実に親切な、味わいじゃ……」


 たった一口でも千里をそよぐ風味に、舌鼓したつづみを打つ徳川家康。桃と香母酢から今や遠のいた高原の景色を舐めとった後は、二段目の重箱が目に付く。行燈の明かりに照らされる丸菓子のような物を家康は欲した。


「そちらは、何じゃ……」

南瓜かぼちゃの饅頭で御座います」

南瓜とうなすとな?」


 四日市の時から旅の中で自分なりの饅頭を考案していた知枝。そんな彼女が編み出したのは、皮と餡に南瓜を使った饅頭だ。こちらも黒文字で半分に切ると、日本南瓜を混ぜた皮と、西洋カボチャを練った餡の断面が甘みを覗かせる。食材ごとの特性を活かした和菓子が形にするのは和と洋の調和。


「では……こちらも頂こう」


 重箱の饅頭に手を伸ばした家康は半分になった饅頭を齧る。ほくほくとした食感は、オフィーリアから貰ったお里の饅頭レシピから着想を得たもの。栄養豊富な南瓜の餡には油を混ぜていて、コク味が増すだけでなく体内吸収を良くする効能付き。二つの南瓜カボチャを一纏めにした飴色の菓子は、虚しく日々を過ごす老人に間食の生きがいを味合わせてくれる。裕福な暮らしでも出会えない薬膳と菓子を腹に収めた家康は、満足した舌で褒め称えた。


「非常に美味であったぞ、娘よ」

「勿体なき、御言葉」


 丁寧に頭を下げて感謝を示す知枝だが、天下の舌を獲ったと口元が微かにニヤニヤしている。表舞台に立てなくとも、あの徳川家康本人から褒め言葉を貰った事は、一生の自慢になるだろう。面白い可能性の一つを友に紹介する事が出来て、安心したローガンは次に大人しくしている商館長次席ヘトルの背中を押す。


「言いたい事があるんだろう、オフィーリア」


 ローガンに言われて、胸に手を当てるオフィーリア。ここに来て徳川家康に無礼を申していいのか躊躇いが出ている。それが目的であるにも関わらず上手く言葉にできないのは、知枝と違って言いたい事を言うだけに過ぎないからだ。江戸を始めた男であるが江戸を変える力はもうない。オフィーリア自身も何かを変えられる力もない。故に、発言を迷う。


「桃と饅頭……そういや、お師匠様が言うてた蓮蓉包リエンロンパオちゅうのがあったな——作ってみるっぺ……?」


 すると真横にいる知枝が独り言を始めた。今、掴もうとしているのは後に長崎名物の一つとなる、桃饅頭のレシピ。どんどん先越されていく、それを感じて心に浮かぶのは負けたく無い、見栄を張りたいの二つ。そう思うのも当然だろう、雇い主だから。夢を共有する相棒だから。


「大御所様、お話したい事が御座います」

「然様か……、申してみよ」


 意地を見せたいオフィーリアは、傾聴しようとする徳川家康に旅の中で固めてきた言葉を一つ一つ話していく。京都の厳しい禁教令、それによって処されてしまった彦慈の事、故郷イギリスにあるカンタベリー大聖堂のステンドグラス、平戸貿易の現状、そして最高の薬膳を作れる知枝について、オフィーリアが知っている事を全部。時間にしてたった数分、そんな時に。


「これは一体、どういう事なのだ……?」


 開いたままの襖から、唖然とする声が抜けた。その場にいたイギリス商館一同の表情が一瞬で動揺に変わった。何故なら、今一番見つかってはいけない人物が真後ろにいるからだ————家老の時茂が連れてきたであろう、徳川秀忠とくがわひでただが。

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