天下人の敷居

 日本の中枢、駿府城内部の夜。隙間なく積まれた切込接の石垣下部分にて、150センチ程の抜け穴が闇に紛れていた。実は内側にある長方形の大岩が石垣を噛みながら上手く空間を作っており、外側は薄い石をいくつかめ込んで塞いでいるようだ。この抜け穴も今宵イギリス商館が通る事を知る人間以外から長らく包み隠し続け、役割を全うするかのように江戸の大地震で瓦礫と化すさだめにある。


 隙間から男性陣が先に、続いて少女達が顔を覗かせて抜け出て来た。シッと稲葉が息を止めるよう全員に忠告すると、見張りが提灯を持って近くを歩いていた。警戒心が無いのか、ふああと欠伸をしてそのまま素通りしていく。

 武士達にかかれば見張り達への奇襲すら容易だが、城の人間を一人怪我させただけでも駿府から日本全土に広がる騒ぎになる。ここは隠密に事を済ませる都合上、慎重に進まなければならない。


(お待ちしておりました、皆様)


 上弦の月が静かに照らしたのは、初代徳川家の終わりに影を置く長勝院ちょうしょういんである。明かりが限られる時代、闇夜に包まれたら床にくよう習慣付いている今が侵入する機会チャンス。様子を窺いながら、近くの坤櫓ひつじさるやぐらに侵入すると提灯を持った家老の時茂が待ち構えていた。そして、ヒソヒソと再確認の打ち合わせが始まる。


(城の中には上手く入れたな。大御所様はどこでお休みになられてるんでしょう、まつ殿)

(本丸の鉛御殿に居られまする)

(そうなんですか? お偉いので、天守閣に住まわれてるものかと……)

(うわー、でたわぁ。お殿様はみーんなそこにおるじゃろ的なやつぅ。年寄りに階段の上り下り出来るわきゃーねぇじゃろ、ちぃとは頭使いーやハッさん)

(いッ、今のは惚けただけだ! ……それにしても、随分強固な名前をした部屋ですね?)

(駿府城は新築して直ぐ、火事に見舞われた事があってね。だからイエヤスは燃え難い部屋を作ったとかなんとか)

(懐かしいです……あれは、女中が手燭を布団に落としてしまったのが原因だったようでして)


 話は和気藹々と続くが時間は限られている。現在地は二の丸の隅なので、本丸は目と鼻の先。提灯の灯を消して、一同は暗闇に紛れながら徳川家康が待つ場所へ向かう。城を知り尽くしている時茂と長勝院のお陰で、駿府城の中心まで忍び込む事に成功した。


(ここからは城の居住区だ。気を抜かないようにね)


 ローガンの声に緊張が高まる。その中で稲葉は集団の一歩下がった所から一同を見守っており、終始会話にも参加しない事に違和感を覚えた高墨が声をかけた。


(さっきから大人しいじゃん。稲葉のおっさん)

(主郭に足を踏み入れるのも、久しいものでな)

(こんな良い所に住んでた時期があるのかよ)

(居心地が良いとには、程遠い)


 顔が見え難い程の暗さでも、高墨には稲葉の複雑な表情がよく見えた。そんな三十路男の幼い瞳に反射されるのは、業火の松明を無数に向けられた女武将と身を寄せる側室の透けた姿。そして、それを前で並ぶオフィーリアと知枝に重ねる。


(拙者が口走らなければ、姉上達は——)

(稲葉のおっさん?)

(故に、見守らなければならぬ)


 刀をこよなく愛する高墨の耳に、稲葉の抜刀が聞こえた気がした。しかし今は、物音すらたててはならない状況。お互い納めた刀に手を添えると高墨は心のままにオフィーリアを見る——瞽女ごぜに成り済ます為、質素な藍色の小袖と紫の羽織を着ているが色白の肌は暗い中でもよく分かる。武士達は【見守る】意味を瞳に刻むと、瞬きで金打きんちょうを打った。

 そのままゆっくり本丸に侵入し、ここからは二手に分かれて後に合流する形を取る。時茂の方にはローガンと高墨、長勝院の方には知枝とオフィーリアと稲葉が付き徳川家康がいる鉛御殿を目指す。駿府城の者とすれ違う事もあったが、闇の後押しにより侵入者と気付かれる事無く、数分で屋敷の内部に来た。


(皆様、あちらで御座います)


 長勝院が静かに示した先に、生活の薫りがする白橡しろつるばみ色の襖がうっすら見えてきた。見慣れたつゆ草柄を描いた戸の先に、三大天下人の徳川家康が待っている——そこに別行動をしていたローガン達と合流し、いよいよ謁見の時がやってきた。


(大御所様に話は通っております、どうぞ御入り下さいませ)


 時茂がさあと襖を開けるよう促す。忍び込んでいるという状況から立ち止まれないローガンは、スッと襖を開けて徳川家康の寝室に入った。


「入るよ、イエヤス」


 ローガンに続いて、深く座礼をしてから武士達が部屋に入っていく。そして知枝とオフィーリアの番がやってきたが、大人達の背中に隠れているのと辺りが暗くて先がよく見えない。二ヶ月もかけて自分の足でここまで来たのに、敷居を跨ぐ一歩がなかなか踏み出せない。


(いこう、チエ)


 そこに最初の一声を出したのはオフィーリアだった。緊張の度合いはお互い同じ。しかし、死ぬ前の徳川家康に知ってる事を全て話そうと提案したのは、影の商館員である英国少女。


(ほな、いくべ)


 知枝は引っ張られるようにオフィーリアと並んで進む決意を抱いた。先ずは敬意を込めて襖の前で座礼し、少女達は肩を並べて暗い部屋に入った。


「……」

「……」


 いざ中に進んでみると、部屋の中は行燈がいくつか置かれており思ったより明るい。そして、狭い。四畳半和室の中で敷かれた布団に丸い顔と福耳が印象的な年老いた男性が横になってイギリス商館一同を見つめている————徳川家康だ。


「待ち侘びたぞ……三浦」

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