盲_道

 午下ごかの富士山を遠景にしながら、イギリス商館一行は駿府城の目前にまで迫ってきた。先程は立派な建物が見えるとしか思えなかったが、こうして近付くと勇壮の一言。四角に城を囲む三重の水堀と聳える石垣は周到なる守りを強調し、晴天に勝る青の入母屋破風いりもやはふの屋根、雲を凌ぐまっさらな漆喰の壁。権力の象徴である天守閣は日本全土の統一を果たした武将姿の如し。

 立派な屋敷ややぐらが並ぶ晩年期の徳川家康が住む場所に行くには、見張りが槍を持って睨む公儀橋を渡るしかない。鼠一匹すら入れない構造の城へどう侵入すればいいのか、待機場所となっている町の家屋からイギリス商館一行が隙間から覗く後ろに、屋根を渡ってきた碧眼忍者のサイラスがシュタッと着地した。


「待たせたなローガン、城に忍び込む手筈を整えてきた」

「助かるよ、サイラス。でもさ、ここからどうやって城に入るの?」

「心配には及ばない」


 サイラスが室内にある重たそうな車長持くるまながもちをゆっくり退かし、床に穴蔵と思われる扉が出てきた。それを開けると、短い石階段の先に大人一人が立って歩ける程の地下通路が続いている。謎の道を前にして、知枝が派手に驚いた。


「なんやこれぇ⁉︎」

「大御所様が謀叛むほんを警戒して作った逃げ道だ。ここからなら三重堀の地下を抜けて、城中心の石垣に出れる」

「燃えちゃった城を修築して、駿府の町割りをしてる裏でこんなものまで作ってたのイエヤスは……」

「城への侵入は、日が落ちてからだな」


 ローガンとサイラスが話す横で、オフィーリアは地下への道を無言で見つめていた。人の手で掘られた抜け道は真っ暗で狭く、どれくらい歩くのかも分からない。危険は無さそうだが、感覚が遮断される空間に英国少女は腰が引けている。


「夜中に、ここを通るのか……」

「駿府まで来て、我儘言うなやぁ。オラ達は徳川家康以外の人からすんば、招かれざる客じゃぞ」

「分かっている。分かっているが……」

「む? 誰か、こちらに向かって来ますぞ」


 地下から人の気配を感じたのか、稲葉が言った。思わず警戒してしまう場面であるが、サイラスが落ち着いている様子を見るにこれから出てくる人物は敵では無いのだろう。固唾を飲みながら暗い道に注目していると、松明を持った若い家老と一人の老婆が姿を現した。


「お待ちしておりました……、三浦様」

「えッ、地下を抜けてわざわざここまで来たの⁉︎」

「大丈夫ですよ……、皆様は騒ぎを起こせない状況でしょうから」


 驚きながら石階段を上がれるよう、手を伸ばすローガンの助けを受けながら老婆は地下から出てきた。男の方は鶸茶の小袖、老婆の方は薄手の打掛を着用している事から駿府城の人間で間違いない、改めて高墨が尋ねる。


「三浦殿、この方達は?」

「こっちはイエヤスの家老、時茂ときしげ。女性の方は——」

長勝院ちょうしょういん……いいえ、まつ、とでもお呼び下さいませ」


 ローガンが説明する前に老婆が名乗って、足が前に出たのは稲葉である。女性というだけで歴史に深く名を刻めないのが当たり前の時代、その中で賜ったであろう『長勝院ちょうしょういん』がこの駿府城に身を置く事が、戦乱の世を渡り歩いた男からすれば如何に途轍とんでも無い事か。稲葉の表情にも混迷が流れ出る。


「何故、貴女様がここに居られるのです⁉︎」

「わたしがいる事に、問題でも……?」

「徳川家に抹消されし、奥女中様で御座いましょう……貴女様が受けた仕打ちは、惨憺たる有り様と聞く!」


 血胤おんなの戦とも言える側室事情を知っているのか、稲葉の声には心苦しさが上乗せされている。イギリス商館達の前にいる老婆は、かつて徳川家康の側室であった於万おまんかた本人。壮絶な人生を歩んだ女房衆も皺皺しわしわの六十七歳。その身に乗せてきた全ての過去も含めて、彼女は稲葉に微笑みかけた。


「ふふ、貴方様は何処の武家の方でしょうね……。今の駿府城には、わたしがあの於万おまんの方と分かる者は誰一人おりませぬ」

「大御所様との『子』を全て失い、誰からも認められぬ場で耐え忍びながら——何故貴女様は……!」

「かつて頼った人から頼られると、放っておけない……そういうもの、でしょうか」


 自身でも行動原理が分かっていないまま、長勝院は年老いて重くなってしまった瞼を上げた。徳川家康だけを魅了した高貴な瞳は何年経とうとも美しく、表立てない境遇を垣間見たオフィーリアは共感を胸に抱く。だが今は、身を潜めて徳川家康と会う事が先だ。すると長勝院は、段取りを進めようとイギリス商館の少女達を示した。


「そちらの御連れ様は……、ここでのお待ちで宜しいですね?」

「いや、この娘達もイエヤスの元へ連れて行く」

「なりませぬ、もし城の誰かに見つかったら……」

「通してくれ、全ての責任は我が負う」

「承知いたしました……しかしその目と髪は、夜中でも目立ちます。こちらと小袖を着て頂き、駿府城に居ります瞽女ごぜに成り済まして下さいませ」


 ローガンの真剣な眼差しに負けた長勝院は、着物の内側から白の手拭いを手渡してきた。何に扮すればいいのか分からないオフィーリアに、知枝は代わりに手拭いを受け取って短い金髪が隠れるよう後ろから巻き始める。


瞽女ごぜは目が見えへん女のこっちゃ。常に瞼閉じとき」

「そうなのか、分かった」

「オラ達、本当にこれから会うんじゃな。天下取った人間と」


 キュッ。と知枝が手拭いを結ぶと、オフィーリアの気持ちが引き締まる。恐らく、話せる時間は限られているのだろう。闇夜でお互いの顔もよく見えないのだろう。だが話したい事は旅の中で見つけてきた。その為にここまで歩いてきた。もうすぐ、会える。徳川家康に。

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