縋る咳嗽

 港の賑やかさに混ざる子供の咳に、オフィーリアと知枝はその元を探そうと辺りを見回す。暫く歩いていると、市場から離れた船着場の隅に子供を抱える女性が見えた。

 母親と思わしき人物は、三歳程の小さな息子の背中をトントンと撫でて落ち着かせようとするが、子供の咳は一向に落ち着かない。むしろ、呼吸が出来ない程の喘息に見ている方も心配になる。たまらずオフィーリアと知枝は近付いた。


「どうされました?」


 オフィーリアは目線を合わせて丁寧に話しかけたが、気付いた母親は子供を守る様に抱き締めて目を逸らす。異国の人に対する容赦ない警戒心にオフィーリアはそれ以上歩み寄る事が出来ず、見かねた知枝が前に出て穏やかな笑顔で間に入る。


「いきなりごめんなぁ、この人オラの友達や。優しい異国の人やから、安心してくれな?」

「……」

「何か困ってん、オラ達が助けになるで?」

「……。実は、藤吉ふじよしの咳き込みが止まらなくて……」


 知枝に頼るように母親が抱きしめていた息子を二人に見せると、藤吉は喘息のような咳に加えて、痒くてたまらないのか目が真っ赤になる程こすって苦しんでいた。ただ事ではない様子にオフィーリアと知枝は顔を合わせ、何か助けになれないか話を振る。


「辛そうや……どうしてこうなったん?」

和蘭陀オランダさんが連れてきた大きな動物がどうしても見たいと、藤吉が檻に近寄ったらこんな事に……」


 母親は腫れ物を見るようにライオンを睨んだ。藤吉の異変はアレルギー症状によるものだが、江戸時代にはまだ存在しない概念である。清潔環境が整わなかった昔、抗体により患者は少ないとされていた。しかし、環境の変化により発症する事もある事はどの時代も変わらない。


「るあいおが原因なんか……?」

「しかし知枝、それならば長期間ライオンと船で過ごした船員も同じ症状が起きるはずだ。私が知る限り、オランダ商館にそのような病人はいない」

「なら何故、藤吉は苦しんでいるんです⁉︎ 異国が持ち込んだ、疫病じゃないんですか!」


 八つ当たりの如く、オフィーリアに対して母親は声を荒げた。得体の知れない喘息と目の充血にどうする事も出来ない焦りと、異国に対する不信感で敵意が剥き出しになっている。そこに、知枝が一つの解決策を思い付いた。


「そうや! 前、各国商館には医者がおるって言ってたやん。ハッさん、イギリス商館の医者よこしてくれや」

「いや……こちらの商館に医者はいない。今、平戸に滞在しているイギリス人は多分……私とジャックス商館長だけだ」

「なんでやあ! ほんっと弱小組織なんやな」

「う……少しは、口を慎め!」


 しかし、この時代どの国の医者に診せても病弱だからで済ませられてしまうだろう。話が進まなくなってしまい、藤吉の咳はますます悪化して気管を傷付けていく。


「ゴホッゴホッかぁ……ちゃ、ゴホッゴホッ」

「大丈夫、大丈夫よ、藤吉。すぐ……良くなるから」

「こりゃあ、はよう医者に診せた方が良かよ。ハッさん、なんとかならんのん?」

「……」


 オフィーリアは知枝に詰め寄られるが、黙り込んでしまう。庶民を診る町医は資格や免許も無い上に、巨額の医療費を要求されるので安易に頼れない時代背景がある。だからこそ知枝は、外国の医者を親子に勧めたいのだろう。


「チエ、無理な相談をするな。商館員というのは利益が無ければ動かない、個人的な頼み事など聞き入れてくれると思えん」

「ああ、そうやね。商人ってそういうモンやもんなぁ?」

「……すまない」


 オフィーリアは謝罪して、複雑な表情をする。知枝はその言葉の意味を飲み込み、反論はせずに母親に抱き抱えられた藤吉に近付いた。咳と目の充血は本人にとって辛いものであるが、直ぐにでも死に至るものではない。


「オラじゃ、完全に治してやれねぇが……。軽くしてやる事は出来るべ」

「チエ? 貴様、何を——」

「ハッさん。オラ、市場に欲しいものがあるだ。商人と話付けてくれねが?」


 知枝はそう言って、真剣な眼差しをオフィーリアに突きつけた。しかし、それも我儘な頼み事でしかない。貨幣制度が徳川家康によって統一されても、毎日のように相場が変わるのが商の世界。品物一つ手に入れるにも慎重に行動しなければならない。


「好き勝手言うんじゃない、商館員としての立場が私にはある。そう簡単に売り買い出来ると思うな!」

「オラは、に言ってんよ。こんな事、あんたにしか頼めんのや」


 知枝の声色には信用が染み込んでいる。医者を連れてこいだの、買い物に付き合えだの言いたい放題だが、耳に入ってくる藤吉の咳が迷いを生む。幼少期に救われた恩義を知るオフィーリアに、苦しむ子供を見捨てる選択肢が上がってこないのだ。


「……けんど、ハッさんにも事情があるだ。これ以上、無理強いはしにゃーよ」

「チエ……」

「オラはこの子を放っとけね。一人でも、なんとかして助けてやるだ」


 商人の力を借りる手段を諦めた知枝は、親子に歩み寄って相談を持ち掛けた。その姿はオフィーリアの中にある商人固執を優しく取り除き、悔悟の情が心に渦巻いて落ち着かない。そして、引き止まっていた足が一歩動いた。


「——チエ。市場にある品で本当に、改善出来るのだろうな?」

「ハッさん?」

「貴様の言う通りにすれば、その子の苦痛を和らげられるのかと聞いている」


 オフィーリアの質問に、知枝の瞳が金色の彩光さいこうで輝く。江戸と戦国を新たな時代へと牽引していく世界貿易の支配者であり、挑戦者でもある商館員。目の前にいる少女は、異国の人である事を加味しても仲介役にしたいと思える存在だった。


「医者のようにいかねぇだが、今よりはマシになるとね」

「分かった、ジャックス商館長と松浦先生には私が話を付ける。だが、価値に見合った分の働きはしてもらうぞ」


 オフィーリアの命令口調を受けた知枝はニッコリと笑い返した。すぐ近くでそんな二人を見ていた藤吉の母親は、奇妙な友情に感化されて敵意がいつの間にか消え去っていた。

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