草に臥す
ザクザクザクと小松菜を刻む心地良い音がする。土間にある台所で調理を進めながら、留守番をしている知枝は玄関から漏れる夕日を浴びた。オフィーリアが出かけてから、二十四時間が経ったが未だに戻って来ていない。
「ハッさん……」
何をしに、どこに行ったのか知らされていない知枝は
そこにザッザッと足音が近付いてくる。吹き抜けだらけの江戸時代の民家は、外の音がよく聞こえる。知枝がなんとなく玄関を見つめると、何食わぬ顔でオフィーリアが帰宅した。
「今、戻ったぞ」
「ハッさぁん、遅いでぇ! 丸々十二刻も何処で何してただぁ!」
知枝は台所から離れないまま、声で主人に飛び付いた。一方オフィーリアは纏ったローブを下の間に投げ捨て、着物を脱ぎながら聞き流す。平戸港から安満岳は歩いて4時間〜5時間は掛かる。まともな地図も当時は無い上に外国商人という立場上、馬を使う事も無い為、移動に相当苦労しただろう。
「問題無く戻ると言っただろう、とにかく私は眠い」
「おわぁ⁉︎ 待て待てその前に飯だ!」
「いらない」
「だーかーらぁ! オラはハッさんに聞きたい事が山ほどあるだぁ、飯食いながら話すで!」
調理の手は緩めたくないのか言葉でしがみ付く知枝だが、オフィーリアは何も語らずに座敷に向かおうとする。しかしあえて今回の事で口を閉ざしているのは、国貞との約束を守るのと潜伏キリシタンの問題に巻き込まない為でもあるのだろう。
「
「あーッ! オラさ指図されんの嫌いだ、ほーらハッさん囲炉裏の前に座るだよ!」
「まったく、立場というものを弁えんか……何故、私と対等になろう、と……する?」
オフィーリアはウトウトしながら、手厳しく返事をする。貿易商人の見習いとして二年間、一人きりだった異国の自宅。しかし今は帰宅すると、いつも良い匂いがする、騒がしい誰かがいる。無礼な態度と微妙な働きをされても尚、心地良いのは何故なのか、商館員を目指す少女は問いかける。
「……マ、マ……」
ドバタァンッッ、床板を叩き付ける鈍い音は料理に集中していた知枝を振り返らせる。視線の先には、倒れているオフィーリアの姿。
「ハッさん⁉︎」
知枝は慌てて駆け寄り、仰向けの身体を揺する。ふと指がオフィーリアの首に触れると、異常な体温に驚いて額に手を当てた。二十四時間に及ぶ外出、寝不足、欠食、そして
「……すごい熱や。ハッさん、ハッさぁん!」
知枝が名前を呼ぶが、意識が朦朧としているオフィーリアには届いていない。耳が辛うじて何度も呼ばれる名前を掴むが、感覚が鈍って反応出来ない。その中でも、鮮明に働く思考は何の因果か、過去の記憶を重ね合わせた。
(私の名、前……、名は——)
オフィーリアの霞む視界にぼんやりと知枝の姿が見えるが、記憶によって他の誰かにすり替わる。あるはずの無いイギリスの懐かしい香りに包まれて、過去の松浦が話しかけてきた。
『——少女よ、名はなんという?』
(ワタシ、ナマエ、オフィーリア……ハリソン)
『日本語が出来るのか、驚いたな』
(ワタシ、オボエル——ママガホメテクレル、イロイロナクニノコトバ、マナンダ)
『日本語が出来る異国の人材は貴重だ。それにお主は聡明で優秀と聞く』
(カシコクナル、ミンナ、タスケラレル、ワタシハ——)
『某と共に日本へ渡り、国際貿易を学ぶべきだ』
(ニホン……ボウエキ?)
『家族を救うにはこれが確実であろう』
商談で成り上がる松浦の言いえて妙な言葉の数々にオフィーリアは惑わされる。しかしそれに悪巧みや思惑は一切存在しない、現状打破を求める方法として適切なのだ——お互いにとって。
『共に口火を切ようぞ、オフィーリアよ』
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