カート

わっか

第1話

 からからから、と夜遅くにカートを引く音がする。

 これからどこかへ向かうのか、または家に帰るのだろうか。



「お疲れ」

 バイト終わりの時間を見計らって、俺は黒川が働く居酒屋まで行った。

「白井、わざわざ迎えに来なくてもいいのに」

「コンビニ行くついでだし」

 右手に持ったコンビニの袋を見せる。本当はついでなのはコンビニに寄ることだったのだが。

 今日は黒川と俺の家で飲む約束をしていた。

 とはいえ黒川は下戸なので、飲むのは俺だけだ。

 黒川が来るのを待っていてもいいのだが、何となくそわそわして家を出てきてしまった。

「店長が試作品くれた。食べて感想くれって」

「おお。ありがと」

「本当に今日泊まってもいいのか?」

「俺は別に構わないけど。気ままな一人暮らしだし」

「学校も近いしいいよな。俺んちからだと一時間くらいかかるからなぁ」

 黒川も一人暮らしなのだが、家賃が安いからと、都心から離れた場所に住んでいる。

「いつ来てもいいよ。帰るの面倒くさいときとか泊まっていっていいし」

「天使か」 

 それ以来黒川は、バイト帰りに俺の家に寄るときは泊まっていくようになった。

 大学でも一緒にいることが少しずつ増えていって、黒川が隣にいることに違和感がなくなった気がする。


「染みるわぁ」

「味噌汁?」

 黒川が泊まった日の翌日は、大抵は黒川が朝食を作ってくれる。

 今日の朝は和食で、手作りの味噌汁が出てきた。

「普段インスタントばっかりだからさ。手作りの味噌汁の味を忘れてた」

「一人だとそうだよな。俺も普段インスタントばっかりだし」

「黒川って料理上手だよな」

「普通だろ。白井の料理もうまいよ」

「どうも」

 朝からお互いを褒め合って照れくさい。

 黒川は結構ストレートに人を褒める。それに影響されたのか、俺も正直に気持ちを話すようになっていた。

「あのさ」

 しばらく考えていたことを、今なら話せるような気がした。

「ん?」

「俺と、ここで一緒に住まない?」

「へっ?」

 黒川はポカンとした顔で、食べようとしていた卵焼きを味噌汁の中に落っことした。

「おわっ。卵が」

「部屋は空いてるし、大学も近いしさ。別に家賃もいらないし」

「何でそんなこと考えたんだ?」

 黒川の顔に困惑の表情が浮かんだので、俺は何だか焦って早口で喋った。

「それはだって、ほら。一人より二人分のご飯作る方が、合理的っていうか」

 黒川は黙って、味噌汁の中にある卵焼きを取り出す。

「ただ、楽しいかなぁと思ったから」

「時々泊まるのと、一緒に生活するのは全然違うだろ」

「そりゃそうだけど」

「家賃いらないとか、俺にとってはいい話だけど白井にとっては何のメリットもないじゃん。俺にはそれに見合うだけのものを返せない」

「何も返さなくていいよ」

「そんなわけにはいかないよ」

 それきり黒川は黙ってしまった。心なしか空気が重たい。

「保留ってことでどう?」 

「え」

「俺も急な話をしたと思うし、少し考えてみるってことで」

 断られる方向だなとは思ったが、時間がたてばまた気持ちが変わるかもしれないと考えた。

「保留」

「うん」

「……わかった」

 気まずい空気は戻らないまま、黒川は家に帰っていった。


「はぁ~」

「でっかいため息。どうした?」

 思い出してはため息をついていたら、友人の原が見かねて聞いてきた。

「いやぁ、ちょっとな。たいしたことない」

「ふぅん。食わないならその唐揚げくれよ」

 学食で注文したラーメンをあっという間に平らげた原は、俺がほとんど手をつけていない定食の唐揚げを指さした。

「どうぞどうぞ。全部やる」

「マジか! 重症じゃんか。振られたのか?」

「振らっ……! そんなんじゃない」

「そういう風に見えるけどな」

 振られたとかそんな話じゃない。俺はただ、同居の話を。

 そもそも何で黒川と一緒に住みたいなんて俺は考えるのか。

 友達だから。ただそれだけだ。でも。

 目の前の、唐揚げを頬張る原を見た。

「何だ? 唐揚げはもう俺のだぞ」

「いらねぇよ。それよりお前さ、俺と一緒に暮らしたいとか思う?」

「はぁ? お前俺と住みたいのか?」

「住みたかねぇよ。例え話」

「何の例えだよそれ。友達同士で住むって話?」

「そうそう。上手くいくと思う?」

「ん~。人によるよな。神経質な奴は向いてないかもな。仲良かったのに同居してみて仲が悪くなるとかあるかもだし」

「やっぱり揉めたりするのかな」

「かも。友達に限らず、夫婦とか恋人でもさ。暮らしてみて何か違うって思うことあるんじゃない。俺も結婚する前に同棲したいな」

「相手が見つかればな」

「うるせぇ」

 最後の唐揚げを頬張りながら、原はため息をついた。

「いいなぁ」

「何が?」

「出来たんだろ? 一緒に暮らしたいくらい好きな相手」

「えぇっ! まさか違うよ」

「まぁまぁ、隠すなって。お前の顔見てればわかる」

 何度否定しても原は取り合ってくれず、にやにやしながら去って行った。

 違うのに。そういうのじゃなくて。

 いや、好きなのは好きだけどそういう好きじゃなくって。

 友達として好きなのであって。

 原も友達だけどあいつと暮らしたいとは全然思わないが。

「はぁ……」

 今日何度目かのため息をついた。

 黒川とはあの日以来、ちゃんと話をする機会がない。

 こちらからは話しかけづらいし、黒川もそんな感じに見える。

「やっぱり、あんなこと言うんじゃなかったかな」


 からから、とかすかな音にはっとした。

 夜の十時過ぎ、勉強の息抜きに外へ出て少し歩いていた。

 音のする方を見ると、小柄なお婆さんがカートを杖代わりのように押して歩いている。

 最近夜に外へ出ると、よく見かけるお婆さんだった。近くに住んでいるのだろう。

 散歩なのか、用事があるのか。

 お年寄りが出歩くには、遅い時刻な気がする。

 無表情の顔からは、何の感情も読み取れない。

 一人暮らしなのだろうか。

 よけいなお世話だが、いろいろと妄想してしまう。

 こんな時間に外へ出ているのには、どんな理由があるのだろう。

 ゆっくり歩く後ろ姿を見て、寂しい気持ちになる。

 そこまで考えて、ぶるっと頭を振る。自己嫌悪に陥りそうだ。

 勝手に人の事情を想像して同情して。勝手なものだ。


 寂しいのは俺だ。

 母さんが死んでから一人暮らしになって五年は経つ。

 一人暮らしにも大分慣れたし、ずっと平気だった。

 それなのに最近は、黒川と過ごすことが増えたから思い出してしまった。

 人と一緒に過ごす安心感を。

 一緒にいてほっとするから。だから。

 だから一緒に暮らしたいなんて思ったんだろうか。

 自分の寂しさを埋めるために。

「そんなの俺の勝手な都合だよなぁ」


「白井?」

 声をかけられて振り向くと、黒川が立っていた。

「あれっ、何で。あ、今日バイトだった?」

 黒川のバイト先は俺の家から近い。

「あ、違う。ちょっと先輩の家で集まっててさ。その帰りで」

「ああ、そうなんだ」

 それ以上の言葉が思い浮かばない。やっぱりまだぎこちない空気が漂う。

 いたたまれなくなって、俺は退散することにした。

「あ、じゃあ……」

「アイス!」

「へっ?」 

「食わない?」

 黒川が、持っていたビニール袋を俺の目の前に掲げる。

 その顔は、何だか焦っているような、今まで見たことがない必死な顔だった。

「食う」

 俺が答えると、黒川はほっとしたように笑った。


「何でアイス? もう寒くなってきたのに」

 俺の家でお茶を飲むことになって、黒川に緑茶の入った湯飲みを渡した。

「俺、真冬でも食べるけど」

「えぇ~そうなんだ」

「でも白井だってアイス好きなんじゃない? めっちゃ嬉しそうな顔してる」 

「いや、それは」

 仕方ない。だって黒川が自分の好きなものを持ってきて一緒に食べようと言ってくれた。

「俺の家に行こうとしてた?」

 袋の中にはバニラ味のカップアイスが二つと、チョコレート。

 黒川は酒は飲めないが、その分よく食べるし甘いデザートも好きなようだ。

「あっと、まぁ。うん」

 黒川が少し気まずそうな顔をした。

「この前、俺感じ悪かったよなぁと思って。ずっと謝りたいと思ってたんだけど、言う機会逃してて。今日は近くまで来たから家に寄ってみようかなと」

「そっか」

「遅い時間にごめん」

「いつも来るのは遅い時間だろ」

「確かに」 

 ふは、と二人同時に笑い合った。

 アイスの甘さが体に染み渡る。

「この間の話、あれ忘れていいから」

「え」

「今まで通り、時々泊まったりとかで十分」

「俺が、感じ悪くて」

「そういうんじゃなくて」

 俺はふっと一息吐いた。

「俺んちって母子家庭でさ」

 突然の話題に黒川が少し目を見開いた。

「親父の顔なんて知らないし、写真もないし。いないのが普通で何の疑問もなくて。母さんは看護師でばりばり働いてて、夜いないことも多かったし」

 そこまで言ってうつむく。

「だから、小さい頃から一人でいるのには慣れてて。慣れてると思ってたんだけど」

 顔を上げると、黒川が真剣な顔で話を聞いていた。

「やっぱ寂しかったみたいだ」

「白井」

「何だかんだ理由言ったけど、結局はそういうことで。誰かにそばにいて欲しかった」

 俺は黒川の目をまっすぐに見た。

「ごめん」

「何がごめん?」

「甘ったれてるだろ。こんなの」

 黒川の顔が少し歪む。泣き出しそうにも見えた。

「全然。俺の方が」

「え?」

「俺の方が甘えてて……ごめん!」

「えっ? え?」 

 黒川が深く頭を下げたので驚いた。

「な、何で? 黒川は全然そんなことないだろ」

「同居の話をされたとき、同情されてんのかなって思った」

「同情?」

「俺、本当に全然金ないしさ。別にそれは、まだ学生だし仕方ないって思ってたんだけど。時々、金の心配しないで学生やってる奴らが羨ましくなったりしてて。そういう奴らに比べて俺はめちゃくちゃ頑張ってるってどこかでそう比べてもいて。でも、俺も白井の家に泊まらせてもらったり、色々甘えてるんだって気づいてさ」

「別に泊まるくらい甘えてないだろ」

「ご飯の食材は白井持ちだし」

「作ってくれてるじゃん」

「でも正直ご飯代浮いてるし、助かってるし」

 黒川は深いため息をついた。

「白井のこと、良いように利用してんじゃないかって思ったら、自分が恥ずかしくなった」

「そんなことないよ」

「そんなこと、あるんだ」

 黒川の悲しそう顔を見ていたら、俺も悲しい気持ちになってきた。

 いくらそんなことはない、と言っても黒川の心には響かないだろう。

 だったら。

「利用していいよ」

「へ?」

 ぽかんとした顔で黒川が俺を見る。

「俺のこと、利用してよ」

「何言ってんだ」

「負担になるくらい人に甘えるのは駄目かもしれないけど、俺は全然負担になってないし」

「でも」

「俺も利用させてもらう。黒川のこと」

 俺は黒川に、にやっと笑いかけた。

「時々、泊まっていって。寂しいから、さ」

 黒川は少し呆れたように口を一瞬開いて、何も言わずに閉じた。

「黒川?」

 返事を促すように顔をかしげると、黒川は両手で顔を覆った。

「……明日、バイト終わってから、泊まりに来てもいい?」 

 俺は思わずふはっと吹き出した。

「もちろん。喜んで」


「送らなくてもいいのに」

「ちょっと歩きたい気分だから」

 今日は帰るという黒川を、駅まで送っていくことにした。

 静まりかえった暗い住宅街を二人で歩く。

「そういえばさ、最近遅い時間に一人で歩いているお婆さんを見るんだよね」

「散歩?」

「そうなのかなぁ。俺も時々夜遅く歩いたりするけどさ、お年寄りの人が一人で散歩って珍しいかなと思うんだけど」 

「どんな感じの人?」

「ええと、小柄で、少し長めの髪を一つにまとめてて、カートを押しながらゆっくり歩いてる。買い物した帰りって感じでもなさそうなんだけど。その時間はスーパーも閉まってるし」

「……それって花柄のカートだったりして」

「え? あ、そうかも。そうだったかも」 

 暗い中見たのだが、でかい花柄模様のカートを押していた気がする。

「俺も何回か見たことあるかも。大分前の話だけど」 

「何時くらい?」

「俺が見たことあるのは、まだ夕方にもなってない頃だよ。バイト前にこの近くの図書館に寄ったときとかに見かけた」

「時間帯変えたのかな」

 黒川は少し考え込むように黙った。

「黒川?」

「明日、バイト終わる頃店まで来られる?」 

「うん? いいけど」

「少し散歩して帰ろう」


「見つかるまで?」

「うん」

「マジかぁ」 

 翌日、バイト終わりの黒川を店まで迎えに行ったら、昨日話したお婆さんを探してみようと提案された。

「疲れてないの?」

「そりゃ多少は。しばらく歩いて無理そうだったら諦めるから」

 何でそんなにそのお婆さんに興味が出たのか不思議だった。

 でもしばらく付き合うことにする。

「白井は夜に散歩するのが日課なの?」

「や、日課じゃなくて、たまに気分転換に。黒川はないの?」

「う~ん。目的もなく歩くのって苦手かな。外行くより家でゴロゴロしてたい」

「まぁ、その気持ちもわかる……ん?」

 かすかな音にはっとする。

 からから、という聞いたことのある音。

「黒川、あれ!」

 五十メートルほど先の民家の近くに、あのお婆さんがいた。

 黒川は、その姿を探すように目を細める。

「視力悪い?」

「いや、そんなことはないけど」

「もっと近づいてみようか」

 お婆さんの歩く速度は遅いので、ゆっくり歩いてもあっという間に間近に迫った。

 黒川の顔を伺うと、困ったように俺の顔を見た。

「で、どうする? 声をかけるのか?」

 お婆さんには聞こえないくらいの小声で聞いた。

「俺には見えないよ」

「えっ?」

「お婆さんの姿。俺には全然見えないんだけど」

「はぁ? まさかそんな。だってほら目の前に」

 今も目の前に。はっきりと。

 一瞬冗談を言っているのかと思ったが、黒川の顔は真剣だった。

「それってつまり……」

 遠ざかっていくお婆さんの後ろ姿を呆然と見つめた。


「う~ん」

 家に戻って、熱いお茶を飲んで一息つくことにした。

「本当は俺のこと、騙したりしてない?」

「ない。する意味もないし」

「だよな。いやでも」

 あんなにはっきり姿が見えていたのに。

 幽霊というものは、もっと霞んで見えたりするものじゃないのだろうか。

「いいなぁ。俺にはどうしたって見えないみたいなのに」

「羨ましがられても」

 どっちかというと俺はそういうものは見たくない。

「昔から、そういうの見るほうなの?」

「全然。あの母さんからの電話が、そういう心霊的な初めての体験かな」

「これからどんどん増えていったりして」

「怖いこと言うな」

「羨ましいなぁ」

 しみじみと言う黒川に、思わず苦笑する。

「それにしても、何で歩いてるんだろう」

「やっぱり散歩なんじゃないかな」

「死んだことに気づかずに?」

「生き霊っていう可能性も。どこかの病院で寝たきりになっていて、心だけが夜な夜な外に、とか」 

「おぉ」

 その考えはなかった。さすがホラー好き。

「まぁ、正解はわからないよね」

 黒川は少し残念そうだった。

 正解はわからない。確かにそうかもしれない。でも。

 知りたい。


 あれから夜に散歩することが増えた。

 またお婆さんを見かけないかと思ったのだ。

 でも今のところまだ見ていない。

 今日はバイト終わりに黒川が来ることになっていたけど、その前に少しだけと思って外へ出た。

「あっ」

 今日は歩いて五分も経たないうちに見つけた。

 見つけたらどうするなんて考えていなかったのだが、とりあえずすぐ近くの距離まで迫る。

 隣に移動して、お婆さんの顔を少しのぞき込んでみても無反応だった。

「俺のことは見えてないのかな」

 少し引き締めた唇。目は遙か遠くを見ているようで。

 歩く。ひたすら。

 どこへ行くのだろう。


 ポケットの中のスマホが震えて、見ると黒川から今から行くというメールがきていた。

「そんな時間か」

 少し考えてから返信する。

 黒川が来る時間に間に合わなかった時のために、鍵を玄関のすぐそばに置いてある植木鉢の下に隠しておいた。それを使って家に入ってほしいと伝えた。

 前方を歩くお婆さんを見つめる。

 どこへ行くのか確かめてみようと思った。


「おかえり。おはよう」

「……ただいま。おはよう」

 玄関に入ると、すぐ黒川が出てきた。

「疲れてるね」

「そりゃまぁ、朝まで歩いて」

 もう朝の六時前になっていた。

 ぐったりと、玄関の上がり框に腰を下ろす。

「一晩中歩いてるんだもんなぁ。元気だな」 

 あの後黒川から電話が来て、お婆さんの後をつけていることを説明していた。

「途中で消えちゃったの?」

「いや、それがどこかのアパートに入っていったんだよ」

 俺は黒川を見上げた。

「少し休んだら、そこへ行ってみようと思って。何かわかるかもしれないし」

「俺も行く。気になるし」

「授業は?」

「今日は三限からだから。それより白井、寝なくても大丈夫なのか?」

「一日くらいなら平気」

「ご飯食べる?」

「食べる!」

 急に元気になった俺を見て、黒川は笑った。


「やっぱり散歩だったの?」

「多分。途中でどこかに腰掛けたりしてたし。目的はない感じ」

 散歩というには長すぎる時間だが、外を歩くということが目的という感じだった。

「いつも一日中歩いていたのかな」

「そうかもしれない。ああ、あそこだよ」

 最後にお婆さんが入っていったアパートを指差す。

 案外、俺の家から十五分もかからない距離だった。

 四階建ての、少し年季の入った外観だ。

 入り口で立ち止まる。二人でアパートを見上げた。

「どこの部屋かまでは、わからないんだよなぁ」

 どうしたものか、としばらく立ちすくんでいるとアパートからゴミを持った年配の女性が出てきた。

 朝早くアパートの前に立つ俺たちを、不審そうにジロジロ見る。

「どうかされました?」

 ゴミを捨て終わってから、俺たちに声をかけてきた。

「あ、あの。もしかしたら知り合いがここに住んでいるんじゃないかと思って」 

「知り合い? どんな人?」

 話好きのおばさんのようだ。興味深そうに聞いてきた。

「お婆さんで、いつも花柄のカートを押して歩いていて」

「ああ! 木村のお婆ちゃんね。へぇ、あなたたちお婆ちゃんと知り合いだったの?」

「知り合いっていうか、よく街で見かけて時々喋ったり」

 喋ったことはないが、嘘をついた。

 見かけたことがあるだけで住んでいる場所を探すなんて、変に思われるだろう。

「人懐っこいお婆ちゃんだったものね。知らない人ともすぐに世間話したりして」

「最近、全然見なくなったから気になって。ここに住んでいるんですよね?」

「ああ、そうだったんだけどね」

 おばさんの顔が悲しそうに曇った。

「亡くなったのよ。二ヶ月は経ったかしらね。部屋の中で倒れていて、見つけたときにはもう亡くなってたの」

「そうだったんですか」

「一人暮らしだったからもっと発見が遅れそうなものだけど、お婆ちゃんの姿を見かけない日なんてなかったから、近所の人がおかしいなって思って様子を見に行ったのよ。だから亡くなってから一日も経ってなかったんじゃないかしら」

「家族の方は」

「それが、身寄りは誰もいなかったみたい。お婆ちゃんは家族の話はしなかったから、何となくそうかなとは思ってたんだけど」

 想定内とはいえ、少し寂しい話だった。

 おばさんに礼を言い、その場を離れた。

「想像通り、か」

 黒川がぽつりと呟く。

「まぁ、大体は」 

 しばらく無言で歩いた。

「記憶なのかな」

「何が?」

 俺がぼそっと言ったことに黒川が反応する。

「幽霊っていうより、人の生前の記憶の一部を見たって感じがしたからさ」 

 お婆さんの散歩。

 お婆さんに考える意思などがあるようには思えず、ただ記憶の一部を遠くから眺めているような感覚だった。

 日常に行っていた生活の一部分を。

「そっちの方がいいな。もし、成仏できないで彷徨っているって考えると悲しい気がする」

「そうだな」

 ふと、一軒の家の前を通り過ぎようとして思い出したことがあった。

 お婆さんは、立ち止まってしばらくこの家を眺めていた。

 明るくなった今、その理由がわかった。

 庭には一面に花が溢れていたのだ。

「綺麗だね」

 黒川が俺の隣に立ち、同じように庭を眺めた。

「お花、好きなの?」

 突然背後から声をかけられびっくりした。

 手に買い物袋を持ったおばさんが、にこにこ笑って俺たちを見ていた。

「はい、きれいだったから思わず立ち止まっちゃって。ここの家の人ですか?」

「そうなの。園芸が趣味で。褒められると嬉しいわ」 

「誰でも褒めると思いますよ。こんなに花が溢れているところ、あんまりないですから」

「ありがとう! 嬉しい。これ良かったら食べて」

 おばさんが袋から、クリームパンらしきものを二つ取り出し、俺の手に押しつけた。

「えっ、いいですよ。悪いです」

 慌てて返そうとしたが、おばさんはいいから、と手を振った。

「近くのパン屋さん、すっごくおいしいの。出来たてでたくさん買ったから遠慮しないで」

「はぁ」

 すごく明るいおばさんの対応に呆気にとられる。

「色々な人たちから、声をかけられるんじゃないですか」

 黒川がおばさんに話しかける。

「そうねぇ。私が庭で手入れしていると、よく褒めてもらうわね」

「あの、カートをいつも押して歩いているお婆さん、知ってますか?」

 もしかして交流があったのかもと思って聞いてみた。

「ええ、よく見かけたわ。最近は見てないんだけど、あのお婆ちゃん知っているの?」

「少しだけ」

「そうなの。あ、ちょっと待ってて」

 おばさんは何か思いついたように、奥に引っ込んだ。

 しばらくして、何本かの薔薇の切り花を持ってくる。鮮やかなピンク色をしていた。

「お婆ちゃんが咲くのを見たがっていた薔薇、今度会えたらもらってもらおうかなと思ってたのよね。良ければ届けてくれないかしら」

 そうして差し出された花を、受け取ることに躊躇した。

「あ、あの。実はお婆さんはもう……」

 さっき知った事実をおばさんに話すと、おばさんはしばらく無言になった。

「そう、もうこの庭見てもらえないのね」

 悲しそうに、自分の庭を見回す。

「家族は結構、花に無関心でね。だからお婆ちゃんが褒めてくれるのがすごく嬉しかった。何度か庭で一緒にお茶を飲んだりしたのよ」

 庭に備え付けているテーブルと椅子が目についた。

「お婆さんもすごく嬉しかったと思いますよ。こんな素敵な場所で、あなたとお茶を一緒に飲めて」

 実際には見たことのない光景が思い浮かぶ。

 お婆さんとおばさんが仲良くお茶を楽しんでいる。和やかな時間。

 俺がそう言うとおばさんは、そうだったらいいわね、と優しく微笑んだ。


「綺麗だな」

 家に向かいながら、切り花の薔薇を眺める。

 お婆さんの代わりに受け取ってほしいと、おばさんからもらった。

 家に花瓶はないので、コップに入れようかと考える。

「このパンうまいよ。まだ温かい」

 隣で黒川が、もらったパンを袋から出して食べていた。

 つられて俺もパンを一口頬張った。

「うまっ」

「だよな!」

 パンの中に程よく甘いクリームがぎっしり詰まっていた。

 甘いものを食べたせいか、少しほっとした気持ちになる。

「良かったよな」

「ん? パンの話?」

「じゃなくてさ。お婆さんにも、楽しいこととかあったみたいで。独り身だったかもしれないけど」

「そりゃまぁ、あるだろ。一人だって色々」

 黒川がポツリと呟き、口を閉じた。

「黒川?」

 様子が変わったかのように見えて、声を掛ける。黒川は立ち止まって俺を見た。

「俺さ、別に孤独であることが、悪いことだとは思ってなくて。ほら、誰かといるのが苦手な人もいるし。俺もどっちかっていうと一人でいるの好きだし」

「うん」

「自分で選択した結果で、孤独ならいいと思うけど。もしかしたらそうでない場合もあるのかなって思って。お婆さんがそうだったのかはわからないけど、自分で望んでいないのに、孤独だったのなら寂しいよな」 

「そうだな」

 誰でも寂しいという気持ちは、持っていると思う。

 埋まらない空洞みたいなものが胸にあって。

 ひたすら歩くお婆さんの映像が浮かぶ。

「だから探してたのかもな」

「何を?」

「誰か。自分と少しでも通じ合う人。相棒みたいな」

「あの年齢でも?」

「何歳でも、いつでも、誰かを求めているんじゃないかな。別に人じゃなくてもいいとは思うけど」

 この空洞を埋めてくれる何か。でもそれは。

「誰でもいいとか、何でもいいってわけではなくて」

 そう言って黒川の方を見る。

「上手く言えないけど」

 何かを探している。ずっと。

「だから、俺が黒川と一緒に住みたいって思ったのは。誰でもいいからってわけじゃなくて。えっと……」

 その後が続かない。いつのまにか自分の話になってしまっていた。

 俺が求めていたもの。探していたものは。

「奇跡みたいなもんだよな。それって」

「えっ?」

 ポカンとした俺に黒川は、にこっと笑いかける。

「一緒に住みたいと思う人に出会うのって」

 黒川は頷きながら残りのパンを一口で頬張った。

「前向きに考えてみるよ」

「何を?」

「同居の話。まずは泊まる日数を増やしてみるか」 

「そこは決定じゃないんだ? お試し?」

「俺、石橋を叩きまくって、渡れなくなるタイプだから」 

 二人とも吹き出して、笑い合った。

 素直に嬉しい、と思った。

 一緒にいてもいいか、と思ってくれたことに。

 俺が最初に黒川にそばにいてほしいと思ったのは、寂しさからだったのかもしれない。

 でも今は違うことを自覚する。


 そばにいてほしい。

 寂しいからじゃなくて。


 ただ君が愛しいからだ。 

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カート わっか @maruimono

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