そくおんびん・いち・いち・さん

石衣くもん

っっっっっっ

 俺がこの町に引っ越してきたのが小学校一年のときだったから、かれこれ約十年前。そして今現在、眼前でニコニコしているポニーテールが隣家に引っ越してきたのがその翌年。

 こいつと俺が仲良くなったのは出逢って二日後で、俺が一方的に恋に落ちたのはそっから四年程経った頃だったかなあ。  


 そうして片想いをそれなりに楽しんでいた、九年目の春。新たな引っ越し者がうちの裏にやってきた。

 綾小路、なんていかにもな名前で息子が一人。引っ越しの挨拶にどこぞのブランド品のタオルを配り歩くというセレブリティな一家に、始めは愛想良くしていた母親だったが、豪邸の壁は夏場は風を通さないうえに、冬場は微々たる日光も遮られる。

 我が家の真裏に建った町内で一番でっかいその家は、うちの二階のベランダの陽の光を奪っていった、にっくき敵と成り下がった。


 おかげ様で、洗濯物はいっつも生乾き。

 その所為で母親の機嫌は常々悪く、俺の衣服には嫌な臭いが年中つき纏う。

 それだけでも許せないちっちゃい心の持ち主が、その家のボンボンに自分の長年の想い人まで盗られたならば、勿論怒り狂うというのは想像に難くないだろう。


「ねぇねぇ、いっちゃん。聞いて聞いて」


 くるっと鬱陶しく自分の周りを回った彼女に、素っ気ない、あーという呻きで返答した。

 彼女は特にそれを気にすることなく、ご機嫌なまま言葉を紡ぐ。


「私ね、すっごいこと分かっちゃったんだ」

「なんだよ、うっせーなぁ」

「それ! それだよ」


 嬉しそうにそう宣った幼馴染みの所為で、ハテナの大群が襲ってきた。それを華麗に避けながらもう一度、なんだよ、と彼女に言った。


「あのね、いっちゃん」


 ちっちゃい『つ』を使って話すとね、なんでも可愛く聞こえるの。


 なんっじゃ、そら。


 それがたっぷり間をとって、溜めてから言うことなのか。

 やっぱりハテナから逃げきれなかった自分に、言った本人はというと、してやったりみたいなどや顔をしてるからなおいっそう腹が立つ。


「何言ってんのか意味わかんねえ」

「えー、わかんないかなぁ。うーんとね……じゃあ、あっち行けとあっち行ってなら、どっちが言われてイヤ?」

「そりゃ、あっち行けのが腹立つよ」

「ね、そうでしょ! それはちっちゃい『つ』を使うと可愛く聞こえるからなの」


 どういう理論だ、さっぱりわからん。

 ちっちゃい『つ』云々よりも、命令口調か否かの方に腹が立つ立たないがあるんじゃないか。


 それにそもそも、だからなんだという話だ。こいつは別に、自分に可愛いなどと思ってもらう必要はないのだから。 

 そんな捻くれたことを思いつつ、ついつい構ってしまう。

 我ながら未練がましいと分かっているのだが、人のものになったとてまだこの幼馴染みを諦めきれずに好いているということなのだろう。


「なんだよ。なら、くっせーとか、きったねーも可愛いと思うのか」

「それは元が可愛くないから、可愛くないよ」

「あっち行っても、元は可愛くないじゃんか」

「もー! 屁理屈ばっかり捏ねないでよ」


 そんなんじゃモテないぞぉ、とぶりっ子よろしく、つん。と額をつつかれたら、いやがおうにも眉間に皺が寄った。

 何故だろう。ぶりっ子ではなく、何か凄く気に入らない気持ちにさせるものがあって、そいつが屁理屈を後押ししてくるのだ。

 ムキになっているのに気づいてから更にむかっ腹。なんだこれは、是が非でも認めたくない。


「ならなにか。ちっちゃい『つ』が混じる言葉を話す奴なら、年齢性別かんけーなしで可愛く見えるってのか」

「そうだよ」


 そうだよ、ともう一回力強く言って、彼女は自分を見つめた。

 ああ、くそ。墓穴を掘った。みたいだ、でなく完全に。ここから彼女は自分にとって、きっとひどく残酷なことを言ってのけるだろう。


「いっちゃん、可愛い人、好きでしょ? だから」


 満久くんのことも、可愛いと思ってほしいんだ。そうしたら好きになってくれるでしょう。


 満久くん? ああ、俺から色々奪っていったあの憎ったらしいご近所さんの一人息子のことか。


「……あいつが、なんでここで出てくんだよ」

「満久くんね、友達ができなくって淋しがってるの。とっても面白い人なのよ。さっきのちっちゃい『つ』のことも満久くんと話してる時に気づいたんだから」


 沸々と湧き上がってくる感情に任せて、言葉を吐かせてやるのなら、台詞はもう決まっている。


 ――――なんっじゃ、そら。


「なんで俺があんなボンボン好きにならなきゃなんないんだ! お前が誰と付き合おうが、俺に何の関係がある? 俺はあんな奴、ぜっ、いや少したりとも好きになるもんか」


 何一つ感情を押し殺さず怒鳴ってやったら、どうしてそんなに怒るのと言わんばかりに吃驚している、鈍感な幼馴染み。

 ふざけたこと吐かしやがって。むしろ、誰よりもあいつのこと大嫌いだってんだ。

 絶対、好きになるもんかと言いかけて、「ぜったい」にちっちゃい「つ」が入っていることに気が付き、慌てて言い直すくらいに、自分はムキになっていた。


 腹立つ。馬鹿が。

 なんでよりにもよって、お前がそれを言うんだ。


 悪い予感ほど的中する。分かっていながら誤りの方ばかり選んでしまっては、後悔の念ばっかりだ。

 けど、今回に限っては。


「いっちゃん、ひどい、何でそんな酷いこと言うの」

「うるせー、うるせー」

「もう知らない、いっちゃんなんか大っ嫌いよ」


 こうやって幼馴染みとぎくしゃくしてしまうのも、生乾きのシャツが怒りの発汗で更に素肌に纏わり付いて苛立つのも。


「全部あいつのせいだかんな、馬っ鹿野郎」


 ちっちゃい『つ』を織り交ぜて吐いた俺のこの悪態を、お前、まだ可愛いと言えるのか。


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