虹を見た日
「山になにがあるのですか?」
これは懐かしくて、宝石みたいな記憶。
夏がやってくる前の、遠い思い出。
ミカさんは、まだ一歳半になるユウくんを抱っこして、山を登っていた。
「山になにがあるのですか?」
汗を大量にかいているミカさんをよそに、ユウくんは涼しい顔で「ぷ」という意味不明な回答を返す。
古びた稲荷を通り過ぎ、竹藪の中にある石蔵を横目に登り続ける。山といっても、なだらかな小さな山。木より家の方が多く建っている。
──重い。そして、つらい。
仕事帰りからの保育園へお迎え。
疲れた身体に子どもの体重。そして、気になるのは残された家事のタスクだ。
だがしかし、なるべくは子どもの意見を受け入れたいと、ミカさんは思っていた。
イヤイヤ期、とは大人が名づけた言葉。
子どもからしたら、とミカさんは苛立つ気持ちを抑えて考える。
子どもからしたら、少しずつ広がる世界が面白いのだ。大人の常識ではやめてほしいイタズラでさえ、新しいこととして、ただ知りたいだけなのでは?──と。
危険な事以外は、一緒に付き合って行きたい。大人の都合は、この時期極力押し付けないでおこう、とそう思った。
山の上にはなにもなかった。
強いて言うなら、梨の木が沢山あった。そして、その隣を切り崩して、建売がたっていた。
抱っこから一向に動こうとしないユウくんを抱いたまま、下山する。なんとなく、別の道から帰ることにした。
その中腹で、虹が生まれる瞬間を見た。
夕暮れと青空の中間。
その色の中に、普段はない鮮やかな桃色。
それから、赤、黄、緑、青、紫と広がっていく。
虹は、大きなアーチをあっという間に作り上げた。
「きー! みぃー!」
覚えたての音をユウくんは発した。
黄色と緑だ。
「虹だよ」
と言ってみたけれど、そもそもミカさんは虹がどうして出来るのか知らない。
けれど知らない方が、美しいこともあるのではないかと思った。○○という現象で、虹が現れると知ってしまったら、その先の想像が消えてしまうような気がした。
「山の上には、虹があったね」
とミカさんたちは笑いあって、下山した。
腕の中で、ユウくんは何語かわからない言葉で歌を歌いはじめた。
家は虹の方角とは反対側だった。惜しみつつも、虹に背を向けると、絵画のような空が広がっていた。
額縁から出てきたような、空。
水を含んだような空に、躍動的な雲。その雲を沈みかけている夕陽が、薄いオレンジ色に染めあげている。
なにもかもが、西に吸い込まれていくような空だった。
この空を見たら。
──ああ、私たち、宇宙の中にいるのだ。
と当たり前のようなことをミカさんは思った。
宇宙の中の、丸い星。その中で暮らす、ちっぽけなミカさんたち。
宇宙は大きい、悩みなんて小さいものだなんて、よく聞くけれど。
そんな事に気がついても悩みは大きく、ずっと存在する。毎日疲れてばかり。
特別なことはいらないけれど、たまにはこういう現象に出会ってもいい。
ただただ、理由のない美しいものに出会いたい。
それだけで、今日はいい事あるかもと思えるから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます