30分だけのバカンス
『クローゼットの奥で眠るドレス
履かれる日を待つハイヒール
物語の脇役になって大分月日が経つ』
そんな冒頭ではじまるのは、宇多田ヒカルの「二時間だけのバカンス」という曲。椎名林檎と共に歌って話題になった曲だ。
お皿を洗いながら、ミカさんは「あれ?」と思う。
胸の奥がざらざらして、妙に悲しい。
なにかあった? と聞かれても、なにもないと答えるしかない。
けれど、目の前が急に見えなくなったような、さみしい不安。
そいつはしょっちゅう、付きまとってやって来る。
休みたい。
一人になる時間って、あったっけ。
そんな時に流れてくるのは、二時間だけのバカンスである。
二時間もバカンスがとれたら素敵だなと思うけれど、忙しい毎日には無理である。
今までは一人の時間があった。
通勤電車の中だ。たっぷり二十分。
本を読んだり、創作をしたり。
想像の中に逃げ込むことが出来た。
けれども今は、電車に乗るのはわずか二分足らず。
ミカさんは、勇気を振り絞ってケイさんにお願いをした。
「よもぎ蒸しに行ってきてもいい?」
そもそもなんでお願いしないと、母親は外に出れないわけ?
なんて、ささくれた心のミカさんは妙に悔しくて涙を浮かべた。
──というわけなのでありますよ。
『ふうん。どうりで、最近ぼくの出番が多いわけだ』
そう言って、旅人は足を組んだ。
『それはいったい、どういう格好なの?』
旅人はミカさんを眺める。
旅人の前にいるミカさんは、頭からスッポリとマントを被っているので、どこに顔があるのかわからない。両手でだけがニョッキっと出ていて、変な生き物のようである。
『擬人化したタマネギみたい』
──解説しますとね。
──私が今座っている椅子の下では、よもぎの葉を蒸されて、蒸気を出しています。その蒸気を逃さないためにこうして、頭からスッポリマントを被っているのですよ。
『ふうん』
──サウナみたいなもんって思ってもらえれば……。銭湯に通うのは時間がかかるもので……。
『それで、一人の時間はとれそうなの?』
──三十分は。ここは家から近いしちょうどいい!
──でもね。せっかく一人になったのに、考えちゃうんだ。
『例えば?』
──このあとスーパー寄って、醤油買わないととか。
『うん』
──明日は経費の支払い締め日ですよとか。
『うん』
──バカンスは三十分しかないのに、結局日常がつきまとってきちゃう。
──なにも考えないって、どうしたらいいんだろう?
『君はどうしたらバカンスにたどりつけると?』
──日常から離れて、一人でやりたいことをする。日常のあれやこれやから離れたい。
──でも頭に浮かんでくる雑念って、日常のまだ出来ていないタスクのことが多いから、余計に頭が疲れる。
──それに、一人でこんなところに来ている自分にも罪悪感。
『なにも考えないというのは、今の君には無理だね』
──むむ。
『むしろ、浮かんできた日常のことを「そうだよね、わかるよ」って認めてあげることが必要だと思うよ、ぼくは』
──肯定するってこと?
『そう。だって、君はいつも「もっとがんばらなきゃ」精神でしょ? いつになったら「がんばってきたよね」って自分に言ってあげるの?』
──目から鱗が生産されちゃった。
「いってきます」を告げるように、日常にいるミカさんに「そうだよね、いつもがんばってきたよね」とミカさんが、ハグをしてあげないといけないのだ。
自分を大切に出来ないと、他人も大切にできない。
自分を大切に思うことが、心に余白をうむ。
それは、きっとバカンスだ。
生まれた真っ白な余白こそが、ミカさんが欲しかったもの。
バカンスは作り出すものだ。
なにも沖縄やハワイに行かなくても、いいのだ。
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